第11話

 

 目を見開いたまま未希の表情は固まっていた。

 普通ならレフェリーストップし、すぐにでも試合を止めるべきであったが、レフェリーとしての経験がない辻先生はそのままカウントを数えた。体育教師でありながら、辻先生は試合終了させるには10カウント数えるものだというボクシングに対する知識の疎さがあった。

 未希は、全く身動き取れず数え上げられるカウントを耳にしていた。

 微かに意識は残っていた。

 今ダウンをしていることも、このままテンカウントを数え上げらること、は自身の敗北となることも頭の中で認識出来ていた。

 一つカウントが数え上げられる度に、自身の敗北が現実のものとして迫っているという恐怖が膨れ上がっていった。

 逃れようにも肝心の体が動かない。

 カウントを止めてよ。お願いだから・・

 未希は顔だけを上げてすがるように辻先生の顔をみつめた。辻先生は、表情を変えずにまた一つカウントを数え上げる。

 まっ負けるのか・・・

 あたしは、小泉に負けるのだという認識が未希の中で強まってきた。

 どうしても受け入れたくない現実があと、5つカウント数え上げられたら確定してしまう。

 「未希!」

 千石と聡美の声に未希は気づいた。 

 何度も何度も聞こえてくる。

 千石・・どうしたらいいんだ・・・

 「すがれ!足にすがりつけ!」

 足?

 視界に映っていたものを認識すると未希は反射的に両腕を絡み付けた。戸惑う辻先生だが、未希の体を突き放すことはせずにそのままカウントを続行した。

 未希がふくらはぎから太もも、そして胴へと順にして両腕を絡ませながら体を持ち上げて、辻先生に体重を預けるようにして立ち上がった。

 カウントは9だった。

 辻先生の問いかけに未希は無言で頷いた。

 息ばかりが漏れていく。息を吸っているという気がしなかった。

 倒れないように体を支えているだけで辛い。

 リングを踏む足音が聞こえてくる。

小泉が一直線に近づいていた。しかし、小泉との距離の間隔を上手く把握することが出来ない。

ガードをしなければと両腕を上げるも、両腕とも右によれ一定の位置に留めることができない。

未希の体全体の感覚が麻痺を起こしていた。まともな判断が出来る状態とはいえない。

小泉が放った右ストレートを未希は反応すらすることができずにまともに食らった。続けて放たれた左のストレートも、その次のパンチも連続して。

パンチを避けようにもこちらから放とうにも、未希と小泉ではスピードに次元の開きが出来ている。未希が1発放つ間に小泉は少なくとも倍は放つことが可能なほどの差。その差を埋めることはいかんともしがたく、瞬く間に未希は小泉からめった打ちを受ける状態に戻ってしまった。ダウンする前と何も変わらない人間サンドバッグという無力な姿である。

 小泉に負ける屈辱を拒絶し、立ち上がった。

 しかし、立ち上がった先に待っていたのは小泉のパンチを一方的に浴び続ける屈辱。もう反撃する力など残ってはいない。

このまま倒れてテンカウントを聞くか、それとも、意地で立ち続け小泉のパンチを浴び続けるか。

どちらにしろ屈辱的なことであり、どちらにしろこのままでは小泉に敗北するという最大の屈辱から逃れられない。

 未希は悔しくてたまらなかった。

 必死に練習してきた半年間を否定されたような気がした。小泉は中学の時にボクシングを捨てた人間だ。高校生活の全てをボクシングに捧げてきた自分が小泉にボクシングで負けるなんてあってはならないことなんだ。

 動け!動いてくれあたしの体!

 未希は切望した。心の中で叫んでいた。その直後、未希の体は小泉の右フックによって虚しくも吹き飛ばされていた。未希の体がコーナーに当たる。コーナーに背中がぶつかったおかげで未希は倒れずにすんだ。

 コーナーに背をあずけてなんとか立てていられるが、半ばダウンしているも同然の状態であり、未希の頭がだらりと垂れ下がっている。

 「未希!」

 後ろから千石の声が飛んだ。

 未希は反射的に頭を上げた。

 小泉がとどめを刺しにダッシュしてきていた。

 「最後まであっちを向いてホイを信じろ!」

 千石が大声を出した。

 あっち向いてホイを最後まで・・・

 未希も前に出た。が、足はよろめいており、まともにステップも踏めてない。両腕は胸の位置よりも高く上げられずファイティングポーズすら取れていない。

 未希は右腕を大きく後ろに引いた。

 神風特攻隊を連想させる儚い特攻だった。

 未希がパンチを放つと、小泉は待ってましたばかりに右のパンチをカウンターで迎撃に出た。

 次の瞬間、衝突事故が起きたかのような衝撃音が館内全体に響き渡り、沈黙がその場を支配した。

 その状況をもたらしたのはやはり、カウンターパンチであった。しかし、それは目に見えていた結末ではなく、予想外の結末でもあった。

 なぜなら、パンチを打ち込まれているのは、未希ではなく小泉の方であったからである。未希がカウンターパンチを決めているのだ。

 小泉の顔面が醜悪に歪み、体がぷるぷると震えていた。

 「ぶえぇぇっ!!」

 ダメージに耐え切れず、口からマウスピースが吐き出た。それでも、小泉は倒れることが出来ないでいる。両者の放ったパンチが十字の形で交錯しているからである。

 未希が左腕を引くと、小泉が後ろへゆっくりと崩れ落ちようとしていた。しかし、その最中でも小泉が未希の顔面を睨みつけていたのを未希は見逃さなかった。

 小泉は立ち上がってくる。

未希は予感した。次の瞬間には体が動いていた。

小泉に決定的なダメージを与えておかないと。

倒れゆく体に跳びつくように未希は体を前へ預けパンチを放った。全体重をかけた未希の右のパンチが振り下ろしで小泉の顔面にめり込む。パンチを振り抜くと、小泉の頭がキャンバスに打ち付けられ一度大きく弾んだ。

未希の体もパンチを放ったまま沈んでいき、キャンバスに倒れ込んだ。

小泉は仰向けに、未希はうつ伏せに両者ノックダウンである。

どよめきが館内を支配する。

辻先生のカウントが始まると、観客席からは小泉コールが沸き起こった。

このままじゃ高等部組に負けてしまうという中等部組の悲鳴のようでもあった。

未希は耳ざわりに小泉への歓声を聞いた。

関係ないことだ・・・

未希は自分に言い聞かせるが、小泉への声援は未希の背中に雨のように突き刺さるような感覚を受けていた。

立たなきゃ・・

 体が思うように動かない。

 くそっ・・

 苛立ちを隠しきれずに、未希はキャンバスを睨みつけたまま握り拳をキャンバスに押し付けた。思うように動かない体が、館内を覆い尽くす小泉コール、全てが未希を苛立たせる。

突如、未希は振り返った。コーナーにいる千石と聡美の姿だった。小泉への声援が鳴り止まない中、未希は千石と聡美が未希と呼ぶのを聞き逃さなかった。

“立ってよ未希”

“立てぇ未希”

 たった2人だけの声援だけど、何百人の小泉コールにも劣ってないよ。

 いいや、遥かに価値がある。千石と聡美の応援には無限大の価値がある。

 未希は千石と聡美の声援に応えるべく必死に足掻いた。

 寝返りを打ち、ロープの側によると両腕をロープに絡ませ全体重を預けて立とうとする。

 「小泉もう少しだよ〜!!」

 小泉に送られた言葉に未希は心臓が跳ね上がり、反応する。うつ伏せになっていた小泉はキャンバスに肩膝を突いている状態まで起き上がっていた。

 負けてたまるか・・・

 歓声がさらに沸き上がる。

 未希の視界には立ち上がっていた小泉の姿があった。

 未希は目を逸らす。焦りが加速していくようであった。

 カウントは8を数えていた。

 未希は両腕をロープから離しファイティングポーズを取った。未希の体は倒れないでいる。

 カウントが9になったところで止まった。

 その直後だった。小泉の体から力が抜け落ち後ろへと崩れ落ちていく。

 背中がキャンバスに打ち付けられ、人の倒れた音が響くとカウント10が数え上げられた。

 ゴングが三度鳴らされる。辻先生に右腕を上げられ、勝者としての祝福を受けると、聡美が未希に背中から飛びついてきた。

 「やったね未希」

 普段クールな聡美が飛びついて喜んでくれていることに予想以上の結びつきを未希は感じた。

 聡美は自分のことのように喜んでくれている。

 自分ひとりの力で勝ち取った勝利じゃない。あたしと聡美と・・・

 未希は千石の方に顔を向けた。千石は右手を挙げていた。未希は千石の右の掌に向かって自分の右の掌をぶつける。

 「勝利のハイタッチ。やっぱ勝つのはいいもんだなぁ」

 うんうんと一人で勝手に納得する千石に未希は黙って頷いた。

 3人で味わえるこの試合の勝利。 

あたしと聡美と千石の3人で勝ち取った勝利だ。

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