茜色の空

 

第1章 

あたしはプロレスラーなんだ

 

第1話

 

ストローでジュースをかき回し、出来上がる水面の波を茜はぼうっと見つめていた。3日経ってもいまだに喪失感で心は満たされている。何をしようにも気持ちが乗らず、出るのはため息ばかりだった。

ため息をついては思い出す。団体のエース豊川菜美江の言葉。新日本女子プロレス興行最後の日、メインイベントが終わるとリングの上には新女のレスラーが終結し、豊川菜美江が締めくくりの挨拶をした。

「新女は今日で解散します。でも、新女の熱き魂は私たち一人一人の中にあります。これからは私たちが新女です。新女の興行はなくなっても私たちがリングに上がり続けるかぎり新女は消えません。そして、もう一度新女の興行を打つ日が来る時まで闘い続けます。ありがとうございました!」

 客席からはどっと拍手が沸き起こった。それはちょっと悲しげな音色のように聞こえた。新女コール、豊川コールが止まない。

 茜はその時、リングサイドで涙していた。涙を何度も拭きながらリングに上がっている先輩たちの姿を見つめ続けていた。目に焼き付けなければならない。この日のことを決して忘れてはいけない。

 しかし、その時決め込んだ決意が強すぎたせいか、忘れないどころか、思い出してばかりだ。

気が緩み、ぽろりと涙が零れ落ちる。

あ〜駄目だ、豊川さんの言葉を思い出すだけで涙が出ちゃう。

茜は涙をテーブルに置かれていた紙で拭った。これから人と会うっていうのに何涙流してるんだろあたしは・・

 涙を拭き終え前を見て、茜はぎょっとした。

「いっいつからそこにいたんですか」

 目の前に座っている男が気に留めることもなく

 「たった今だよ」

とひょうひょうと答える。男の名前は松浪幸一。23歳前後の優男といった感じだ。彼から昨日突然の電話を受け、茜は会うことになった。

昨日、電話を貰った時は、彼から告げられた身分にはびっくりしたものだ。新女プロレス社長の息子なのだから。その社長の息子から何のために呼び出されたのか、いまだに皆目検討もつかない。

幸一がウェイトレスに注文を告げるとこちらを向いた。

「もういいかい?」

「はい。どうぞ」

恐縮そうに茜は答えた。

「そんなにかしこまることなんてないよ。社長の息子だからって僕はまだ23歳の若造だ。君と年齢もさほど変わらないだろう。敬語じゃなくてもいいくらいさ」

 社長の息子だというのに偉そうにしている素振りはまったく見せない。だからといって、その言葉遣いは若造にしては、落ち着きすぎていて、ちょっと不気味だった。茜は警戒心を持ちつつも、溜め語で答えることにした。窮屈なのは苦手だ。相手が敬語じゃなくていいのなら遠慮する必要なんてない。

 「うん、分かった」

「じゃあ早速用件に入ろう。君も知ってのとおり、新日本女子プロレスは三日前に解散した。負債は6億にも上るらしい」

 途方もない額に、茜は改めて団体の運営が厳しかったことを思い出す。茜の給料は月1万円だった。きつい練習や雑用をこなして、高校生の小遣いと変わらない額しか貰えないのだからたまったものではない。プロレスへの愛が試される額だといっていい。

 「つまり、うちの親父は6億もの借金を背負ってしまった。これは実に厳しいよ。親父ももう60を過ぎている。女子プロレス事態が衰退している今、プロレス界で親父をひろってくれるところはないにちがいないよ。まして、新団体なんて夢のまた夢だ。親父にできることといえば、新女の暴露本を出すことくらいだ。それでも5000万円程度の稼ぎしか出せないだろうね。残り5億5000万円をどうするか?」

 話を振られても茜はう〜んと首をひねることくらいしか出来なかった。社長には同情するが、自業自得でもある。それよりも、そんな借金話をまだデビューもしてなかった練習生のあたしに話してどうする気なんだろう。

茜は怪訝に幸一を見た。

 「親父は借金ほとんど返せないで死ぬんだろうね。でも、親父のことはいいんだ。それより親父が死んだその後だ。親父の借金は僕が払わなければならない。これは切実な問題だよ」

 幸一は同情を誘うように困った風に言葉を締めくくった。

 たしかに切実な問題だ。だからといって、やはり、浮かぶのはあたしにそんな話をしてどうする気なんだろうという思いだった。

 「ところで君は日本人に一番知られている現役プロレスラーが誰か知っているかい?」

 突拍子もなく話題が変わり、茜は面を食らった。ホントに何がなんだか分からない。分からないまま、とりあえずは考えてみることにした。借金話よりもよっぽど興味ある話題でもあるし。

 「長州力」

 「理由は?」

 「なんとなくだけど、目指しているレスラーの一人でもあるからかな。闘い方は、アグレッシブだし、革命戦士だなんてカッコいいし」

 「残念だけど長州力じゃない」

 むうっ残念だと茜は思った。いい線いってると思うのにじゃあ正解は誰なんだろう。

 「ボブ・サップ」

 正解を聞いてがっかりした。と同時に長州力の答えを否定されたことにむっとしてきた。

 「ボブ・サップはレスラーじゃないじゃない。今はK-1戦士でしょ」

 「今はプロレス休業してるだけさ。オファーがあれば、また彼はプロレスのリングに上がる」

 「巡業に参加してこそプロレスラーでしょ」

 「それは君が勝手に決めているプロレスラーの理想像だ。プロレスラーの定義は幅広い。というよりもね、プロレスラーの肩書きを皆使いたがるんだよ。だから、自称プロレスラーは、君が思っているよりも多いんだ」

 「サップも自称プロレスラーってこと?」

 「サップはもうプロレスラーの肩書きを必要としないほどの世間の指示を受けてしまった。だが、彼が世間から認知されるのにプロレスラーという肩書きは大いに役立った」

「んむぅ・・」

 なんだか、無理やり言い含められた感じがして、納得できない。茜は憮然とした表情をする。

「つまり、サップのやり方を見習うのなら、プロレスラーとして世間から圧倒的な支持を集めるには、格闘技のリングで勝つことが必要なんだ。しかも、チャンピオン相手に」

その言い分は分かる気がしなくもないと茜は相槌を打った。

「そういうことなんだ。そこで本題に入るよ。栗原君、女子ボクシングのリングに上がる気はないかい?」

 茜は目を丸くした。

「あたしがっ・・女子ボクシングぅぅ〜」

 幸一は無言で頷く。

 「本気で言ってるの?」

 「本気だよ。君が女子ボクシングの世界チャンピオンになれば、新日本女子プロレスが最強であることが証明される。そうなれば、また、ファンは戻ってくる。新女復活も夢じゃなくなってくるんだよ」

「でも、あたしが目指してるのはプロレスラー。ボクシングなんて興味ないし、あたしがやりたいのはプロレスなんだよっ」

「今の時代、プロレス団体は、レスラーがプロレスだけしていれば生き残れるわけじゃない。それは男子の団体を見ていれば分かるだろう。プロレスラーが最強であることを証明する必要があるんだよ」

「でも・・」

突然のことで頭の中を整理できないでいた。何よりおぼっちゃんの夢物語な気がしてならないし、他にも気がかりが沢山あるような気がする。

「あたしがチャンピオンになったからって新女が復活するとはかぎらないし・・」

「しかし、何もしないのなら新女が復活する可能性はゼロだ。君には自身の力で新女を復活させようって気概あるだろ?君は新女のレスラーだ。新女がなくなっても君の中にある新女の魂は不滅だって信じてるよ」

新女の魂・・・

そうだ、あたしの中には新女の魂がある。そして、新女のレスラーであるかぎり、新日本女子プロレスを復活させなきゃいけないんだ。

「うん、分かった。その話乗ってもいいよ」

 幸一はぱんと掌を叩いた。

 「そうそう。そうこなくちゃね。じゃあ、次のステップにいこう」

 幸一はコーヒーを一口含み、一息つく。コーヒーを置き、続きが始まった。

「たしかにプロレスラーが女子ボクシングのリングに上がれば話題に上る。しかし、君は練習生のままリングに上がることはなかった。プロレスラーともいえないし、知名度もゼロだ。そこでこのマスクをつけてもらうことにする」

幸一がバッグの中を探る。出てきたものを見て、茜は目を見開いた。幸一が手にしているのは、ファントムキャットのマスクだ。ファントムキャットは新女のレスラーであり、ジュニアのチャンピオンでもあった。新女でも看板レスラーの一人にあたる。

「このマスクをつけてリングに上がれば注目度は抜群だ。もちろん、試合の時ははずしてもらうけどね」

 幸一は自分で言いながら笑った。

「ファントムキャットのマスクって・・・ファントムキャット先輩に出て欲しいのなら本人に頼めばいいじゃない?なんであたしなの?」

そう言って、気がかりだったことに気づいた。幸一の狙いになぜ、自分が選ばれたのかということだ。あたしはデビューすらしてない練習生なのに、新女復活の大事な役割を担うなんて。

「ファントムキャットには先にこの話を持ち込んだんだ。でも、彼女はもう現役を引退するらしい。ファントムキャットのマスクが欲しいのなら譲ると言っていたよ」

「そんなっファントムキャット先輩が引退・・なんで・・」

「女としての幸せを選んだんだ」

「え・・・」

嫌な言葉が頭をよぎる。

「そう、結婚だよ。結婚して引退、よくある話だよね」

「まさか、ファントムキャット先輩が結婚で引退なんて・・」

 がつんと金属バットで打たれたかのような衝撃が頭を襲った。

「そこで、君にはファントムキャットの正体になって欲しい。つまり、ファントムキャットが正体を明かし、素顔の姿で女子ボクシングのリングに参戦するんだ。これでマスコミからも注目を受けることになる。どう?このマスクを受け継ぐ気になれる?」

「なんであたしなの?他にも代わりはいるじゃない」

「君じゃなければ駄目なんだ。デビューしている選手じゃ顔が知られている。練習生の中でファントムキャットの体格にあって美形だったのは、君だけだっただからだ」

「なんだ・・あたしの才能を買ってじゃないんだ・・」

期待していた言葉は出てこなかった。話の裏を知って、がっくりきた。

「僕に誰が才能があるかなんてわからない。出来るのは切符を上げることくらいだよ。それに才能は買われるもんじゃない。信じるもんだ。さぁ、切符に乗るかどうかどっちだい?」

才能は買われるもんじゃない。信じるものか・・・。

あたしはこれまで一度も才能を買われたことはない。同期の練習生の中では、解散までにデビューした娘もいる。同期の中で一番才能があったわけじゃないんだ。才能に秀でてないことは十分承知していた。それでも、チャンピオンになれると自分を信じて努力し続けていた。それは、これからも変わらない。せめて自分だけは信じなきゃいけないんだ。

 「切符に乗る」

 そう言って、茜は幸一の右手を両手で握った。

にっこりと笑った幸一は、バッグから白い紙を出して目の前に置いた。

 「これにサインしてくれるかな?今日から僕が君のマネージャーだ」

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