第5話

 

 ゴングが鳴り響いた。

 茜は背をロープにもたらせ、だるそうに天を仰いでいた。

 「また命拾いしたじゃない。馬鹿みたいに体だけは頑丈なんだから」

 こけにした玲子の声が耳に届き、顎を引くが、もうその時には玲子の姿は目の前から消え去っていた。

 コーナーに戻らないと思うものの、極端に狭くなった視界のせいで、コーナーが目に入らない。

 きょろきょろと挙動不審のように首を回すものの、遠くが見え辛く、キャンバスしか視界の中に入ってこない。

 右目は潰され、完全に視界が遮られており、左目もほとんどを腫れ上がった瞼が覆い被さっていた。

 「大丈夫か茜」

 会長の声が届き、右腕を肩に回してもらう。会長に体を預け、ようやくコーナーへと帰ることができた。

 「もう止めてくれぇぇファントムキャット。十分闘ったぞ〜」

 ファンの懇願らしき声が耳に届く。

 十分闘ったのかな・・・

 新女の代表としてあたし・・十分闘えたかな・・

 「もう止めてもいいんだぞ、茜」

 いつものような厳しさが消えた会長の言葉だった。

 豊川さんたちも許してくれるかな・・

 “新女の熱き魂は私たち一人一人の中にあります”

 豊川さんの言葉が頭の中で反響する。

 新女の魂があたしの中にもある。

 新女の魂は・・決して屈しない魂だ。

 何が十分闘ったんだ。あたしは新女のプロレスラー。体が動くかぎり、目の前の敵から逃げ出すことなんて出来ない。

 「あたしはまだやります」

 茜は精一杯声を振り絞り答えた。

 「そのとおりだよ」

 答えたのは会長ではない。

幸一だった。

 「新女のレスラーならここで闘いを止めはしない」

 茜はリングサイドに立つ幸一を見る。

「茜一つ大事なことを忘れてないかい。レスラーは2つの拳だけで闘うんじゃない」

 「何言ってるのよ・・ボクシングで蹴り出したら反則になることくらい分かってるでしょ」

 「このリングの上の空間、すべてがレスラーにとって道具になるんだよ」

 「言ってることがわからないよ」

 「分からなくても体が反応するはずさ。むしろ、何も考えていない方がいい。君はボクシングのリングだからって堅苦しく考えすぎだ」

 幸一の言ってることがさっぱり理解できなかった。ううん、気にしちゃ駄目。幸一は素人なんだから。

 茜は椅子から立ち上がる。

 最終Rのゴングが鳴った。茜は前に出て行く。玲子もダッシュして距離を詰めてきたが、その姿はすぐに視界からいなくなった。

 どこからパンチが飛んでくるか分からない恐怖に茜の心臓が跳ね上がる。

 すぐさま、頬に強烈な痛みが襲ってきた。

 体勢を崩すものの、なんとか踏ん張りこらえる。

 目の前まで距離を詰めていた玲子に向ったフックを放つも下をかいくぐられる。

 ドボォォォッ!!

 「ぶうぇぇぇっ!!」

 玲子のボディブローで茜の体がくの字に折れ曲がる。

 思わず口が開き、唾液が飛び散っていく。

ボディを襲う強烈な痛みに胃が口から飛び出そうな思いだった。内股になった両足ががくがくと震える。

 「醜い上に汚らしいのよ」

  もう1発ボディにパンチが食い込んだ。

 「ぶおぉぉぉっ!!」

 茜の開いた口の両端からだらだらと唾液が垂れ落ちる。

 「いたぶるのももう疲れた。再起不能にでもなれば?」

 玲子が膝を曲げた。その動作は大きな隙を作ると同時に大きな力も溜め込んだ。茜に動作の隙を突く気配は見られない。玲子が溜めた力を右拳に乗せて上空へと突き上げていく。

 玲子の打ち放ったアッパーカットが茜の顔面にめり込むと、茜の顔面が悲鳴の音を上げる。

 グワシャァァッ!!

 打ち抜いた拳が、茜の顔面を真上へ弾き飛ばす。

 茜の顔面からは、玲子の予告、再起不能を現実のものと思わせるに十分なほどの大量の血が噴き上がった。

 血反吐が大半を占めていたが、鼻血も尋常じゃない量を含んでいる。茜の鼻は玲子のアッパーカットによって破壊されたのだ。

 茜は顔から血を撒き散らしながら体があたかも泥酔者のように体が回っていく。くるりと反転し、玲子から背く形になると、目の前にはコーナーポストがあった。

 このままだとコーナーポストに顔がぶつかる。

 そう思った時だった。

 閃きが突如として茜の頭を支配する。

 次の瞬間には体が動いていた。

 茜はコーナーポストを左足で蹴り、その反動で玲子に向って行く。体ごと体重をかけてパンチを玲子の顔面にぶちこむ。

 グワシャァッ!!

 玲子の体が吹き飛びキャンバスを衝突事故が起きたかの勢いで滑っていく。コーナーポストを蹴り上げた反動、そして、振り向いて打った体の回転が凄まじい威力を生み出していた。

 玲子は微動だにしない。それどころか、白目を向いて痙攣している。

 勝負は決まったかのように見えた。

 レフェリーはなかなかカウントを取ろうとしない。

 辛うじて立っている茜は、もどかしく思いながらレフェリーの行動を待つ。

カウントを取るのか試合を止めるのか。

 ようやくレフェリーが立ち上がり、茜の方を向く。

 レフェリーの口から勝敗が言い渡された。

 「栗原茜反則負け!」


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