第7話

 

 未希は、3Rでも無様に大降りのパンチを繰り返す扇風機だった。つまりは、ボクサーとしての自我は壊れたままであった。

空振りの隙に相手のいいようにパンチを打たれ一度劣勢に追い込まれると、手が止まりあとは何をすればいいか分からないままに、またも小泉のサンドバッグと化してしまっていた。

体育館の中は、小泉コールの大合唱となっていた。第2Rのゴングと共に途切れた小泉コールは、小泉が未希をサンドバッグにする2R終盤の再現が始まると同時に再び湧き上がった。それは未希がサンドバッグになるのを中等部組が待ち詫びていたかのようである。

パンチの恐怖に試合を捨てて逃げ出したくなる思いと小泉にだけは負けたくない思い、二つの相反する思いが未希の心の中で格闘していた。

小泉のパンチが未希の顔面に当たるたびに、逃げ出したくなる思いが未希の中で強まる。さらには、館内を支配する小泉コールの大合唱が未希の心を弱くさせる。聡美の未希への声援は、小泉コールに掻き消され未希に届いていない。セコンドとも喧嘩をし、リングの上で一人孤立した未希は精神的にも弱っていた。ギブアップ寸前である。

対照的に小泉コールの大合唱を受ける小泉は、自身への声援に応えるべく俄然、攻撃の手を強めた。

 小泉は、パンチングボールを殴るかのように未希の顔面にパンチの速射砲を浴びせる。すでに腫れ上がっていた未希の顔面が一段と醜悪な形へと作り変えられていく。腫れ上がった瞼でほとんど覆われている未希の目は今にも泣きそうである。

 なんで殴られているんだよ・・

 未希は状況さえ把握できない精神状況へと追い詰められた。

 孤独な中、パンチを浴び続ける過酷なリングの上にへと立たされているという思いに支配されていた。

 パンチを打たれる未希の体はとても小さく、逆にパンチを打つ小泉の体はとても大きく観る側に映らせる。

 グワシャアァ!!

 未希の体が儚げに吹き飛ばされた。キャンバスを滑っていく未希の姿は、ボロボロに朽ち果てた印象を与えた。

 うつ伏せになり、キャンバスに這いつくばるその姿は、とても立ち上がれそうにない。

 未希が倒され、小泉コールは最高潮に達していた。

 未希自身も最早どうでもいいことのように耳を素通りしていた。

 もういい・・もういいんだ・・・

 気持ちよくこのまま眠ろうという思いが未希に働きかける。

 「未希!!」

館内を支配する小泉コールに負けじと、聡美が大声で未希の名前を叫んだ。

「立ってよ未希!勝つって約束したじゃない!」

 未希の体が反応した。

 聡美が応援してくれる・・・・

 聡美の思いに応えたかった。だが、悔しいことに抜け落ちた力は戻らない。

「未希!」

 千石の声であった。

 「立てよ!立ち上がれ!あんな糞野郎に負けるなぁ!」

 未希は口を開けたまま、視線を聡美からその隣の千石に移した。必死になって叫ぶ千石の姿が見える。

先ほどインターバルで大喧嘩したばかりだった千石まで応援している・・・

 孤立していないじゃないかあたしは・・・

 一人で勘違いして馬鹿みたいだと未希は目を細めた。

 不思議と力が沸き起こってくるようであった。未希は歯を食いしばり、必死になって立ち上がった。

「まだ続けられるか相坂?」

 未希に残っている力を確認するように辻先生は未希の両拳を握った。

「先生続けさせて」

 未希は辻先生の顔を見つめ続けた。先生が首を縦に振るまで視線を外さないつもりだった。未希の強い意思が伝わり、先生は首を縦に振り、試合を続行させた。

 再開と同時に小泉が飛び出る。未希はその場に足をつけて身構えた。

「あっち向いてホイを忘れるな!」

後ろから千石の声が聞こえた。

 未希は苦笑した。

 恥ずかしいじゃないか馬鹿者。

「何があっち向いてホイよ。あんたのセコンドも可哀相なくらい馬鹿ね」

 ミドルレンジまで近づいた小泉が未希を挑発する。パンチが当たる距離だが、小泉はパンチを出さない。やるならいつでもやれるという余裕が伺える。対する未希もパンチは出さずに口で反論した。

「オマエが馬鹿っていうな。千石のことを馬鹿って言っていいのはあたしだけだ」

 未希の言葉に気を悪くした小泉は、むすっとした表情で未希の顔面に右のストレートを打ち込んだ。

 ダウンを機にセコンドとの連帯感を強めたかに見えた未希だが、まったく反応できずに小泉のパンチを受けたその姿は、これまでと何も変わってはいなかった。

 僅かばかり抱いていた警戒心を小泉は解き、一気に出た。

目の前で対峙する小泉の両腕からパンチが雨あられと、未希の顔面に打ち込まれる。小泉の左右のパンチの連打の前に、未希の頭が右に左にふられた。

「ほらほらっどうしたのよ」

 小泉の挑発に反論する余裕など未希にあるはずもなかった。未希は反撃できずに歯を食いしばって耐える。

 いいように殴られる未希であったが、小泉の姿になにかだぶるものを感じるのだった。

  あっち向いてホイと同じじゃないかと。

  対面して相手の肩の動きに注意を向ける。

 聡美と向かい合って行ったあっち向いてホイの練習の光景と小泉の体が未希の頭の中で完全に重なり合った時、体が自然と反応していた。未希はパンチをかわしている。

 いつパンチが来るのか体が察知できていた。

 次のパンチも未希は避ける。その次も。

 頭じゃない。体で反応できている。

 小泉のストレートをダッキングで下にもぐると、その隙にボディブローを打った。

肉に拳がめり込む確かな手応えと、小泉の口から漏れる呻き声を未希は聞き逃さなかった。

小泉にダメージを与えたことにたいして未希は不思議と力が湧き上がってくる感覚を覚えた。もう1発当てたいという思いが、未希に間髪入れずにパンチを打たせた。これは、小泉のガードの上だった。今度は、小泉が右ストレートを打ちおろし気味に未希の顔面に当て反撃した。続けて飛んでくる返しの左フックを未希は避ける。そして、その隙にパンチをまた小泉に当てた。

お互いがパンチを当てるが、連打は許さない。未希のディフェンス能力も上がったために、未希だけでなく、小泉も攻撃にリスクが生じるようになっていた。先に手を出した方が不利である。

それでも、二人は積極的にパンチを出した。剥き出しとなる二人の感情が、ディフェンシブなボクシングをさせなかった。

未希陣営のセコンドにとって、1Rから続く心臓に悪い展開は、なお続いている。だが、今は逆転KOという希望も芽生え始めていた。

未希の方が打たれているパンチが多いように見えるが、未希のパンチも当たっており、小泉が顔をしかめる部分も時折見られた。

 聡美は確かめずにはいられなかった。

「どっちが攻勢なの?」

「う〜ん・・手数は7・3で小泉。その分を未希はパワーで挽回してる。それで互角。ただ、これまでのダメージを考えれば依然として未希が不利なんだよなぁ」

 聡美は目を伏せた。千石の口から出た未希が不利だという言葉に多少なりともショックを受けたのだろう。これまでの悪夢のような光景を見続けてきたのだから少しでも希望にすがりたいはずだ。

 聡美の気を落とした姿を横目に見ながら千石は思った。

 これでも、甘めに言ったんだけどなと。

これまでのダメージを抜かせば未希と小泉は互角になったと聡美に告げた。しかし、それは、聡美のことを思いやり、嘘で飾った言葉であった。

ダメージ抜きにしても今の攻防は、未希が圧倒的に不利なのだ。

 未希が小泉に勝っている点はパンチ力だけだ。ディフェンステクニックも、オフェンステクニックも、小泉の方がまだ遥かに未希の上をいくだろう。小泉にはノーモーションのパンチがある。パンチスピードでは、雲泥の差があるといえる。そして、自分の憶測が確かならば、小泉にはまだ隠し持っている武器があるはずだ。いつでも試合を終わらせることが出来る一撃必殺のパンチを・・・

 グワシャアァッ!!

 千石が危惧していた出来事が今まさにリング上で起こった。

 リングの中央では、未希の右のストレートは空を切り、小泉の左フックが未希の頬にぶち込まれている光景があった。

 小泉の狙い済ましたカウンターパンチである。しかもクロスで威力はさらに増している。

 今回ばかりは自分が立てた憶測は、外れて欲しかったんだけどなと千石は歯を強く噛み締めた。

 小泉はカウンターパンチを得意としている。体育の授業の時に未希が倒された話の内容から、千石はその説を立て、それは、今日の試合を見るうちに確信へと至っていた。

 ディフェンス、オフェンス二つの面から感じさせる小泉の人並みはずれた運動神経と動体視力。

千石が持つボクシング経験から生じる嗅覚が、彼女はカウンターパンチチャーだと察知した。これまでに小泉と似た動きをする相手と、千石は闘った覚えがある。そいつもカウンターパンチャーであった。

 未希のパンチは、モーションがでかい。小泉にとってカウンターパンチの絶好の獲物だったのだろう。おそらく、小泉はカウンターパンチをいつでも打とうと思えば打てた。しかし、カウンターパンチを決めるのはKOを意味する。一瞬の間に未希をKOすることを小泉は避けたかったのじゃないか。未希を大勢の生徒の前で嬲り倒したかったからカウンターパンチを使わなかったのではないか。

 千石は首を振った。

仮説をどれだけ形成しようと、もはや何の意味も成さない。試合は終わりを告げたのだ。カウントは続いているが、カウンターパンチが決まっては、いくらタフな未希も立てるはずがない。

しかし・・・・・・

千石は大声を出して未希の名前を叫んだ。

立てるはずがないと分かっていても出さずにはいられなかった。未希に勝って欲しいと心の底から願う自分がいる。人の心を動かすほどのボクシングを未希はしてくれたのだ。普通なら一度目のダウンで立てなかったはずだ。

「未希・・・」

千石は信じがたいものを見ているかのような感覚を受けた。

 未希が立ち上がろうとしたのだ。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送