第9話

 

 物心ついていた時は、ボクシングを嫌っていた。

 父はボクシングジムを経営していた。大きなジムであり、常時日本チャンピオンが数人いるほどの実績があった。そのおかげで練習生は100人を超えるほどの賑わいがあった。しかし、裕子にとって小泉ボクシングジムの繁栄は、どうでもよく、むしろ歓迎できないものであった。そのせいで父はマネージメントやトレーナーとして休みなく働き、裕子とは一週間で顔を会わせる時間は数時間しかなかったからだ。

 ある日、ジムが3週間ほど休みになった。ジムの中を新装するために工事することになったのだ。裕子はジムが長く休みになる話を聞き、その間、父との時間が増えるんじゃないかと期待を抱いていた。しかし、裕子の思いはあっさりと裏切られ、父はジムが新装している間も仕事にかかりっきりであり、忙しさは変わらないでいた。

 な〜んだとつまらないと裕子はジムの工事が行われている間、不貞腐れていた。工事が終わるとジムの中では新しく購入されたボクシング器具が次々と置かれていった。それらが全て置かれた時、裕子はジムの中に足を踏み入れた。隣では、父が満足げに新しくなったジムを見つめていた。

 「ジムの中が新しく生まれ変わったんだよ、裕子。リングもサンドバッグも全部新品だ」

 そうなんだと裕子は気のない返事をした。

 それから、裕子はなんとなくサンドバッグの前に立った。特に理由はなかった。父の隣にいると聞きたくもないジムの話をされそうだと思ったせいもあったからかもしれない。

 「打ってみたいのか裕子?」

 冗談っぽく父は話しかけてきた。

 裕子はうんと答えた。父はいいぞと笑顔を見せた。手を怪我するといけないからと、裕子の両腕に父はボクシンググローブをはめさせた。ボクシンググローブを装着すると、父はいつでも打っていいぞと言った。

 お父さんなんて大嫌い!

 心の中でそう思いながら裕子はパンチを打った。気が付くと10発ほど打っていた。

 父の方を振り向くと少し驚いた顔をしていた。すぐに顔に笑みを浮かべ裕子の頭をなでた。

 「初めてにしては上手いな裕子。ひょっとしたら才能あるかもしれないな」

 その時、裕子はぼんやりとボクシングをすれば、お父さんと一緒にいられる時間が増えるし、たくさん褒めてくれるかもしれないと思った。

 それから2週間後、ボクシングをやりたいと裕子は父に告げた。断られるかなと思った裕子だったが、父は少し考えた後、マラソン大会で女子で1位になったらという条件を裕子につきつけた。

 その時、裕子は父がなぜそんな条件を出したのか不思議がりながらも、その条件を受け入れた。

 裕子は、去年のマラソン大会は3位だった。ちょっと頑張れば1位を取れる自信が裕子にはあった。

 三ヵ月後に控えるマラソン大会に備え裕子は毎朝ジョギングをするようになる。毎日走り続けて迎えたマラソン大会で裕子は大差をつけて優勝した。

その夜、1位になったことを父に告げると父は、よくやったなと言い裕子の頭をなでた。

その時は、これからはボクシングでたくさん頭をさすってくれると裕子は、ボクシングが楽しみでならなかった。

 

 

 ジムでボクシングの練習をするようになり、4年が過ぎた。裕子は中学2年生になっていた。

 この時、裕子はボクシングが嫌いで嫌いでたまらなくなっていた。父から指導を受けては、怒鳴られていてばかりだった。穏やかな普段とは違い、ジムの中の父は、厳格な振る舞いをしていた。

 気が付くと裕子は望んでもいないのにプロと変わらぬ厳しい練習を父に強制させられていた。望んでもいないのにスパーリングが練習の中で当然のように組み入れられていた。褒められたのは、ボクシングをし始めた最初の一ヶ月だけだった。あとは、怒鳴られてばかり・・

 プロボクサーにしようという意思が裕子には父から明確に感じ取れた。マラソン大会で1位という条件を出したのも、自分に素質があるかを見極めるためのテストだったのだきっと。

 溜まりに溜まった裕子の不満は、ジム内で爆発した。

あたしを世界チャンピオンにでもしようっていうの?

 あなたが日本チャンピオンで終わったからってあなたの夢を果たす道具になるなんてまっぴらよ。

 癇癪を起こした裕子は父の前でそう叫んでいた。

 それっきり裕子がボクシングジムに顔を出すことはなかった。

 ボクシングなんて大嫌いよ。低俗な人間のするスポーツだわ。

 やり場のない怒りに裕子は、両拳を胸の前で打ちつけて気持ちを紛らわせた。それで、裕子の足を揉んでいたセコンドの綾子の手が、びくりと離れた。

 裕子の怒りを露にする態度に怯えた裕子の態度を裕子は気にもかけなかった。 

 むかつくわ、むかつく・・・

 深見が現れたことで胸にしまい込んでいた忌々しい記憶を思い出し、裕子は不快な気持ちになっていた。いや、不快なのは深見のせいだけではない。Rの終盤に相坂未希にいいように打たれたせいでもある。

 この怒りを収めるためには、相坂未希をKOするしかない。いや、KOは、当初からの確定事項なのだ。打たれた分の借りをきっちりと返すには、KOだけで終わらすわけにはいかない。

 裕子は冷酷な笑みを浮かべた。

 

 深見という男から簡単に聞かされた説明が終えられた。

「小泉にもいろいろとあったんだ・・」

 聡美がぼそりと言った。

 単に性根が腐った嫌なやつだって小泉を見ていた。しかし、性根が腐るにも事情があることを知らされた。

 知りたくなんてなかった。小泉が悲劇のヒロインだからといってあたしはどうしろっていうんだ。

 小泉を憎んでいるからこそここまで立っていられた。

 「関係ないよ。小泉に何があったってあたしには関係ない。気に入らないから倒すだけだ」

 「本当は裕子さんもボクシングが好きなんだ。好きだから未希さんのことを疎ましく感じちゃうんだ・・」

 深見が途方に暮れるように言った。

 「これは喧嘩じゃないんだよな。ボクシングの試合だ。勝ちもあれば負けもある。でも、負けにも必ず意味があるもんなんだよ。それがスポーツの試合なんだ。だからこの試合はお互いにとって意味があると思うんだ」

 千石の言葉に深見が頷いた。

 未希は椅子から立ち上がり、言った。

 「あたしは小泉に勝ちたい。ただそれだけなんだ」

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