最終話

 

Epilogue

 

 薫はにやけた顔でテレビを見ていた。見ているといっても内容はほとんど頭に入っていないに違いない。初勝利の味に今も酔っているのだ、きっと。

英三が御見舞いに病室へと訪れた後、薫は体を前に乗り出して機関銃のごとく勢いで昨日の激戦を熱く語り始めた。試合で味わった苦しみや初勝利を得た喜び。要は自慢話というやつだが、ボクシングを熱く語る薫の顔は良い表情ではあった。

薫は一通り喋り終えると前のめりになっていた体をまた壁に預けた。昨日のも疲れもまだ残っているのだろう。何百発とパンチを受けた薫の顔面は昨日以上に腫れが酷くなり、瞼も頬もぱんぱんに腫れあがり、湿布と絆創膏があちらこちらに貼られている。

 それでも体はどこも異常がなく、大きな白い絆創膏が貼られ見てるだけで痛々しい鼻も骨は折れていなかった。明日には退院もできることになっている。

 薫のにやけた顔がぽかんと口を開くようになり、途端すぐに眉が釣り上がった。

 英三は後ろを振り向く。そこには和泉キョウコの姿があった。

 薫同様に腫れ上がったその顔は試合の時と変わらず厳しいものだった。

 「体は大丈夫でしたか?」

 「大事にはなってないよ。そっちこそどうなの?」

 「ご心配なく」

 「そう・・」

 それで二人の会話は止まった。重い空気に英三は早くも息が詰まりそうになった。

 またキョウコが切り出した。

 「私はこれまでに6人のボクサーをKOしました。昨日の試合あなたには私が倒してきたどの相手よりも遥かに多くのパンチをその体に打ち込んだつもりです。それなのにあなたは何度も立ち上がってきた。あなたを立ち上がらせるものとは何なのですか?」

 「昨日の試合が自分にとって最後の試合になるかもしれなかった。次があるなんて保障はないだろ、特に女子ボクサーは。そう考えたら簡単には負けられないよ。一戦一戦を悔いのない試合にしなきゃ」

 「私は思い違いをしていたようです。あなたのことを2世ボクサーだからと苦労を知らない温室育ちの人間だと決め付けていた。しかし、あなたと私は似た者同士なのかもしれない・・・」

 キョウコは頭を下げた。

「私はあなたにお詫びしなければならない」

 「頭上げてよ」

 薫の言葉にキョウコは反応し二人は再び対面した。試合の時のような緊張感がお互いの顔に含んでいる。

 「オレだって和泉が譲れない思いを胸に秘めて試合に挑んでいたことは分かってた。パンチを当てても当ててもなかなか倒れてくれない。逆にちょっとでも気を抜くとこっちがダウンを奪われてた。あれだけの打ち合いをしたんだ。試合の途中から憎い気持ちなんてどうでもよくなってたよ」

 薫が壁に寄りかけていた体を立てた。

 「だから、さっ」

 薫は右手を差し出した。

 「試合の後はこれだよね」

 と言って笑みを浮かべた。

キョウコの氷のような表情が熔け、笑顔がこぼれる。キョウコの右手も右手を差し出した。

 薫とキョウコはがっちりと握手をする。




 薫が手を離した。

 「左拳の状態は?」

 「これですか」

 キョウコが左手を顔の前に持ってきた。

「御承知のとおり、使い物になりません。今後も試合で使うことはないでしょう。それでも、私はリングに上がり続けます。片手しか使えないからといってチャンピオンになれないと思ったことは一度もない」

「ボクシングが好きなんだね」

 キョウコは表情を忘れた。ふっと笑う。

 「人から聞かれたのは初めてです。意識したこともなかったですね。ただ・・」

 キョウコが背中を向けた。

 「ボクシングを続けるにおいてもっとも大切な思いなのかもしれませんね。では私はこれで失礼します。お大事に」

 キョウコはそう言い残して病室を出た。

 薫の方を見てみると充実した表情に変わっていた。

 「左手が使えないのにボクシングするんだもん。すごい奴だよ」

 「そうだな」

 「初めは憎らしい奴だと思ってたけど、闘えて良かったよ。それと」

 薫が英三の方に顔を向けた。

 「英三にも感謝してるよ」

 「なんだよ急に」

 「立てっ!!!!」

 薫が大声で叫んだ。突然のことに英三はびくっと心臓が跳ねた。動揺した英三の顔を見て薫は嬉しそうに笑った。

「って叫んでくれたろ。何度もさ。英三の声が聞こえてなかったら立ててなかったよ。あの時、意識が朦朧としててほとんどなかった。夢の世界から英三の声がオレを引っ張り出してくれたんだ」

 「大げさな奴だな」

 「ホントだって英三。それから、和泉がとどめで出したアッパーカット。あれも英三の声がなかったら気付けてなかった。あの時も恥ずかしいけど、意識が飛んでたんだ」

英三は頭を掻く。そうしながら感謝して嬉しそうに喋る薫の腫れ上がったアンバランスな顔をちらりと見つめ英三は複雑な表情を浮かべた。

 身近な人間がリング上でボコボコにされる姿を見ることほど辛いものもない。親父が現役時代に体験し、そして、薫がプロボクサーになり再び味わうはめになった。

 ただ、当時と違うことが一つだけある。

 親父の試合は観客として見守ることしかできなかった。リングが遠い存在だった。しかし、今はセコンドとして薫の側にいてやれる。声を出して少しでも力になってやれるのだ。

 英三は唇をすぼめた。

 「またセコンドについてやるか」

 「英三・・・」

 薫が英三の顔を見つめる。眉が下がり、顔が汐らしくなっていく。

 と思ったのは気のせいだった。

薫は胸を張って言った。

 「何言ってんだよ。当たり前だろ」

肩透かしを食らったような気分だ。

 「そうなのか」

 「世界チャンピオンになるまでずっとね」 

 「ながっ」

 「目標はでかくないとね。英三だって世界チャンピオン目指してるんだろ」

 自分は世界チャンピオンを目指しているのだろうか?

 薫の言葉に英三は真面目に考えた。前も薫に同じことを聞かれいい加減に頷いた。しかし、今は僅かな可能性に賭けてみるのも悪くない気がした。無謀だと思われた試合に勝った奴が目の前にいるのだから。

 「そんなところだなぁ」

 少し間を空けて英三は続けた。

 「なあ前に夢があるって言ったろ。あれって世界チャンピオンになることか?」

 「それもあるんだけどね。女子ボクシングをメジャーな競技として世間から認知されたいんだ。リングに上がりたくても上がれない悔しい思いは自分たちだけで十分だからね。そのために少しでも自分が頑張れたらって思ってるんだ」

 「良い心がけだね」

 年のいった女性の言葉に英三は病室の入口を振り向いた。

 日本ボクシング協会会長の下山媛子と下山睦月が立っていた。英三も薫も暫しの間ぽかんとしていた。キョウコそうだったが、この二人も意外といっていい来客であった。

「薫さんおめでとう」

睦月も痣が多少残っており左の瞼の上に絆創膏を張っているとはいえその柔らかい笑顔はまさに祝福に相応しいものがあった。辛気臭い病室の中だからこそ余計に眩しく感じられる。

「睦月こそおめでとう。すごい勝利だったって聞いてるよ」

「薫さんほどじゃないよ」

謙遜をした態度をみせる睦月だが、昨日の試合当人は5RでKO勝利を奪った。お互いがハードパンチャー同士で息の詰まる殴り合いだったらしい。序盤は手数で互角もパンチ力の差が出始めた3R以降、相手の選手は睦月のサンドバッグとなり下がりボコボコに打ちのめされたとは親父から聞いた話である。

 英三は椅子を二人に差し出して、媛子と睦月が椅子に座った。

 「睦月っ、一つ確認しておきたいことがあるんだ」

「なに薫さん?」

「オレ達が試合をした週に発売された雑誌のインタビューでまたオレと試合をしたいと言ったよね」

 薫の送る目線に睦月は頷く。

「その記事を見たとき、すごく嬉しかったんだ。でも、本気に受け止めちゃっていいのか?」

 「もちろん、そのつもりで受け止めてもらわないと」

 睦月はにこっと笑う。薫はそれには応えず頭を下げた。両手でシーツを握り締めている。

 「理由をさ・・教えて欲しいんだ。あの試合はっきりいってオレの完敗だったよ。オレはダウンを五度もしたのに睦月は最後まで立ち続けていた。決着は完全についたと思う。もちろん、オレはもう一度睦月と試合をして今度こそ勝ちたいと思ってるよ。でも、睦月にしたらそこまでオレにこだわる理由が分からないんだ。勝者は前へ進むもんじゃないか」

 「数字だけ見たらそうかもしれないけど、でも、あたしはシフトウィービングを破っていないから。もし、10R制で薫さんが強引に打ち合いにこなかったらまた違った結末になってたかもしれない。あたしはシフトウィービングを破って薫さんに勝ちたいんだよ」

 「そっか・・シフトウィービングかあ」

薫が顔を上げた。

「あれは親父のテクニックなんだ。だから、ちょっとやそっとじゃ破らせないよ」

 薫が笑顔を返した。

 「お父さんの・・・。それを聞いてなおさら、破りたくなってきた」

 「再戦の日までにシフトウィービングにもっと磨けをかけるよ。もっともっとボクサーとして成長するよ絶対に」

 「今度は8回戦じゃなくて10回戦で試合をしたいな。ベルトを賭けて」

 「いいね、それ。タイトルマッチじゃ負けないよ」

 「ううん、次もあたしが勝つ」

 「盛り上がってるね、2人とも」

 媛子は満足そうに言った。

 「二人とも良い勝利だったよ。また次の試合も期待してるよ」

 恐縮して薫は頭を下げた。

 「さてと、例の約束は覚えているかい?」

 薫はこくりと頷いた。

 「試合に勝てたら女子ボクシング協会を作ろうとした経緯を教えてくれる、ですね」 

媛子が頭を下げて頷きを見せる。戻された顔からはうっすらと笑みが浮かんでいた。

「戦後間もない頃の話さね」



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