第6話

 

未希の顔面は鼻だけが異様なほど真っ赤に膨れ上がっている。そして、大量の鼻血で悲壮感漂うまでに顔を真っ赤に染め上あがっている。

顔を真っ青にしている聡美をよそに、その首にかけられているタオルを千石は取り、未希の鼻にタオルを当てた。鼻血を拭うとすぐにタオルを離してみたが、その程度のケアで治まるほど軽い鼻腔の損傷ではなかった。新たに流れ落ちていく鼻血を千石は確認すると、また未希の鼻にタオルあてる。

そのままの状態で千石が話しかける。

「やっべえぁなぁ。あの娘ボクシング習ってるよぉ。素人にできるもんじゃないよあのテクニック」

舌打ちするように千石が言う。

 小泉は、ボクシングを習っている・・・

 高等なボクシングテクニックを目の前で見せ付けられては、その事実を最早否定できないことを未希も気づいていた。しかし、自分が好きなボクシングを小泉も習っている事実は受け入れがたいものでもあった。なんだか、ボクシングが汚されたような気がするのだ。

「未希・・落ち着いて聞けよ。・・・ボクシングテクニックは小泉の方が数段上だ」

「なっ・」

鼻にタオルを当てられたまま言葉を発したために、未希の声は鼻づまりになっていた。

未希自身はそのことを気にも留めずに、なんだとと反論しようとしたが、1Rの醜態を見せてしまっては反論も虚しいことなどすぐに気づき、未希は言葉を押し留めた。

 「落ち着けって。相手の実力を認識できなきゃ勝負事はまず勝てないもんなんだ」

 認められるもんか・・

 未希は千石をじっと睨みつけた。押し殺せない感情を千石に向ける。

かっこ悪いことだって分かってても千石を睨みつける以外にこの気持ちどうすればいいっていうんだ。

「小泉のパンチを未希が避けられないのがなんでか分かるか?」

 気持ちが昂ぶっている未希は、言うべき言葉が何一つ思い浮かばなかった。

 「ノーモーションだからだよ。俺らが目指していたノーモーションのパンチを小泉がやってるんだ」

 未希が完成を目指して特訓をし、結局、あまり向上できなかったノーモーションのパンチを小泉はモノにしている。

 未希は、鉄球で打たれたかのようなショックを受けた。自分ががむしゃらに練習しても出来ないことを陸上部員の小泉が出来ているのだから、この事実を受け入れることは未希にとってとても辛いことであった。

 「ノーモーションのパンチを打てるからって試合が決まったわけじゃあない。ガードをしっかりと固めるんだ。ガードを固めてればノーモーションでも防げる。こっちは一発の破壊力で対抗すればいいんだ。いいか?」

 未希は返事をしなかった。

 「おい」

 千石の声に未希は反応を示さない。代わりに未希は鼻にタオルを当てている千石の右腕を左腕で掴み、離した。鼻血はもう止まっていた。ふんと息を出させて鼻に残っていた血を出すと右のボクシンググローブで一度鼻を拭いた。

 第2Rがまもなく始まるアナウンスが流れ未希は立ち上がる。

そして、小泉の元へ向かっていった。

未希の頭の中は熱くなっていた。インターバルの間にノーモーションだと言い放った以降の千石の言葉は、未希の頭を素通りしていた。ガードを固めろという指示も未希の耳には届いていなかった。

 小泉がボクシングを習っている?

 だったら、ボクシングテクニックであたしが上だってことを見せ付けてやるんだ。1Rは、ちょっと体が緊張してただけだ。十分体も温まった。もうまぐれは通用しないぞ。こっちがサンドバッグにしてやる。

小泉への対抗心が未希の足を速める。その思いは未希の動きをお粗末なものにさせた。 

何のフェイントもない単純な未希の直進を小泉は、ボクシングのお手本のような鮮やかな左ジャブで止める。

 またしても鼻へのパンチだった。

忘れかけていた鼻の痛みがぶり返す。

一旦、左に回り仕切り直しをしてから左のジャブを未希は放った。

ジャブから接近戦に持ちこむつもりであった。

 バシィっと乾いた音が弾ける。 

 顔にパンチが突き刺さっているのは未希の方であった。小泉の左ジャブがカウンターで入っている。

 お返しすべく未希は左ジャブを、今度は連続して打つ。左一本の攻撃である。未希の仕掛けに応じるように小泉も左だけで攻めに出て勝負に応じた。

 ジャブといえばボクシングの基本であり、最も重要視されているパンチでもある。ボクシングの軸となるテクニックで小泉に遅れを取るわけにはいかない。ここでも小泉への対抗心が未希に愚直な行動を取らせていた。小泉の方が未希よりも遥かに高度なボクシングテクニックを持っているのは、素人が見ても明らかなのに、未希は小泉のボクシングテクニックを認められないでいる。

ジャブの勝負は未希の完敗に終わった。

ジャブの差し合いで未希は小泉にことごとく負けた。リーチの長さ、ディフェンステクニック、ジャブのスピードどれを取っても小泉の方が上なのだから当然の結果であった。まして、ディフェンステクニックとジャブのスピードは両者の間に雲泥の差があった。 

技術の差を見せ付けようと挑んだジャブの差し合いは、皮肉にも勝負を仕掛けた未希の方が技術の差を見せつられるはめになった。

その間、千石から何度も右も使えと指示が飛んでいたが、未希は無視して左の勝負を挑み続ける。

ジャブの差し合いが終わったのは、小泉の放つパンチがジャブだけでなく右のストレートも加わるようになったからである。

とうにジャブの差し合いは勝負が出たと判断したのか小泉が右のストレートも単発やコンビネーションに交えて放っていく。

一方の未希はまだ左ジャブに固執していた。

その結果、試合はさらに小泉のワンサイドへと移っていく。

小泉は未希の左ジャブを巧みに避けるとその隙にジャブや右ストレートをヒットさせていく。単発で終わらずに左右のパンチを続けて打つ。

だんだんと小泉の攻撃がラッシュに近くなってきていた。左右のパンチで未希を防戦一方へと追い詰める。それでも、フェイントを交え、リズムに緩急をつけて上下にパンチを打ち分け、クレバーなボクシングを守る。

小泉のパンチを浴びるたびに、未希の中でダメージと共に悔しさを蓄積させていた。

 2Rも残り30秒を切ろうとしていた。まだ未希は1Rから通じて1発も小泉にパンチを当てることができず、また小泉のパンチをほとんど避けることが出来ないでいる。

 試合が始まってから一つも思うようにいってない展開に、パンチすら出せなくなっている展開に、未希は何をすればいいのか分からない心理状況に陥りつつあった。

 それと同時に、小泉が圧倒的に優勢の展開に館内から小泉への声援が飛び交う中で、小泉のパンチを浴び続ける状況に、未希の中で蓄積された悔しさが屈辱の思いへと変わっていく。試合中、常に飛んでいた小泉への声援は、小泉のラッシュと共に小泉コールの大合唱へと変わっていた。

 小泉のストレート4連打が未希の顔面を押し潰した時、未希の中で感情の制御が利かなくなった。

 「うおぉぉっ」

 未希は大声を叫び大降りの右のフックを切り出す。当たれば1発で吹き飛ぶような豪快なパンチである。未希は大降りのフックを振り回した。

 普通の素人なら萎縮して当たるのだろうが、相手は小泉である。無論、当たるわけもなく、扇風機のごとくぶんぶんパンチを空振りする未希の姿はただ虚しいだけであった。

 それでも、未希は大降りのパンチを止めない。感情に任せての行動。ボクシングの洗練されたパンチを捨てて、ただ闇雲にパンチを振り回す喧嘩をしているかのような様。

 つまり、それは、未希自身がボクシングでは小泉に敵わないことを潜在的に認めた現われであった。

 ボクシングとはとても窮屈なスポーツである。ガードを固め、小さなパンチで隙を突いてパンチを当てなければならない。大降りのパンチを当てることなどめったに出来ないのである。ボクシングに伴う窮屈さがボクシングを喧嘩でなくスポーツへと昇華させているのだといえる。

 しかし、今の未希にとってボクシングの窮屈さがたまらなく嫌になっていた。

おもいっきりパンチを打ちたい。

 小さなパンチばかりちびちびと当てるな。

 ボクシングを否定するような思いばかりが未希の中で膨れ上がっていったのだ。それは、観客のほとんどが自分の敵に回るアウェイのムード、そして、なにより、吐き気がするほど嫌いな小泉に嬲り打たれている状況が、未希にそう思わせているのであった。

 ボクシングテクニックでは小泉に勝てないという潜在的な思いが、未希に大降りのパンチを降らせる。

 ボクシングを否定するその愚かな行為は、小泉のラッシュが激しさを増す皮肉な結果をもたらした。

 ダッキングからのボディブローで未希の大降りのパンチ連打をやすやすと止めると、未希の顔面に小泉のパンチが次々と打ち込まれる。

 小泉は、フェイントや緩急を付けずることもしなくなり、打てるだけパンチを打った。そして、その全てのパンチが未希の顔面を捉えた。

 ボクサーとしてのアイデンティティが崩壊した未希は、ディフェンスの仕方も忘れてしまっていた。自我が崩壊した未希を本能が守ろうとした。体を前屈みに丸め、両腕で頭を守る。顔だけは打たれたくない恐れが無意識に体に出ていた。

 小泉のパンチに怯える未希の姿を目にした小泉は、下を向けている未希の顔面にアッパーカットをぶち込み、難なくガードを崩した。

 吹き飛ばされ、ロープに跳ね返された未希の無防備な顔面に小泉がなおパンチを打ち込む。

ほぼ無防備の中、未希は小泉のパンチの散弾にさらされた。無防備でパンチを打たれている未希の姿は、小泉の予告した人間サンドバッグ状態である。顔面もボコボコに腫れ上がっており、すべてが小泉の思うように試合が進められていった。

 サンドバッグとなった未希を救ったのは、ラウンド終了のゴングであった。20秒以上サンドバッグとなっていたのだから、未希陣営としてみればやっと鳴ってくれたといったところだ。

 長い2分間が過ぎ去り、未希はセコンドの千石に肩を貸してもらいコーナーへと戻る。

 それまで立っていられたのが奇跡といえる。ボクサーとしてのアイデンティティは小泉によって崩壊させられた未希だが、それでも試合を投げ出さずに立っていられたのは、小泉のパンチに怯えながらも小泉に負けたくないという思いがまだ残っていたからだった。

 聡美の用意した椅子の上に座らされ、ようやく体を休めることに心の底から安堵した未希だが、思考はそれ以上進まなかった。

 これから先何をすればいいのかまったく分からないパニックの状況はまだ続いていた。

 「もう止めよう未希・・。試合を棄権するべきだよ・・」

「何言ってるんだ」

 未希は千石を睨んだ。棄権という言葉に無意識に反応していた。 

 「もう見てられないんだよ。ボクシングできてないのは未希の方だ」

 「それがセコンドの言う言葉か!」

 未希は怒りのあまり大声で叫んだ。

 「ボクシングのテクニックを捨ててどうするんだよ。なんでボクシングをしないんだ!」

 千石も大声で怒鳴り返した。

 「あたしは、ボクシングをしているじゃないか!」

 「大降りのパンチを振り回すことが未希のボクシングなのかよ。練習を忘れたのか。コンパクトにパンチを打てって言ったじゃないか」

 「うるさい!今更、説教なんて聞きたくない。あたしは、一人で試合をする」

 「未希・・」

 聡美の言葉で未希ははっと我に返った。

一人で試合をするという言葉が失言だと未希は気がついた。

それでも、千石の指示通り動きにはなれなかった。思うようにいかない試合展開の原因を千石に押し付けたかったのかもしれない。未希自身、気持ちのやり場が分からなくなっていた。

 自分を分かってくれる人間は聡美だけだ。その聡美は、ボクシングのことはさっぱりと分からない。かといってボクシングに精通している千石とは、ここにきてやはり馬が合わないと未希は感じていた。

 第3Rのゴングが鳴る。リングの上で一人孤立したかのような感覚を覚えながら、未希はコーナーを飛び出した。

 頑張ってという聡美の言葉が余計申し訳なく未希は感じた。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送