エピローグ
「あっち向いてホイっ」
掛け声と共に聡美の指が指した方向に首を向けている未希は、頭を横に振った。
「6勝4敗。あたしの勝ち越しだね。未希、ジュース買いに行くの忘れないでよ」
聡美は意地悪そうに言った。
「分かってる。あ〜あ・・」
未希は仰向けに寝転ろんだ。未希は今聡美の部屋に居る。練習を始めるまでの一休みとして上がっていた。
「小泉との試合の時の集中力はどこにいったんだか・・」
あっち向いてホイのおかげで小泉に勝てた。その時はあっち向いてホイはなかなかあなどれないものがあると未希は実感したものだ。しかし、やはりあっち向いてホイにイマイチ熱くはなれない。死に物狂いにならないと人間恥ずかしいことに本気で出来ないものである。
こいつのおかげで勝てたっていうのに・・・
未希は試合に向けて練習をしていた時の千石の話を思い浮かべた。
「あっち向いてホイで少し勝てるようになってるなぁ」
千石が呑気に言った。
「勝てるって言ったって一度も勝てなかったのが勝率一割に上がった程度だ。嬉しさなんてちっとも沸いてこないよ」
「まぁまぁ、褒美にちょっと良い話するからさ」
「なに?」
「あっち向いてホイで俺がほとんど引っかからないのもあっち向いてホイっていう合図があるからだ。もし合図がなかったら避ける難易度は遥かに上がるよ。これってボクシングでもいえることなんだよな」
未希はう〜んと釈然としないながらも頷いた。
「体育館で未希は小泉に倒された」
未希はぎろりと千石を睨む。千石は落ち着けと両手を前に出した。
「それは、けっして偶然なんかじゃない。勝負は小泉の挑発に乗せられた時点で決まっていたんだ。パンチを打つのがみえみえなら避けるのは簡単だ」
未希は頷く。
「じゃあさっ。逆も出来るよな。」
「今度はこっちが小泉を挑発するのか?」
「いやぁ、小泉が挑発に乗る可能性は少ないんじゃないかな。挑発が得意な人間はそうそう引っかからないと思う。そうじゃなくて、挑発に引っ掛かったふりをするんだ。そうすれば未希も相手がパンチを打って来るのが分かるから避けることが出来るだろ。罠に対して罠ではめるんだ」
「そんな上手くいくかな」
「要はそういう発想が大事ってことなんだ。つまり相手の得意技が逆にその人間の弱点でもあるってことなんだ。今の段階じゃ小泉は挑発が得意だ。これにまんまと乗っかるな。逆に利用しろってことでさ」
「言いたことは分かるけど理屈でなんとかなる世界でもないしねぇ」
千石の話にあまり乗れなかった未希であったが、千石のあっち向いてホイを最後まで信じろという言葉によって試合の最中に思い出すことになった。
相手の得意技を利用する。試合前では小泉は挑発が得意ということだったが、試合が始まればそんな小細工だけでなく、カウンターパンチという恐るべき必殺パンチを小泉は持っていた。とてもやっかいな技の前に未希は苦しめられた。しかし、最後の最後で未希は小泉のカウンターパンチを利用したのだ。追い詰められた最後に神風のように特攻したことで小泉からカウンターパンチを出させる状況を作り出した。未希の大降りの右フックに小泉は読みどおりパンチを合わせてきた。相手がカウンターパンチを出すのを分かっていればなんとか対処できる。未希は途中でパンチを止めて小泉のパンチを避けた。
そして、傾けていた体の反動を利用して左のフックを小泉の顔面へと叩き込む。カウンターを打ち破ったのである。
すべては、あっち向いてホイのおかげであり、つまりは千石のおかげということになる。馬鹿そうに見えるが実は相当賢いやつだと認識を改めることにした。
未希は大きくため息をついた。
「だらけてるよねぇ。もう燃え尽きた?」
「なんだか一生分殴られた気がするよ。でも、あたしはまだプロボクサーにもなってないんだよね」
未希は言いながら苦笑した。小泉に勝ったくらいで満足してちゃいけない。死に物狂いで練習しなくちゃプロの世界でチャンピオンにはなれないことを忘れていた。
未希は背中を立たせた。
「プロにもなってもないのに燃え尽きてなんていられないよね」
「小泉も復讐に燃えてそうだしね」
聡美の言葉に未希は敏感に反応する。
試合が終わった一週間後ジムに深見が顔を出した。未希と聡美と顔を会わせるや、深見は深々と頭を下げお詫びの言葉を述べた。小泉が未希に迷惑をかけたことと、深見が試合を邪魔したことにだった。次に彼の口からは御礼の言葉が告げられた。なんでも、小泉がまたジムに顔を出してボクシングを始めたそうだ。口には出してないが、未希に負けたことが相当悔しかったらしい。まだ会長との関係はぎこちないけどじきに修復するはずだよ。すべて未希さんのおかげですと言って彼は最後にまた頭を下げて帰っていった。
いずれ小泉とはボクシングで試合をすることになるはずだ。その時は今度こそ完全決着をつけないとね。
そう思うと少しだけ気が重かった。勝つのに相当のエネルギーを必要とされた相手であり、当分はいいやという気持ちである。
「小泉もこれで少しは性格が良くなるといいんだけどね」
「良くなるかは分からないけど、あれ以上悪くなりようはいない」
未希の言葉に聡美が笑った。
「小泉も親子の仲が回復に向かってるようだし、未希は男嫌いが直ったし良いことばかりだね」
「あたしは元々男嫌いなんかじゃないぞ」
未希はむすっと答えた。
「でも千石君のこと見直したでしょ」
「少しはね」
「少しねぇ」
まったく信じてない言い振りで聡美は語尾を伸ばす。
「でも千石君頼りになるでしょ」
「それは・・」
口ごもってしまった。
「ボクシングだけはね」
そういうことにしといた。どこまで頼りにしているのか、真実はよく分からない。
「ボクシングだけねぇ」
まったく信じてない言い振りで聡美は語尾を伸ばす。
「それとあと一つ」
聡美の声が素に戻った。顔を見るとなにやら緊迫したものを感じる。
「あたしもボクシング始めることに決めた」
未希は目を広げた。
「未希、小泉のことなんちゃってお嬢様って言ったでしょ。何かもが中途半端だって。その言葉で自分も今の生活変えなきゃって思ったんだ。何かに熱くなる出会いがこれまでは何もなかったけど、未希の試合を見て決心した。あたしもボクシングやってみようってね」
「そっか・・。聡美もボクシングを始めるのか」
命がけの死闘を繰り広げた小泉はまたボクシングを始める道を選択した。その試合を間近で見た聡美はボクシングを始める道を選択した。
華やかなスポーツはいくらだってあるだろうに、それなのにボクシングを選んだ彼女らの選択は不器用だと未希は感じた。
そして、歯が2本折られてなおボクシングを続けようとする自分自身にも。
ふうっと息を漏らすと、部屋の下からゴングが鳴り響いた気がした。
終わり
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