エスとエムの喧嘩
Loop1前編


因縁の巡り合わせ。女子フライ級新人王トーナメント決勝戦は元ジムメート同士の遺恨試合。

 女子の新人王戦も残すは決勝戦だけとなった。中でも注目のカードといえばフライ級の春見彩香(さいか)と夏目翠(みどり)の一戦だろう。
 夏目翠は昔、春見彩香のジムに在籍していたことがある。2人は元はジムメート。そして、犬猿の仲だったという情報も入っている。それを裏付ける事件がフライ級新人王トーナメント準決勝2試合を終えた後で起きた。
 決勝進出を決めた2人春見彩香と夏目翠が口喧嘩を始めたのである。発端となったのは記者の質問「対戦相手夏目翠の印象は?」に対して答えた春見の言葉。
「翠?相手になんないでしょ。練習が辛くてジムから逃げ出したような根性無しだしっ」
タイミングが悪くちょうどその場に足を踏んでいた夏目が噛み付いた。
 鼻息が当たる距離まで顔を近づけてお互いを罵り合った2人はセコンドが止めなければ乱闘にまで発展しかねなかったほど興奮していた。
 トレーナー達によって引き剥がされた2人。それでも2人は飛びつかんばかりの抵抗をしている。  
 急遽駆けつけた女子ボクシング協会の女会長の言葉で場は収束される。
 「2ヵ月後にとっておきの舞台がおまえ達に用意されているんだよ。2000人の前でどちらが上か白黒つけな」
なお睨み合い続けた両雄。
 決戦のゴングがなる瞬間が待ち遠しくなったのはたしかだ。

翠はふんと鼻息を荒げると広げていた雑誌をベッドの上に投げ捨てた。それで自分は椅子を後ろに傾けて天井を見つめる。
 嫌んなるよね、マスコミって。
 どうして面白おかしく二人の関係を煽ろうとするんだろう。
 そりゃあ面白おかしく煽った方が売れるのは分かるけどさ、仮にもスポーツ雑誌のライターなんだから、そんな下衆な内容の記事書いてて楽しいのかね。
 遺恨対決なんて書かれて、負けたら赤っ恥もいいとこ。彩香よりも格下のというレッテルが貼られてその後のボクサー人生を生きていかなきゃならなくなる。絶対に負けられないよ、そうじゃなくても相手は彩香なんだから・・・。
 翠はカレンダーに目をやった。12月13日に赤丸印が付けられている。
 彩香との決戦の日まで残すところあと10日だ。調整は今のところ順調。体重もすでにリミットを切っている。あとは本番で彩香をノックアウトしてやるだけ。
 翠は試合の時の光景を思い浮かべる。
 女子ボクシング協会会長が言った2000人の観衆の前で対峙するゴングがなる直前の翠と彩香。
 彩香の顔は眼前に。どこか人を見下したような小憎たらしい表情をアイツはその時も浮かべるのか。
彩香の顔なんて見たくもない。顔を会わせたら唾を吐き捨てたくなるほど大嫌い。性格は終わってるし、それに彩香から味あわされたあの屈辱的な体験は今でも忘れられない。
8月8日。某テレビ局が我が局の日だとブラウン管の奥からしつこく宣伝してくれるせいもあって未だ覚えている。
 翠と彩香はその暑い日に入門した。そのジムに通う女性の人数はうちら2人を除いて2人だったのだからちょっと運命的な感じがした。その時は・・・・。
 男の世界といってよいボクシングジムに女が入門することは、プロになろうって意気込んでいたからといってもやっぱり心細かった。だから、年齢が同じだったからってこともあって同じ日に入門した彩香と親しくなろうという迂闊な行動に走ってしまったのだ。
 練習の合間や練習が終わった後で2人はどちらからともなく話しかけて喋りあった。それが一週間ほど続いて翠は一つの結論に至った。
 彩香とは性格が合わない。
 というよりも嫌な奴に思えてきていた。
 翠は自信家というタイプの人間が嫌いだった。そういう類の人間は自分の実力はさておき、大きなことばかり言って自慢話しかできないはなはだ迷惑な存在だ。そして、彩香はまさしくそのタイプの人間だった。
 プロの女子ボクサーでもあるジムの先輩の練習しているすがたを見て“あの程度でプロなんだァ。今のあたしでも勝てそう”
─────あたしの前で言うな。本人の前で言えっての。
 “ミット打ちしたらトレーナーからチャンピオンになれる素質ありって言われちゃった。どうしよォ、プロ目指しちゃおうかな”
─────リップサービス入ってるに決まってるじゃろ、ボケ!
 あー、名言集くらいが作れてしまうくらい彩香の発言はネタになるものばかりだ。これで聞き役が自分じゃなければ笑い話になるんだけど、自慢話の相手をしてやらなければならないのだからストレスは溜まる。
 溜まりに溜まったストレスは入門から六ヶ月後に爆発した。
 入門から一年経ったらプロデビューしてもいいと会長から許可を得て気分良くしていた翠はたまには自分も自慢話を聞かせようと彩香に話してみた。
 そしたら案の定彩香はちょっとつまんなそうな顔になった。
少しだけ勝ち誇れた気分になれた。
たまには自分だって自慢してもいいよね。
しかし、その直後に気分は台無しにされた。
 「あたしもプロになろっかな?。翠でもなれるんだし」
 何を根拠にしたらコイツはそんな大口が言えるんだろか。
 スパーリングだって直接やってないっていうのに。
 頭にきた。
 「でも、ってなによ。失礼なこと言うなっ!それから、人を馬鹿にもするなっ!」
 「なに怒ってるの?あたし馬鹿になんてしてないのに」
  彩香はしれっとした顔で言った。
 「翠でもプロになれるんだからって馬鹿にしたこと言ってる。それってあたしが慣れるんだから彩香になれないわけがないってことじゃん。いつからあたしが彩香の下になったの?」
 「気に障ったなら謝るけど、間違ったことは言ってないけどな?アタシ」
 「なんで居直ってるのよ。間違ってる。彩香の頭の中自体が大間違い」
 彩香もむっときたようだ。そっぽを向いて言い放った。
 「アタシは試してもいいんだよ。やる?アタシと試合する?」
 「やってやろうじゃないのっ」
 「言っちゃったね。じゃあ翠の顔面ボコボコにしちゃうから。てか、あとで撤回だけはしないよーにっ」
 見下したような表情を向けてきた。
 「こっちの台詞っ。それでいつ試合するの?」
 「んー、明日の昼1時半くらいでいいんじゃん?どうせその時間誰もまだ来てないっしょっ」
 「わかった」
 「じゃっそういうことで」
 と彩香は言って背を向けた。
 「これ以上顔見てると顔殴りたくなるの我慢できないからねっ」
 くそっ一々言うことがむかつく。
反論する隙を与えずに彩香は去ってしまった。
 「もう頭来た。絶対許さないからアイツ」
 溜まった鬱憤を少しでも晴らせるように翠は口に出して言った。 

 怒りは収まらないまま次の日を迎えた。ジムに入ると、途端いつものように染み付いてしまった汗とワセリンの臭いが鼻にまとわりつく。
そこには彩香と雅志だけがいた。彩香の両腕に雅志がグローブをはめ付けているところだった。
 それを見て翠は唇を咎めた。
 なんだよ、2人でさ。 
 雅志とは小学校が一緒でそんなに仲良いってわけじゃなかったけど、広い範囲で捉えれば幼馴染ってやつになる。中学、高校は別々になったけど、ボクシングジムでまた同じ時間を共にすることになった。同じ地元に住んでいるんだからそりゃジムが一緒になりもするよね。雅志も翠と同じくプロを目指して真面目にジム通いし練習の日々を送っている。2人ともプロを目指すんだから、意気投合。ってことにはならなかった。やっぱり雅志も女子だからってことで対等な目は向けられないんだよね。まっ良いんだけどさ。
 雅志ってしょっちゅう「ムチャすんなよ」なんだもん。そんなこといったら雅志だってムチャするなよだよ。そういうスポーツじゃんボクシングって。女だからって関係ない。男だって危険だよ。
雅志は練習熱心で黙々汗水流している姿はちょっとストイック入ってるかも。4年ぶりに会った雅志は相変わらず口は悪いけど、精悍な顔つきになっててちょっとカッコ良くなったかな。ちょっとだけね。
 それにしても・・・・・
 翠はグローブに包帯をぐるぐる巻いている雅志を見やった。
雅志って女のこにだからってグローブはめるの手伝うような奴だった?
翠はいぶかしげに思った。
雅志を視界から外して彩香にだけ視線を集中して向けた。楽しそうな顔してる。邪魔がいなければその顔ボコボコにしてやるつもりだったのに。
それでまた雅志に目を送る。
雅志の奴、今日に限って早く来るとは。彩香と試合できないじゃん。
 「間の悪いやつ」
ぼそっと呟いた。
 「翠も早く準備しなよ」
 彩香が雅志の存在を気にもせずに言った。
 試合の準備?
 よく考えてみればグローブに包帯を巻くのは試合の時だけだ。彩香は練習の準備でなく試合の準備を雅志に手伝わせているのだ。
 それで翠には命令。すべてを仕切ってる。
 アンタ女王様にでもなったつもりか。
 「2人だけの時にやるんじゃなかったの?」
 翠はむっとして答えた。
なんかムカツク・・・
 「いいの、雅志君は。レフェリーしてくれるんだから」
 翠は目を見開いて顔を雅志に向けた。
 「どういうこと雅志」
 「彩香にどうしてもって頼まれたんだよっ」
 雅志は目を反らして吐き捨てるように言った。
 おかしいよ。雅志、口でははっきり言ってないけど、女子ボクシングのことあまり認めてないのに・・・。
 翠は雅志に目で抗議を送る。雅志は目を合わせないままだ。代わりに彩香が答えた。
 「アタシら付き合ってるんだもん。多少の我侭は聞いてくれるよ、雅志君優しいし」
 「なっ・・」
 間抜けにも声が漏れた。でも、そこから続けて出そうにも声が詰まった。
 心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさ。
 「ちがっ・・」
 雅志が慌てて口を挟んだ。が、彩香が左の頬を撫で撫でしてるのを見ると口篭ってしまった。
 「まあ、まだ付き合って2週間経ってないんだけどねっ」
 彩香の言葉が余裕を持った人間の者のように聞こえる。
 自分だけが知らなくて、自分だけ除け者にされているようで自分だけが子供のようでなんだか惨めだった。
──────こうなったら絶対に負けられない。
 彩香がTシャツを脱いだ。
 「じゃーん。スポーツブラにしちゃった。せっかくの試合なんだしこういうのって重要じゃん」
 なにが重要なんだか意味不明。
 「翠もスポーツブラにトランクス着たら?たしか、更衣室にあったでしょ土井さんがよく使ってるやつ」
 翠は無視して更衣室へ向かった。どっちがボクシングで上か決めるだけなのになに格好まで気合入れてるんだ。
 でも・・・黒いスポーツブラに黒いスパッツできめた彩香の姿はカッコ良くあったのも事実だ。
 これで自分が普段の練習着だったら自分がださく見られるかもしれない。
 雅志の存在も翠に見栄えを気にさせる。
 って雅志はもういいのに・・・
 翠は溜め息をついた。
 再び、練習室へと戻った翠はスポーツブラにトランクスの格好で決め込んでいた。すでに彩香はリングの上、コーナーに背中を預けていた。当然のように赤コーナー。
ふうっ・・。
 翠もリングへと上がる。
 「ルールは2分4R。スリーノックダウン」
 「わかったっ」
 彩香が満足げに答え胸の前で二度両拳を打ち合わせた。
 翠はアホらしくて黙って首を縦に振って見せた。
 手に取っていたゴングを雅志が鳴らし、試合を始まった。彩香はゆっくりとコーナーから出てくる。翠も同じようにゆっくりと距離を詰めていった。
 スパーリングは何度かしたことあったけど、ヘッドギアはつけてたし、相手を必要以上に痛めつけないって暗黙の了解があったわけだから、試合はこれが初めてになる。それにスパーリングの相手はいつも先輩が相手だったってのもあったから自分がどれだけ強いのか翠はよく分からないでいた。だから、彩香よりも強いって確信があったわけじゃない。
 ただ、自分がプロ用の練習を積んできたのに対して彩香はあくまえボクササイズの練習だったのだから彩香よりも弱いはずがないって気持ちはあった。そもそも彩香の倍は練習してるんだから。
だから、一層ショックだった。
 翠が出したパンチは彩香に当たらずに空振りを繰り返す。逆に彩香のパンチがボコスカ翠の体に当たるのだ。
 非情なる現実に翠は焦りまくった。なにせ彩香のパンチがほとんど避けれていない。彩香のパンチが速過ぎて見えていないのだからパンチを浴びるのもしごく当然だった。
 彩香に速射砲のごとくパンチを連打されて翠はそのほとんどを浴びまくった。その様は彩香のサンドバッグといってよかった。彩香はパンチの打ち放題。翠は打たれ放題。自分のパンチは空振りを繰り返し、彩香に良いようにパンチを打たれ続けて、1Rの途中から自分が情けなくてたまらなくなっていた。
 顔を打たれて吹き飛ばされてばかりなのだから状況なんてよく分かっていない。痛くて泣きそうになるダメージが次から次へと顔を走り、弾けたパンチの音、ぶへっとかぶほっとか情けない自分の声が自分の意思に反して口から漏れて頭に響く。連打の途中、調子に乗った彩香のほらほらほらって掛け声が余計に苛立ちと合わさって自分の惨めさを増幅させた。 
 ロープを背負わされてパンチを打たれ続けた状況のまま第一R終了のゴングに救われた。
 連打を止めた彩香はふふんと心地良さそうな表情を浮かべている。翠はロープに手を絡めなければ立っていられないという状況の中で。
 虚しくてカッコ悪くて涙が出そうだった。
 さらには、追い討ちで彩香がコーナーに戻ろうとする際に
 「何十発殴ったかな?。その不細工な顔まだまだ殴るから」
 てコケにされた。
 くそぉっ・・彩香のやつ調子に乗って。
 自力でコーナーに帰るまでに10秒以上かかった。着いたと同時に尻餅を付いて背中をコーナーに委ねた。
 息を乱れっぱなしだし、顔のあちこちが焼けるように熱くてヒリヒリする。
 翠は頬に両手を当てさすった。
 女のこのパンチでも頭がくらくらするってことがわかった。そりゃあ50発近く打たれたんだから無事でいる方が変かもしれないけど、女のこって男から思われている以上に力のない生き物なんだってトレーナーから話聞いたことがある。パンチの打ち方も教わらないと分からないくらいだしやっぱり闘いには向いてないってことだよね。でも、彩香のパンチはメッチャ効いた。威力だけじゃない。スピードだって目で追えないくらいの速さだ。ボクシングを完全に自分のものにしているように翠の目には映った。
 なんで、彩香がメチャクチャ強いのよ。こんなの理不尽だよ。
 翠は唇を噛み締めた。
 でも、棄権なんてできない。それだけはイヤだよ。
 水の跳ねたような音が耳に入った。雅志が漏斗の形をした容器を彩香の顔の前に持っていた。うがいをしたようだ。
 いくら付き合ってるからってレフェリーが選手の手助けしていいの。
 文句付けようかと思ったら今度はこっちにやってきた。
 「もう止めようぜ・・。別に負けても恥ずかしくねえって」
 なんだ、止めにきたのか。
 翠はがっかりした。自分にも水を与えに来たと思ったのに。
 「ううん。まだやれる」
 つっけんどんに言い返した。
 雅志は水の入ったビール瓶を翠の顔の前にもってきた。
 「うがいしとけよ」
 いいよなんて突きかえす余裕なんてまったくなかった。
 喉がからからで水が欲しかったのだ。
 右手で奪うように取るとしゃぶりつくように水を口に含んでいた。彩香が口をつけた 後だから間接キスになるけど、気になんてしてられなかった。雅志の出した漏斗状の容器の前に吐き出したあとでふうって息を吐いた。
 雅志の前でみっともなさすぎるとこ見せちゃったよ。
 翠は唇を噛む。
 しかし、疲れとダメージからすぐに吹っ切れた。
 もうどうでもいいや。
 「彩香の付き合ってるって言葉あれ、あいつの勘違いだいから。信じるなよ」
 えっ・・・
 そうなの?彩香の勘違いなの?
 なんだ、それ早く言ってよ、誤解しちゃうじゃない。
 でも・・・なんか訳ありって感じだ。
 少し、吹っ切れることができた。これで、試合も逆転できたらいいのに。
 2Rが始まる。
 誤解も解けて大反撃。なんてわけもなくこのRも翠は彩香のパンチを浴びまくった。
 さらにはぶっ飛ばされてダウンもした。
 翠はガッツで立ち上がった。倒れてはまた立ち上がり、またパンチの雨を浴びてリングに沈む。
 それが終わり無く続いた。
 何度倒されたかはよくわからなくなっていた。たぶん、3度か4度。受けたパンチの数はゆうに100発を超えている。
 それでもKO負けだけは喫しないように意地で闘い続けた。
 3R終了がした頃には翠の顔面は原型を留めていなかった。ものもらいになったかのように腫れ上がり、目を塞ぐ両瞼。頬は怒って意図的に膨らませているのかと誤解を受けるほどにパンパンに膨れている。
 翠の顔は女のこかと疑問符が付くほどに醜くくなっていた。
 「もう止めだ」
 雅志が突然翠の恐れてたことを口にした。
 「あたしはまだやれる」
 翠は慌てて自分の意思を強調した。だが、別人のように醜く腫れ上がった翠の顔に説得力は皆無だった。誰が見ても翠はもう限界である。
 「やれるやれないじゃねえんだよ。レフェリーストップだ。レフェリーなんだろ俺は」
 そうだ、雅志はレフェリーだった。
ってことは試合終了で自分の負けじゃない。
 そりゃもう殴られたくなんてないけど、でも、彩香に負けたら精神的な苦痛でジムに通えなくなるよ。
 なんとか続けさせないと。
 「あたしは雅志のことレフェリーなんて認めてないもん」
 「あのなー」
 「翠って楽しいこと言うね。続けさせようよ。雅志君はあたしだけのレフェリーってことでいいじゃん」
 彩香が笑う。
 雅志は彩香の方に顔を向けた。何か言いたげだったが下を向いて、
 「勝手にしろ」
 不貞腐れるようにして言った。
 最終Rが始まる。
翠はもう立ってるだけで精一杯だった。
 開始から30秒が過ぎた頃には勝敗の方は諦めてかけていた。だって、視界が塞がれてて前はほとんど見えてないし、息をするだけで辛い。それだから足も手もほとんど動かせない。どうやって闘えっていうのよ。
 これって最終R終了のゴングを聞くためだけに立っているようなもん。
 KO負けだけは絶対に嫌だったから。
 そういえば判定ってあったっけ? 
 雅志はレフェリーじゃないってことになったし。
 判定なければ幾分ましか。実質負けでも。
 と思っていたら、ハンマーで叩かれたかのような今までにない衝撃が頬に打ち込まれた。
それも一発だけじゃない。右から左から次々と。
 翠の表情から生気が抜け落ちていく。だらしくなく開いた口から垂れ流れる唾液が思考力の低下を物語る。
 パンチを受けた翠の頭の吹き飛び方といい、血の吐き出される量といい尋常じゃなくなってきている。
 それもそのはず。彩香は後ろへの引き、テイクバックの利かせた大振りのパンチを振り回していたのだから。
 ドボオォォッ!!
 翠の顔面を往復する左右のフックの連打が止まった。それと同時に翠の体がくの字に体折れ曲がり、表情がくしゃくしゃに歪んだ。
 ボディブローが翠の鳩尾のあたりに決まっていた。
 腹にめり込んだ拳をぐいぐい押し込んでいく。両腕の下がった翠は抵抗することさえできず彩香の嫌らしい拳の押し込みに悶え苦しむ。
 「ううぅっ!」
 頬が膨らみ、マウスピースが盛り上がった上唇からはみ出てその白い一部を覗かせた。
 「ぶぼおぉぉ!!」
 吐き出されたマウスピースは透明の糸を引きながらキャンバスへと落ちていく。直後、翠は前のめりに倒れ落ちていったのだが、彩香の体に触れると、両腕を腰に回されて抱き止められてしまった。
 翠の口からは白い泡が漏れ彩香の肩を濡らした。そして、目は白目を向いていた。マウスピースを吐いた時点で激痛に耐え切れず翠は失神していたのだ。
勝負は決着した。それなのに彩香は翠がキャンバスに倒れることを許さなかった。
 彩香は気が済まないでいたのだ。
 最後のフィニッシュは翠の顔面を打ち抜かないと。意識のある翠の顔面にパンチを打ち込んで倒さないと勝った気がしないと。
左手で首根っこを押さえたまま腹へとパンチを打ち込む。
 ドボオォッ!!
 パンチの衝撃に反応するように翠の体はびくんびくん震える。
 「早く起きなって。ほらァ」
 と言って彩香は腹にパンチをめり込ませる。
 ドボオォッ!!
 翠は両手がだらりと下がったまま、踵もキャンバスから離れ、不自然な立ち方で体が揺れている。その姿は死人のようでもある。
 「まだァ?」
 もう一発翠の腹にパンチが打ち込まれる。
 ドボオォッ!!
 パンチを打ち込こまれた瞬間、くの時になった体とは反対に顎が上がり、前を向いた顔面から飛沫が上がった。
 「ぶうぅっ!!」
翠は目を見開き、意識が回復した。
しかし、それも数秒の間だけ。
 「意識戻った?じゃあ逝ってよし」
 KO負けされる苦痛を味あわせるためだけに意識を取り戻させ、そしてまた奪う。翠の体を両手で突き飛ばし、十分な距離を作ると彩香は完全勝利をもたらせる右ストレートを翠の顔面にぶち込んだ。
 グワシャアッ!!
 「ぶべえぇっ!!」
 翠の体は吹き飛ばされた。宙に舞った翠の小柄な体。撒き散る大量の血は拉げた顔面から噴き出ていた。
 両腕がバンザイしたその体は受身も取れずに派手な音を室内に響かせた。
 もちろん、カウントなど取られない。
 雅志が慌てて駆けつけて意識があるのか呼びかけてきた。ぼやけた視界の中で表情を青ざめさせている雅志。
 負けたんだあたし・・・
 とろんとした意識の中、自分の敗北を翠は理解した。
 雅志の呼びかけに反応を見せないと、大丈夫だからって言わないとと脳が思うものの口から発せられた声は言葉になっていなかった。
「あう・あう・・」
 だらしなく開けられた口が涎を垂らしながらぱくぱくと動くだけだ。
 雅志の呼びかけは続く。
 その後ろで彩香の不敵な笑みを浮かべた顔が映った。
 押し隠していた惨めな気持ちが途端に広がっていく。
 薄れゆく意識の中で最後に聞こえたの彩香の言葉に翠は一層体をぴくつかせた。
 「アタシの強さよーく分かったでしょ。てか、翠弱すぎだね」








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