あしたのジョーによろしく

〜1年A組タイトルマッチ〜

 

第1話

 

 サンドバッグの前に立ち、パンチを叩き込む。心地良い感触が拳に伝わり、心地良い音が響く。

未希は練習の中でもサンドバッグを叩くのが好きだった。パンチを当てるのがボクシングの醍醐味。それはミット打ちでもスパーリングでも味わえることである。

しかし、ミット打ちやスパーリングは相手に合わせなければならない。すべてを自分のリズムで動かすことはできない。それが窮屈なのだ。

けれど、サンドバッグなら向かい合ってじっくりと考えて打つことができる。

考えて練習をしろ。

それが会長の口癖である。基本だけは綿密に教え込み後は自主性に任せるのが会長の指導方針らしい。未希も口煩く言われるのは嫌いだったので会長のやり方には好感が持てた。

未希はサンドバッグに人体を浮かび上がらせる。ただ闇雲に打っても意味はない。サンドバッグを人間と想定して打たなければ人間を倒せるコンビネーションは身に付かない。

顔は嫌いなやつを置いてみた。あたしって意地悪だろうかと心の中で苦笑しながらも小泉の顔を浮び上げる。あいつほど性根の腐った女も珍しい。

未希は小泉の顔に100発ほどパンチを叩き込んだところでサンドバッグから離れた。

 「毎日ご苦労だね〜」

 横からかけられたのは、少女の声であった。もちろん、未希は顔を見なくても声の主が誰なのか分かる。

 毎日学校で顔を合わせているほどの馴染みのある声だからだ。声の主は聡美。ボクシングジム会長の娘であり、未希とは学校のクラスメートでもある。未希が聡美の親が経営するジムに通うになったのは、まったくの偶然であった。高校に入学してから2週間後に未希はジムの門を叩いた。入門初日のうちに偶然にも練習場に降りてきた聡美を出くわす。その時はお互いが驚きの表情を向け合ったものである。それまで聡美と話をしたことがなかった未希は以降聡美と親しい間柄になっていった。

 聡美は、ボクシングジムの娘であるが、ボクシングにはまったく関心を示していない。それが普通の女のこなのだと思う。ボクシングジムには特有の男臭さに溢れている。それは、汗の匂い、ワセリンの匂い、ボクシンググローブの皮の匂いなどが入り混じり作られたものだろう。男が持つ男臭さに興味を持たなければ普通は近寄りたいとは思わない。まして、自分がボクシングするなんてことは、よっぽど変わっているといえる。その変わった人間に未希は当たる。

 強くなりたい。

 およそ女子高生らしからぬ思いを未希は抱いている。強くなるために未希はボクシングをしている。いずれは、プロボクサーになりたいと思っていた。そのためにも今は、練習に邁進してプロでも負けない実力を身につけなければならなかった。

 「聡美か。珍しいねジムに来るなんて。でっ、冷やかしですかい」

 「まあね〜。で順調なのですかい?」

 「順調だよ、順調。晴れた日に傘持っていったらちょうど雨が降ったくらい順調だ」

「いや、全然わかんないけど」

 未希がボクシンググローブをはずし長椅子の上に投げ捨てた。

「でも、1人で練習に漬かっちゃってさ、もっと他のジムの人とも仲良くしたらいいのに」

「いいじゃないか。ストイックであってこそのボクサーってもんでしょうが」

「ストイックね〜。言葉って便利だこと。せっかく男ばっかなんだから未希の男嫌いを直せばいいのに」

「別に男嫌いなわけじゃないよ」

 未希は語気を強めて否定した。

「いつも男は馬鹿だ馬鹿だばっか言ってるじゃん。まあ年上の人とは話しづらいとは思うけど、同い年だってここにいるんだし」

「千石のこと言ってるのか?」

「別に彼だけじゃないけど」

 未希は頭を下げて首を振った。

「あれを見ろ聡美。ガキそのものじゃないか」

 顔で指した先には、あっち向いてホイをする少年二人の姿があった。2人とも17歳の高校生だ。

 流石に聡美もあちゃぁといった表情になった。

 「これだから学生の男なんて恐ろしいくらい心がガキなんだ」

 両手を腰につけた未希は頭を左右に振ると

 「というわけで練習に戻る」

 と言い、グローブを手にした。

聡美からは反応がなかった。気になった未希は聡美に顔を向けると、まだ千石達の方を見ていた。つられて未希も視線を向ける。

 「どうかしたの?」

 「ん〜・・千石君あっちホイ強いなって思って」

 「何の自慢にもならないよ」

 馬鹿馬鹿しいと思いグローブを両腕にはめる作業に移った。

 「今のところ5連勝。あっこれで6連勝だ」

 未希は気にも留めず、グローブのマジックテープを巻いた。

 

 

 体育館の床からドッジボールの弾の跳ねる音がよく響き渡る。心地の良い音だとは思えなかった。早く拾わなければならないという脅迫概念に迫られる作用があるのではないか。

体育の授業はドッジボールであった。

 未希はドッジボールが嫌いだった。いや、ある人間達によって嫌いになってしまった。

 未希の通う鐘姫学園は、6月に球技大会が行われる。鐘姫学園は、お嬢様学校として名を馳せている女子高であり、世間とは感覚のズレがあった。球技大会に一生懸命になることは、正しい学生の姿であろう。ただ、その度合いがとてつもなく大きいというか、恐ろしいというか、ともかく、球技大会が近づくとクラスの名誉がかけられているといった空気に包まれる。少なくとも同学年では一位にならなければならない。他のクラスに遅れをとってはならない、とまるでオリンピックのような雰囲気になる。

それは、どうも、中等部から上がってきた人達が作っているらしい。つまりは、学園の伝統に可哀相なことに染まってしまった人達なのだ。

球技大会にはクラスの名誉がかけられている。

そういった考えは、中等部あるいは、初等部の頃から受け継がれているのである。全校生徒の9割が中等部から上がってきた内部組で占められていては、この空気に太刀打ちできるはずもなく、高等部からの入学組は、不承不承内部組に合わせるしかなくなる。

つまりは、馬鹿らしいなどとはとても言えないのである。

もちろん、面倒なことが嫌な未希も本音を口に出すことはなく、勝たなければならないという空気にまいっていために適当に球技大会を流そうと思っていたのだが、不幸にも4月早々に行われた身体測定で背筋力クラス内1位の数字を出してしまったがためにクラスメートの小泉グループに目をかけられるはめになってしまった。

彼女たちは未希をドッジボールで私たちと組もうと勧誘した。

それは、半ば入りなさいよという命令に近かった。

すでにクラスの中心グループになっていた小泉一派に誘われたのだから、高等部から入学した外部組が内部組から誘われたのだから、これほど名誉なことはない。

そう言いたげな小泉達の喋り方であった。

未希は、血管をぴくぴくさせながらも丁重に断った。

 信じられない生き物を見ているかのような視線で未希を見る小泉は、球技大会の重要性を力説し始めた。

 つまりは、球技大会を軽く見るなという御説教である。

 うんざりした未希が

 「もういい?」

 と遮断すると、小泉の表情がみるみる赤く染まっていった。だが、すぐに表情が高慢ちきな元の表情に戻る。余裕を取り戻す何かがあると未希は警戒を強めた。

 「これだから、外部組は困るわ。でも、残念ね。球技の振り分けの決定権は、実質私にあるの。あなたが何と言おうとドッジボールをしてもらうわ。秘密の特訓にも付き合ってもらうわよ。みっちりとしごいてあげるから」

 と勝ち誇ったような台詞を吐くと、背を向けてその場から立ち去ろうとした。小泉の取り巻き達も後を追う。

 “馬鹿らしい”

小泉が足を止めた。

「今、何か聞こえたけど、気のせい?」

「馬鹿らしいって言ってるんだ」

「馬鹿らしい?本気で言ってるの?」

「本気も本気だ。だいたい、いい歳して球技大会のために秘密特訓?どういう神経してるんだ」

「謝りなさいよ」

 椅子に座っている未希の顔に息が当たりそうなほど小泉が顔を近づけた。

「断る」

未希は小泉の睨みにも顔を背けずに睨み返す。

「あんた、クラス中を敵に回すことになるわよ。後悔してもしらないからね」

この件以降、未希のグループがクラスの中で孤立したことは言うまでもない。

クラスの中で9割を敵に回すわけで当然、居心地の悪さは増したわけではあるが、その分、未希は、仲間達と結束を強めたことになった。アンチ内部組グループである。世間知らずで驕りを持っている内部組に対して、不満を抱く外部組は未希だけではない。外部組の多くが不満を抱き、ストレスを溜めている。そうした人たちが自然とクラス内でグループを作り、内部組と敵対していた。

球技大会はというと結局のところ、未希はソフトボールに回ることになった。未希と小泉が一緒では勝てないと冷静な判断をしたグループがいたらしい。もちろん、それも内部組である。

こうした小泉達のエゴによって未希はドッジボールが嫌いになったのである。

ちょうど未希と聡美は休憩の時間を迎えており、隣り合って座りぼけっと試合を眺めていた。

 「小泉達張り切ってるね」

 呆れるように聡美が言った。

 「球技大会学年で真ん中くらいの順位で終わったしね。幸せだこと」

 呆れるように未希が返した。

 「これさ・・今コートで行われている試合の勝った方とうちらがやるんだよね」

 「そうだっけ・・。じゃあ小泉には負けてもらわないとね」

 「やっぱりそうなるんだ」 

「ドッジボールで優越つけるなんていくらなんでも恥ずかしい」

「そりゃそうだね・・」

 しかし、思いはあっさりと裏切られ小泉達が差をつけて勝った。

 仕方ないと重い腰を未希は上げた。

 負けたチームに代わって未希達外部組が入る。相手コートでは、小泉が待っていたわと言わんばかりの醜い笑みを浮かべていた。

 試合が始まると未希のチームは早々にボールを当てられ外野に出る者が続出した。球技大会に備えて練習を積んでいた小泉達に勝てるわけがないと未希は早々に分かってしまった。せめて、小泉以外の者に当てられるか、もしくは、小泉だけでも自分の手で倒すかと未希は頭の中で打算が始めていた。

 そうこうしているうちに、未希のチームは残り2人となった。未希と聡美だけである。対して小泉のチームは、5人も残っている。流石に打算するどころではなくなっていた。相手チームの目まぐるしいパス回しを追うだけで精一杯である。

 外野から内野へ。内野から外野へ。ボクシングの練習でフットワークも養われているとはいえ、ボールの行方を追うのはきつかった。未希でさえ辛いのだから聡美はさらについていけていない。外野から内野にボールが戻った時、聡美は完全に体勢を崩されていた。至近距離。しかも、最悪なことにボールを持っていたのは小泉である。

 やられる。

 そう思った次の瞬間、乾いた音が高く響き渡った。まるでパンチを打ち込んだかのような音だ。

 聡美がうずくまり頬を両手で押さえた。聡美の顔面にボールが当たったのだと瞬時に分かった。しかも、これは、明らかに故意だ。

 「わざとやったな!」

 未希は大声で怒鳴った。体育館にいた者全員が未希に目を向ける。

 「言いがかりつけないでよ」

 「あんな至近距離で顔面に当たるわけないじゃないか」

 「私だって手元が狂うことあるわ」

 小泉の顔はへらへらと笑っていた。

 「聡美に謝れ!」

 「未希・・あたしは大丈夫だからもういいよ。ありがとう・・」

 うずくまったままの聡美が言った。まだ頬に手を当てている。相当な痛みが残っているんだ。

 よくなんかない・・。

 「ほら、本人がこう言ってるわけだし。それに、顔面はセーフ。ルール上そうなってるんだからいいじゃない。むしろ、あたしがあなたから謝ってもらいたいくらいよ」

 「いい加減にしろ。ぶっとばすぞ!」

 未希は怒りのあまりファイティングポーズをかまえた。

 「怖いこと言うわねぇ。やればいいじゃない。ほらあたしの顔はここよ」

 と言って顔を差し出し、頬を自ら人差し指でつついた。

 「あったまきたっ!」

 未希は小泉に突っかかっていく。

 「未希!」

 聡美の声が聞こえたが、未希はかまわず殴りかかった。小泉の胸糞悪い顔面めがけて右フック一発。

 しかし、次の瞬間、宙に吹き飛ばされていたのは未希の方であった。

 両腕を真横に広げ派手に背中から床に倒れ込んだ。

 未希の瞳からはぐらぐらと揺れる天井が映っていた。照明の光が余計に天井を気持ち悪く映らせる。

 右の頬がずきずきと痛んだ。

 そんな馬鹿な・・・・

 受け入れ難い状況を味わされ、これは性質の悪い夢なんじゃないかと、現実から逃げたい気持ちになった。 

 小泉凄い!

ナイスパンチ!

 小泉を持ち上げる声が周りから次々と聞こえてくる。

 惨めだと思いながら未希は意識を失った。

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