家のブザーが鳴った。
 沈黙が続いた後、暫くしてもう一回。
 そっか、お母さん外に出てるんだっけ。
 ベッドに寝ていた翠は、出るべきか悩んだ。
 面倒だし、顔は腫れたままだし。
 やーめとこ。どうせ、新聞の勧誘だよ。
 3度目のブザーは鳴らなかった。諦めて帰ったかと思ったら、今度は窓ガラスがかつんと鳴った。石がぶつかったような音だ。
 なんだろう。
 外を見ると雅志がいた。慌てて、窓を開けた。
 「雅志」
 「いるじゃんか」
 「今開けるから待ってて」
 嬉しいような嬉しくないような、会いたい気持ちと会いたくない気持ちは半々といったところかな。
 部屋の壁に貼り付けられている鏡の前に翠は立った。
 酷い顔・・・。
 翠は溜め息をついた。
彩香とのスパーリングから2日経っても腫れは引かず、フランケンよろしくボコボコなままだ。
改めて自分の腫れ上がった顔を見て雅志と会いたくない気持ちの方が強くなってきた。 
雅志と会うと彩香との忌々しいスパーリングを思い出しちゃうかもしれないし。
といっても折角来たのに無下に追い返すわけにもいかない。
 とりあえず寝癖だけでも直しとくか。
 櫛で跳ねてる部分を梳かした。パジャマは着替えないままにした。怪我人だし、間違ってない気がした。
重い足取りで階段を下りてドアを開けた。
 辛気臭い顔をしてた。
 「よぉっ元気か」
 「元気に見える?」
 「思ってたよりは」
 「これでもメッチャ落ち込んでる」
 雅志がちらちらと翠の顔を見た。言い辛そうな表情を雅志はしてる。
 落ち込んでるんだから元気に振舞うことなんてできないなやっぱ。不自然なのってもっと空気が気まずくなるし。
 「ほらっ」
 目の前に白い紙袋を差し出した。
 「ありがと」
受け取り紙袋の中を見ると白い紙の箱がある。
 「甘いもん好きだろ。ケーキ買ってきた」
 「気が利くね。上がってよ、ケーキ食お」
 二階の自分の部屋に雅志を上げて待たせ、翠はコーラとケーキをお盆の上に乗せて部屋に戻った。
 ケーキは2種類の計4個、きちんと2人分あった。雅志もちゃっかりしてる。
 「体は大丈夫なのかよ」
 「顔が腫れてる以外はなんもないよ」
 「そっか」
 「ジムはどうすんだよ」
 「もういけないよ」
 ジムにも馴染んできたところだったけど・・・・
 「どっか違うジムに変える。ボクシングは続けたいから」
 「俺もジム変える」
 「えっ、なんでっ」
 「気分的に、なんだか練習する気起きねえんだ」
 それって彩香と会いたくないってことだ。
 ナイス雅志。
 「ふーん、じゃあ雅志に新しいジム探し、頼
もうかなー」
 「頼りにすんなって。まっとりあえずパソコンで情報でも探すか」
 雅志は部屋のパソコンに目を向けた。
 翠は立ち上がり、パソコンを起動させた。動かせるまでに暫く時間がかかる。翠は机の椅子に座ってそれを待った。
そうだ、大事なことを思い出した。
 「雅志、彩香の勘違いってなに?ちゃんと説明してよ」
 「ああ、あれか」
 雅志が顔をしかめた。表情をすごく嫌そうにしている。
 「スパーリングしたんだよ。俺は乗り気じゃなかったけど、彩香がどうしてもっていうから」
 雅志が息を付く。
 「手加減したつもりだったんだけどな」
  なんとなく話が読めてきた。
 「歯折っちまったんだよ」
 やっぱり、そういったところか。
 「それで、償うしかねえだろ。なにか俺にできることがあったらさせてくれって言ったら、その次の日から彩香からやたら電話がかかるようになってきて、遊んだりするようになったんだよ。断れないだろ」
 「ふーん」
 頬杖をつきながら雅志を横目で見た。歯を噛み締めやり場のない怒りに自分自身苛立っているようだ。
 もしかしたらってふと思った。
 「ねえ、雅志。ホントに彩香の歯を折ったの?」
 「えっ・・」
 雅志が考え込んだ。
 「いや、折ったよ。歯を見せてもらったし」
 「彩香の口から飛んでるところを見たわけじゃないんでしょ」
 「何が言いたいんだよ」
 「見せてもらった歯って彩香の歯じゃないんじゃない?」
 「そう思いたいけどな」 
 「もっと細かく説明してよ」
 「フックで殴ったら急にその場にうずくまったんだよ。それで大丈夫かって聞いたら歯が折れたって見せられたんだ」
 なるほどね、そういうことか。
 「どっちの腕で殴ったの?」
 「ん・・左だったな」
 「やっぱり、おかしい。スパーで彩香の恋人発言を雅志が否定しようとした時、頬なでなでしてたよね。あれ左の頬だったよ」
 「あっ・・」
 「そういうことなんだよ。どうせ、差し歯かなにか代わりの歯を事前に用意してたんでしょ」
 「くそっそういうことだったのか」
 「悪巧みもいいかげんにしてほしいよね。いつかとっちめてやんないと」

 彩香との因縁は以上なんだよね。思い出したくないくらい腹立たしくて忌々しいことなんだけど、でも、思い出すことで彩香を倒したいって気持ちに駆り立てられるから試合を直前に控えた今あえて思い出している。
 彩香に負けたから、雅志と一緒にジムを御坂ボクシングジムに変えた。
 それ以降、彩香とは会わなかった。新人王決定戦準決勝の日までは。そんでもって再会したその日にまた口喧嘩。
 揉めた理由は雑誌に書かれてるとおりだけど、どうみても彩香が悪いよね。内面はどう思ってようと報道陣の前では、対戦相手には敬意を送るもんじゃない。
 それを
「翠?相手になんないでしょ。練習が辛くてジムから逃げ出したような根性無しだしっ」だもん。
 性格の悪さがコメントに出てるよね。しかも、嘘入ってるし。いつあたしが練習辛くて止めたってことになったのよ。
 試合に勝ったら訂正させてやるんだから。
 だから、ぶったおすぞ、絶対に。
 

 そして、決戦の日。
 リングという舞台の上に立った主役翠と彩香の2人はゴングが始まる前、リングの中央に向かっていく。 
彩香と鼻息が聞こえるくらいの距離に立って顔を合わせると翠も彩香も互いに相手の顔を睨みつけた。彩香と目の前で対峙して睨み合ったのはこれで二度目。一度目はスパーリングの時じゃないよ。あの時はいい加減な進行だったから注意事項の確認はお互いコーナーで立ったまま済ませた。
 一度目は新人王トーナメント決勝進出を決めた夜、控え室で口喧嘩をした時。あの騒動がきっかけで本日のメインイベントっていえるくらい注目を集めることになっちゃった。マスコミの大げさな報道のおかげでね。新人王戦なんだからちょっとのいざこざ普通スルーっしょ。ったくホント下賎な話題が好きだよね。
 お客さんもね。
 歓声は拍手とか声援の数が半端ない。まっ彩香への声援が大半なんだけどね。人気って面じゃ彩香に負けてる。悔しいけど、彩香って人気が出る要素だけは揃ってるからね。顔も男受けしそうな童顔の可愛い系だし、これまでの試合全部KOで勝っている。そりゃ人気も出るよ。って人気取りのためにやってるわけじゃないから良いんだけどさ。
 彩香のライバルって扱いになっちゃってるけど、まあいいや。負けらんない気持ちは高められるし、大勢に注目されてると決闘って感じだよね。
 自然と握り拳に力が入ってきた。
 彩香が観客の方に視線を変えた。
「ねえ、聞こえる、観客の声。ほとんどあたしへの声援じゃん。人気者ってのも期待されすぎちゃって辛いんだよねー。ちょっとは翠にわけたいくらい」
甘ったるい声に人を小ばかにした彩香の表情。
 むかついたけど、怒りを抑えた。
 「別にいいもん。あたしには雅志がいるからね」
 「あー、雅志はもういいよ。もっと良い男見つけたし」
 彩香はちらっと後ろに目線を送った。
 赤コーナーには一人の若い男がセコンドについていた。金髪で少し肌が焼けている。いかにもイケ面って感じの顔だ。
 彩香と言葉を交わしてると苛々は増すばかり。
 「あっそう。あとで慰めてもらえる相手が見つかってよかったね」
 「負け犬が言っても説得力ないって。今度はその顔、元に戻らなくなるまで殴ってあげようか」
 もう我慢の限界だ。
 「バッカじゃない、全然頭ん中成長しないよね!ノックアウトしてその腐った頭少しはよくするから!」
 「2人とも私語はやめさない!」
 レフェリーが注意してコーナーに戻るよう指示された。
 むかついた。ふんだ、絶対倒してやるんだから。
 青コーナーに戻ると雅志が呆れたような声を出した。
 「落ち着きよ。ガキの喧嘩じゃねえんだ」
 「分かってはいるんだけどー」 
「肩に力入ってるんじゃねえの」
雅志が両肩にぱんと手を落とした。両肩に手を乗せたまま雅志が目を合わせる。
「ボディで崩してけよ。それだけは忘れるなよ」
 雅志の言葉に翠は頷いた。
「よしっ」
雅志はマウスピースを口にくわえさせた。
翠は振り向きリングへ体を向けた。すでに翠に向けて両腕でロープを握り待機している彩香に目をやる。
遠い距離で待ちながら二人は睨み合う。
 ついに試合開始のゴングが鳴った。
 翠はゆっくりと前へ出た。徐々に距離を詰めていく。
雅志さんの指示を守るため、自分の勝利のために翠は彩香の顔面を殴りたい気持ちを抑える。
 お互いがパンチが当たる間合いになると、彩香は積極的にパンチを打ってきた。翠の顔面へ向けてパンチを振り回す。
 ちょっと大振りすぎるんじゃないの。 
 これなら闘牛士のようにひらりひらりと避けられる。スウェートダッキングを駆使して彩香のパンチをかわす。
 あんまりディフェンスって得意じゃないんだけどね。でも、流石に彩香のパンチ大振りっすぎっしょ。これならディフェンス下手な自分でも避けられるよ。
 ダッキングでパンチの下にもぐった時、反撃のチャンスで狙い通りにボディブローをヒットさせた。
 当てた瞬間に下からパンチが上昇してきた。アッパーカットが翠の頬をかすめる。
 あっぶな-。彩香の狙いはあたしのパンチの打ち終わりか。
 しかも今耳元で凄い音したよ。シュバって。あんなん食らったら一発でも倒れちゃうかも。
 でも、ボディブローで攻めていくしか自分には手立てが無い。相手のパンチ恐れてちゃもっと追い込まれちゃう。
 覚悟を決め、ダッキングの後にまたボディブローで攻め続けた。ボディブローが当たるたびに彩香の反撃のパンチをギリギリのところで避けて冷や冷やの連続だった。
 パンチを当ててるのは自分の方なのにどんどん追い込まれている気がする。
翠は心の中で苦笑した。
割に合わない闘い方してるよね。
でも、あたしにはボディブローでダメージをしかできないから。これまで勝利をもたらしてきてくれたパンチに頼るしかないんだ。ボディブローでこつこつとダメージを与えていくしか。
翠のダッキングしてからのボディブローが決まり続けて第1Rが終了した。
 コーナーに戻り、椅子へと座る。
 「良い感じだな」
 「うん・・」
 あんまり景気の良い言葉は返せなかった。まだ2分しか闘ってないのに汗の噴出が止まらない。彩香のパンチ避けるのに神経使っただけでいつもの倍以上疲れた気がする。
 集中力が切れる前に試合を決めないといけない。でも、焦っちゃダメだ。まだまだボディにパンチを集めていかないと。
 気合を入れなおして第2Rに臨んだけど、第1R同様に冷や掻きっ放しだった。
 早くボディブローが効いて動き鈍ってこないかなって思ってきちゃうほど。
 反撃のアッパーカットをまたも避けると、体を彩香に預けた。
 ちょっと休憩。
「ハァハァ・・」
 あと、どれくらい当てるとボディブロー効いてくるかな。手応えのあるパンチはさっきから当たってるんだけど、即効性のあるパンチじゃないから根気がいるよ。
 頼むよあたしのボディブロー。
でも、ボディブローが得意のパンチなんてホント地味だよね。アッパーカットとか、カウンターとか、右ストレートならカッコ良いんだけど。
 そう思っていながらもボディブローに磨きをかけてきたのはデビュー戦でボディで相手倒しちゃったからなんだよね。偶然、カウンター気味にボディが入って相手は体を前鏡に丸めて両足揃て曲げてたからキャンバスにSの字になっちゃったんだよね。げほげほ咳をして相当苦しそうだった。 
 その時、自分は右拳に目をやってたんだよね。自分のパンチが相手をキャンバスに這わせているなんて信じられなかったんだ。
 柔らかいものを潰した感触。もっとはっきり言っちゃうと柔らかい肉を潰した感触。
 その後、気合で立ち上がってきた対戦相手に翠はひたすらボディ打ちを続けた。顔を殴られようと打つのをやめなかった。
 9発くらいボディが当たったところで相手は顔からキャンバスに沈んだ。4回戦だから、二度のダウンを奪った時点で試合終了なんだけど、そのままカウント続けてても立てなかったと思う。両手で腹をさすって何度もげほげほ咳こんでたから。
 デビュー戦がボディブローのおかげで勝てちゃったからじゃあボディに磨きかけてみようかなって思ったんだよね。
 なにか、頼れる武器が欲しかったし、漫画のように都合よくアッパーカットとかカウンターとか華やかなパンチが得意になれるとは到底思えなかったしね。
 でも、ボディブローってすごく勇気いるんだよ。相手と距離つめて腹にパンチを打つってことはその時、自分の顔面がら空きでしょ。
 顔面にパンチもらうの覚悟でないとボディは打てない。だから、勇気をもてないとボディ打ちはなかなかできないんだ。ミドルレンジから当てるだけのじゃなくて、接近して、体重を十分に乗せて力の込めたボディは・・・・
 本当に勇気がいる。
 「くすっ」
 小馬鹿にしたような笑い声が翠の耳をかすめた。
 「何笑ってんの」
 「翠のパンチ、見切っちゃった」
 「強がり言わないでよ。あたしのパンチもらいまくってるじゃん」
 「すぐにわかるよ」
 ちょっと気になるけど、虚勢だよね。パンチを見切ったなんて漫画の世界でしょそれ。
 レフェリーに引き剥がされると、休むことなく翠も彩香も果敢に前へ出た。彩香の言葉が確信なのか虚勢なのかはっきりさせるべく。 
 相変わらず大振りのパンチに翠はパンチを避けてボディブローを狙う。
 見切ったってそりゃこっちの台詞だよ。毎回同じ攻撃繰り返してさ。
 彩香の腹に右フックを打ったが、肉を潰す手応えを感じるはずがないまま、パンチは空振りに終わった。
 うそ・・・。
 翠は自分の目を疑った。
 接近戦でのボディブローをガードならともかくよけるなんて・・。
 翠は慌てて否定した。
 ううん、まぐれだよ。ボディブローはそうそうかわせるもんじゃない。
 しかし・・・
 パンチが当たらない。
 それまで決まり続けたボディブローが空を切り続ける。フックにバックステップで、ストレートにはサイドステップで避けられる。
 そんな・・・。
 本当にパンチを見切られてるの?
 翠は首を横に振った。
 パンチが当たらないのはお互い様。まだ、形勢が不利になったわけじゃないよ。
弱気になりかけていた気持ちを奮い立たせる。
だが、それも僅か数秒しか持たなかった。
グシャアッ!!
 翠の顔面に彩香の右ストレートがめり込む。
 翠の体が両手を上げて後ろへ仰け反った。
 翠の顔からは鼻血が垂れ流れていた。鼻血にくわえ口を開け間の抜けた表情の翠に彩香は小悪魔的な笑みを見せた。
 「さてと、翠のパンチも見切ったし、もう手加減やめるから。これからは100パーセントの力でパンチを打つから覚悟してよね」
 翠は言い返す言葉が見つからなかった。これまでのパンチが手加減だった?嘘つかないでよと言いたいところだけど、今受けた彩香のパンチはそれまでとはまったくの別のものだった。
 振りがコンパクトになったのに威力は頭の芯にまでダメージが響くほど強烈なものだ。
 ドボオォッ!!ドボオォッ!!
 空振りを繰り返していたのが嘘のように彩香のパンチが翠の顔面に命中する。
 瞬く間に形成は逆転し、翠はパンチの連打を浴び続けた。
彩香の豪腕フックに翠の頭が右に左にふられる。足が止まり、手が出なくなってきたことからも翠が弱ってきているのが目に見えて分かる。なによりキャンバスに降り注ぐ鮮血の量が激しい。
 うう・・パンチ返さなきゃ・・。
辛うじて避けた隙にボディブロー放つ。
だが、またもパンチを空を切り、翠は上体が泳いだ。
 その隙をついてついに彩香の右アッパーカットが火を噴いた。
 グワシャアッ!!
 「ぶへえぇっ!!」
 彩香の右拳が翠の顎を打ち抜くと、マウスピースが血反吐につつまれて放物線を描き高々と上がった。
 強烈なパンチの威力に翠は上体がよじれて頬をキャンバスに打ちつけた。体が丸まり、両足がくの字に揃ってしまい、両腕はお手上げといった万歳のポーズを取っていた。
 両腕の力で翠は立とうと必死に歯を食い縛る。体中から噴き出る汗が零れ落ち、両腕の力で持ち上げられた上体の下のキャンバスに水溜りをが出来上がっていく。 
 翠は視点が定まらないまま辛うじてカウント8で立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
 ここで2R終了のゴングが鳴る。
 ゴングに救われた格好になった翠だが、闘志の炎はまだ消えていない。
 まだ終われないよ・・・。
 ふらつきながらも自分の足でコーナーに戻り、すでに置かれていた椅子にどさっと腰を下ろした。 
頭をコーナーポストに付けて天を見上げた。そうでもしてないと座ってられないほど体が重かった。
 両腕もだらりと下げてたけど、それだとあまりに余裕がなさすぎるような気がしたからせめてもの維持で両肘をロープにかけた。これも結構両腕が楽っていえば楽だ。
 インターバルに入れて助かった。けど、この先どう闘えばいいのか泣き出したくなるくらい焦っていた。 
 2Rでノックアウトされる寸前なんてどうすればいいのよ。
 あたしは幕の内一歩でも堀口元気でもないんだよ。一発で逆転できるパンチなんてないの。むしろ一発で仕留められるパンチ力があるのは彩香の方なんだから。
 考えれば考えるほど不利な状況に追い込まれていると思えてきた。
 「どうすれば・・」
 翠は子犬のように弱々しい目で雅志の顔を見た。
 「弱気になるんじゃねえよ。もっと踏み込んでパンチを打って」
 もっと踏み込んで打つ。パンチが届かないんだからしごく当たり前な答えだった。
 都合の良い逆転の策なんてそうそうあるもんじゃない。ちょっとした攻撃の修正で挽回するしかないってことなんだよね。
ネガティブに考えるのやめよう。成せばなる。
3R開始のゴング。
 気を持ち直した翠だったが、3Rに入って30秒も経たないうちにキャンバスに這った。
 口から血反吐が止まらず瞬く間に赤い水溜りが出来上がる。
 立たないと・・・。
 頭がくらくらとしながらも反射的に思うのだった。
 でも、本当のところはもう辛くてたまらなかった。
 ラウンドが進めば進むほど劣勢な状況に立たされていく。パンチは当たらなくなり、彩香のパンチは良い様にもらっている。3Rも翠が放ったパンチは一発も当たらずに彩香のパンチを浴び続け連打に体が屈しキャンバスに倒れた。3Rでダウン2回。どんどん一方的な試合になっていく。
 彩香には負けたくない。
 負けたくないんだけど、今が辛いよ・・・・。
 一方的に殴られて苦しみ喘いで惨めな姿を晒して。
 だけど・・・
 翠はロープに手を伸ばし体を起こす。体がぷるぷると震えながらも両腕をロープにかけてカウント8で立ち上がった。
 負けられない。彩香にだけは負けられない。
 翠は前へ出て行った。壊れかけの機械のようにぎこちない足取りで足を進めていくも、狙い済ました彩香の右ストレートが翠の顔面を打ち抜き、翠はキャンバスを滑るようにダウンした。
 「あうぅ・・・」
 大の字になった体をキャンバスに横たわらせたまま天井を見つめる翠の顔は視線が宙をさまよい口は半開きになり朦朧としていた。

 負けられない・・・。
 多くを考えることができなくなり、本能が翠に立てと訴えかける。
 彩香にだけは負けたくないという翠の本能。
 翠はまたも立ち上がる。ざわめきの声が観客席から上がる。流石にもう翠は立てないだろうと見て捉えていたのだろう。
試合が再開されると翠は全速力で、それでいて亀のようにのろく相手に向かっていく。
 思考能力の低下している翠にはそれが危険な行為だということが判断できていない。今はダメージを回復させる時。スリーノックダウンで強制的に試合が終了になる危険性もある。
 「行くな翠!」
 雅志の声も翠には届いていない。
 翠を動かすのは彩香を殴りたいという本能だけだ。
 ようやく彩香の下へ辿り着いた翠を待ち受けていたのはジャブの速射砲だった。
 ズドォッ!!ズドォッ!!ズドォッ!!
 立て続けに彩香のジャブが翠の顔面に突き刺さる。
 彩香はジャブ一発で翠の動きを止めたあと、その場に棒立ちとなり開いた口から涎を垂らすもはや思考する力の欠片も見当たらなくなった翠の顔面に徹底して左ジャブを打ちまくった。
 後ろに弾かれては元の位置に戻ってくる翠の顔を彩香は実に気持ち良さそうに叩いていく。 
 翠の頭をパンチングボールのように彩香が弄ぶ。
 彩香のパンチングボール翠は顔の形が見る見るうちに変わっていった。頬も瞼も唇も青紫色に厚く腫れ上がり、豚のような醜悪な顔に形を崩されていく。
 翠の顔が悲鳴を上げた
 ブシュウッ!!
翠の顔から鼻血が噴出される。鼻の骨が折れたのではないかと思うほどに大量の鼻血が出た後も彩香は翠の顔に左ジャブを突き刺していくのを止めなかった。 
 膝ががくがく揺れて、右に左に体がふらつく。リングの上には血を噴きながら彩香のパンチでブザマに踊らされていく翠の姿がある。 
 勝負はもはや決した感があった。翠は反撃どころかボクシングすらできないでいる。観客達も二人のライバルストーリーは彩香に軍配が上がったと結論付けて、彩香のフィニッシュブローを待っていた。これ以上の虐めは見たくないという良心とKOシーンを見たいという欲望が交錯する矛盾した切望。
 あとは右のフィニッシュブローを放てば翠はKOされる。しかし、彩香は一向に右のパンチを打つ気配を見せない。
 ロープに追い詰めてなお、左のジャブで徹底的に痛めつけ翠を嬲り者にしようとしている。
 「ほらぁっどうしたの、あたしを倒すんじゃなかったっけ?殴られてるだけじゃあたしを倒せないってば」 
 翠から反応はない。打たれるままにパンチをもらうサンドバッグでしかないのだ。
 第4Rのゴングが鳴り、翠は彩香のパンチングボールから解放された。
 KOチャンスを逃したことで残念がる様子は彩香の表情からは感じられない。むしろ、満足げな様子で翠のグロッギーな姿を眺めている。彩香の態度からはチャンスはいくらでもあったのに左のジャブでの攻めに変え強制的に試合終了となる3度めのダウンを奪わないように手加減したのではないかという意図的な思惑が匂う。
 視界が乱れなくなったことでゴングが鳴ってからややあって翠もゴングに救われた状況を理解した。
 もう・・・ダメかも・・・。
 狭まった視界には彩香のうっとりとした表情が映っている。彩香が眼前まで顔を近づける。
 「あんたの顔殴るって凄く気持ち良いんだよね。まだまだ殴り足りないから次のRも覚悟しといてよね、不細工ちゃん」
 思考能力の低下した翠が彩香が侮辱の言葉を投げていることに気付くまで数秒かかった。
ふざけるなと言い返そうとしたときには彩香の姿はもうそこにはなかった。
 彩香の挑発に翠の闘争心が再燃する。
 それはさらなる惨劇を招くことになるのだが・・・。
 

 「またしても夏目ダウン!これで6度目のダウンです。果たして立ち上がれるのか、いや、もう試合を止めるべきではないのでしょうか!!」 
興奮する実況の声。鳴りっ放しの歓声。重さと熱気が交錯する場内の中、リング中央に翠は倒れていた。
 試合は実況のとおり、夏目が5度目のダウンを喫した。第4R以降も翠は彩香に立ち向かっていったものの、彩香の強打に捕まると翠は一方的にパンチの連打を浴び彩香にサンドバッグ扱いされてしまった。第4Rに2度のダウン。そして、5Rに合計6度目となるダウンを浴び、現在カウントを数えられているところだ。
ますます腫れ上がった翠の顔はもはや人といえるような形をなしていなかった。両目が潰れ、顔の輪郭が倍近くに脹れ上がったその顔は猟奇的ともいえ、吐き気を催す形に崩れ果ててしまっている。
 またも翠は立ち上がる。誰に目にも勝ち目がないのは明らかだというのに本能に従って翠は立つ。
 彩香に負けたくないという本能。同時にもうパンチを浴びたくないという本能も奥底にあった。
 「ますますキモイ顔になったね。恥ずかしくないの醜い顔晒して?」
 彩香の小にくたらしい挑発。
 「うっうるふぁい・・」
 まともな発音で喋らなくなっているほどダメージを負っているのに翠は言い返す。
 しかし、それこそは彩香の狙いなのだ。できるだけ翠を痛めつけようと、棄権されないように闘争心を煽らせる。
 翠の気持ちは空回りし、前に出たところを左のパンチで止められると右のパンチで吹き飛ばされた。翠の体が青のコーナーポストにぶつかり、後退が止まった。 
すかさず、距離を詰められて逃げ場を防がれた。にたりと笑みを浮かべると同時にボディに拳を打ち込む。
 翠は頬を膨らませぶほおぉっと苦痛に満ちた声を漏らした。
 それが殺人的な彩香のラッシュの始まりだった。
 右!左!右!左!
 「うえぇっ!!ぶおぉっ!!ぶはぁっ!!ぶひぃっ!!」
 セコンドの前で選手がなす術も無く殴られる残酷な見世物。右アッパーカットが翠の顎を抉ると血飛沫が場外にまで噴き上がり、雅志の頬に付着した。
 これが決定打となった。
 雅志の手に握り締められていた白いタオルがリングの中へ投げ込まれる。ひらひらと舞ってリングの中に入ってきたのを目で確認したのはリングの中ではレフェリーと彩香の2人。
 翠は自分の敗北が迫っていることを何も知らずにだらしなく口を開けてダメージに体をぷるぷる震わせていた。
 レフェリーが止めに近づいていくのを察知した彩香が右フックを叩き込み、翠の頭は吹き飛ばしてコーナーポストに叩きつけた。脳震盪を起こし目を回す翠は前のめりに崩れ落ちていく。
 だが、さらなる一撃が翠を待ち受けていた。試合を終わらせるためではない。翠のボクサー生命を終わらせるために放たれたとどめの彩香の右ストレートが翠の顔面にぶち込まれた。
 グワシャアァッ!!
 コーナーポストが支えとなって彩香の右拳が翠の顔面に深々とめり込んでいる。
 串刺しの処刑。
 翠の両腕がだらりと下がり、両足が斜め前に広げられつま先がキャンバスから離れた。自力で立つことが不可能な体勢なのにそれでも翠はなおキャンバスに沈んでいない。
彩香の拳によってコーナーポストに押さえつけられて立たされていた。
 ぐりぐりと抉りさらに痛めつける。翠の体がびくんびくん反応した。拳と顔面の狭間から垂れ流れる血の量が増した。
 レフェリーによって体を引き離されようやく翠は彩香の拳から解放され、翠はコーナーポストに寄りかかったままずるずると下がりダウンをした。尻餅を突き、両腕がだらりと下がる。
 びくびくと痙攣を繰り返し自分の意思ではもうどうにも体が動かない翠の上唇がもこっと盛り上がった。 
 唇の間から顔を見せたマウスピースは白ではなくなっており、真っ赤に染められていた。
 「ぶえぇぇっ!!」
漏れるように吐き出されたマウスピースは胸元に当たり弾むと両足の間に落ち、たちまち赤い水溜りがキャンバスに広がっていく。
 雅志が駆けつけ翠の名前を呼ぶ。
 翠は全く反応を見せない。壊れたような目線を下げ気味にキャンバスに向けたままセコンドの姿に気付いていない。
敗者の惨めな姿に慌てふためくは敗者の陣営だけ。勝者となった彩香は勝利に酔いしれ、レフェリーから勝ち名乗りを受けて両腕を高々と上げた。勝者は自分であるとアピールするかのように。
そして、観客も壊れ果てた翠の姿には気にも止めず、拍手喝さいを勝者となった彩香に送り続けるのだった。


2003年12月10日 後楽園ホール
○春見彩香 (5R1分37秒TKO) 夏目翠●


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