Growing up

第1話

 シャワーを浴びたことで、体にべっとりと付いていた汗は洗い落ちた。気分もすっきりし、未希は制服に着替え直して、二階にある聡美の部屋のドアを開けた。
 部屋の真ん中で聡美はあぐらを掻いて座っていた。部屋を見回すと前来た時と部屋の様子が変わっていた。ドアを開けた右側にあるはずの机は、本棚が置かれてある。逆に本棚があった場所には机が置かれてあった。聡美の部屋の模様替えはよくあることであり、驚きより呆れた気持ちが未希の心を占めていた。面倒なことをよくやるものだ、あたしには理解できん。
 部屋の中に入り、聡美の横に座った。
 「ほれっ」と言って聡美が投げたアクエリアスを未希は両手で受け取ると早速、口にした。
 「ぷはぁ、やっぱ気持ちいいわ」
 「おいおい、あんたはオヤジかい」
 「声も出なくなるほど、しごかれて疲れてるんだ。オヤジみたいな態度にもなるさ」
 「それでも女子高生かね」
 「文武両道を実践している理想的な女子高生じゃない」
 「はいはい、もうビデオいくよ」
 「そうだ、それを見てきたんだ。早く見よう」
 「ついに戦うことになったんだよなぁ、早いよねぇ、あれからもう一年半以上も経っているのかぁ」
聡美の言う通り、この一年半はあっという間に過ぎていった。そして、この一年半で、未希と周囲の状況は大きく変わった。まず、一つ目は聡美がボクシングを始めることになったことだ。
聡美にボクシングを始めてみようと思っていることを告げられた時は驚いた。聡美はボクシングジムの娘だというのに、あるいはそのためかもしれないがそれまでボクシングに全く興味を示さなかった。あたしと小泉の試合を見て触発されたのかと思ったが、聡美の目を見て深く尋ねることは止めといた。「そっか、ボクシングは辛いよ」「うん、分かる」聡美は遠くを見ているようで映していないような複雑な目をしていた。その目を見て未希は聡美を応援することに決めた。
二つ目は未希と小泉が揃ってプロデビューを果たしたことだ。体育館で未希と小泉が戦ってからニヶ月後の女子ボクシング大会に未希と小泉が出場を果たした。まず、第一カードで未希がリングに上がり見事にKO勝利を収めた。次の試合で今度は小泉がプロのリングに上がり、こちらもKOでデビュー戦を飾った。二人はその後も白星を重ね、現在、未希は六戦全勝五KO、小泉も六戦全勝五KOの戦績を残している。
 また、聡美も二人から一年遅れで、プロのリングに上がることが出来た。聡美も白星を重ね、目下、ニ戦全勝二KOと順調な滑り出しを見せている。
 そして、ついに未希は小泉と試合をすることになった。しかも、メインイベントである。たかが八回戦の試合がメインイベントになるのは異例のことだったが、お互い無敗の女子高生対決(美少女対決という言葉もお約束でついていた)という話題性からメインイベントになったらしい。その情報を知ったときは見世物のようで気に入らないと思ったが、一年と半年という歳月を経て再び、しかもプロのリングのメインイベントとして戦うことが出来ることを会長の口から告げられた時は思わず興奮してしまった。
 聡美はテレビをつけ、ビデオのスイッチを押した。
 画像が変わり、アップで映し出されている生意気な顔は小泉のものだった。続いてポニーテールにして髪を束ねている印象の薄い顔をした女の子の顔がアップで映し出された。
 試合は面白みにかけていた。1Rから小泉ペース。左のジャブから小泉がラッシュをかけ、相手はクリンチでラッシュをしのぐ。それが何Rも続いた。しかし、もう終わりに近付いていることに違いない。小泉のラッシュがここにきて一段と激しいものになっていた。相手は完全に戦意を喪失し、体を丸め、ひたすら防御に回っている。それでも、小泉は手を緩めない。十秒後、レフェリーが割って入り、小泉の体を制すると、相手は無防備に前へ崩れ落ちた。レフェリーが両手を交差し、試合は終了した。勝ち名乗りがされると小泉が右腕を上げ、笑顔を作った。
倒れたまま動かない対戦相手の顔面が映し出された。無残にも変わり果てた醜悪な表情。見ていて気持ちのいいものではない。
 「よくまぁ人の顔をあんななるまで殴れるよな」
 「未希も一回あんな顔にされたしね」
 意地悪そうに聡美は言った。
 「あ〜、思い出させるな、あの時のことなんか」
 「まぁいいじゃない、未希は勝ってるんだしさ」
 「そうだけどさ、すんごく辛かったんだぞ、試合が終わったあとも顔は痛いし、歯は一本折れちゃってるわで、試合に勝っても割にはあわなかったよ」
 「こっちだって心臓に悪かったよ。未希の顔がすんごいことになってるわ、毎回顔を汚してコーナーに帰ってくるわで、まぁ今となっては良い思い出だけどね」
 「勝てば良い思い出、負ければ最悪な思い出。勝負事なんてそんなもんだ。もちろん、今回も勝って良い思い出にするよ、あたしは」
 「気合が入ってるねぇ。で、ビデオ観て何か分かったことはあるの?」
 未希は頭をさすりながらえへへって笑った。
 「いいや、全然」

 翌日、未希は教室へ入るとクラスメートの視線を一斉に浴びた。何事かと思い、辺りを見回して、未希の表情が固まった。小泉裕子対相坂未希再戦決定!決闘日1月21日決闘場所北沢タウンホール。教壇にある黒板にはこう書かれていた。
 呆れるしかなかった。こんなことをするのは小泉の取り巻きくらいのものだ。相変わらずガキっぽいことを平気でする。
 未希は前へ出て黒板に書かれてある文字を消した。
 「おまえ等の見世物じゃないんだよ」
 未希の口から出た大きな声にうるさかった教室が静まり返った。生徒たちの視線が未希に集まっている中、ガラガラっと音がしてドアが開いた。
 「何しているんだ相坂?」
 のんびりとした声を出したのは担任の阿部だった。
 「何でもありません。気にしないでホームルームを始めてください」
 ぶっきらぼうに答えた未希が自分の席へと戻ると、学級委員が号令をかけ、いつも通り、朝のホームルームが始まった。
 またもガラガラっと音がしてドアが開いた。
 「古矢、もうホームルームは始まってるぞ」
 「すみません、次からは気を付けます」 
 申し訳なさそうに聡美が言った。
 「今年に入ってこれで9回目だ。その台詞はもう聞き飽きた」
 背中を丸めながら歩いている聡美が未希の隣の席に座った。
 「まったく、9回くらいいいじゃない。20回は遅刻している未希に比べればあたしなんて可愛い方だよ」
 下らない落書きのせいでむしゃくしゃしていたため、聡美の意地悪い言葉に口を返す気にはなれなかった。
 「あれっどうしたの未希、恐い顔しちゃって、もしかして怒っちゃった?」
 「聡美のせいじゃない、幼稚なことされて腹立ってるだけだよ」
 「ふうん、なんかそう言われると気になる」
 「遅刻していない奴なら誰でも知ってるよ、後で聞けばいい」
 「そうするよ、取りあえずはっきりしていのは未希の機嫌は悪いってことだね」
 「そういうこと」

 トイレで用を済まし、蛇口で手を洗い、それが済むと、目の前にある鏡で髪をチェックした。
 だが、鏡に映っている自分の後ろにある顔に未希は思わず後ろを振り向いた。厳しい視線を向けている小泉である。
 「言っておくけど、さっきのやつ、あれ私達の仕業じゃないから。あたしだって迷惑してるんだよね、試合に集中したいのに」
 「言っておいて正解だね。すっかり誤解してた。なんだ小泉じゃないのか、じゃあ一体誰があんなことやったんだ、まったく」
 「さぁね、暇な人は一杯いるから分からないわ」
 「それにしても試合に集中したいとはありがたい御言葉だね」
「別にあたしが負けるとはこれっぽっちも思ってない。あたしが求めているものは完璧な勝利なの」
 「言うじゃん。でも、前回はあたしが勝ってるってことだけは忘れないで欲しいね」
 「ラッキーパンチで勝ったくらいで勘違いされても困るわよ。勘違いするのは勝手だけど、試合でショックを受けるのはそっちなんだから」
 「その言葉そっくり返すよ」
 「試合が楽しみだわ」
 「ああ試合が楽しみだね」
 小泉が背中を向け、トイレを出た。
 誤解を解きに来たのか、挑発しに来たのかよく分からなかったが、そのことはさておき、落書きをやったのが小泉じゃないことには少々驚かされた。前のように幼稚な嫌がらせにはもう興味がないようだ。実際、あの試合以降、聡美や未希に対する嫌がらせは一回もなく、小泉も少しは大人になったということらしい。でも、口の悪さだけは変わってない。まぁその方がいいさ。それじゃなきゃ小泉じゃないしね。
 自然と握り拳を作っていたことに気付き、未希は慌てて握り拳を解いた。


 
 まだまだ・・。
 腕立て伏せの回数は百を超えた。体の下には滴り落ちた汗で水溜りがぽつぽつと出来上がっている。百十を超えたところで腕の力を解き、体を床に付かせた。
休む間もなく立ち上がり、今度は鏡の前に立って、シャドーボクシングを始めた。頭の中に思い浮かべる対戦相手はもちろん、小泉だった。小泉の幻影相手に未希は戦った。足を使って攻めてくる小泉を未希はゆっくりと追い詰めていく。
 体中が汗だくになっても未希は貪欲に練習を続けた。
 そこまで自分を追い込んで練習に駆り立てるもの、それは未希が強さを求めているためであった。そして、彼女が強さを求めることになった原因は未希の家庭にある。未希が小学校高学年、中学生だった頃、父が家に帰ることは稀だった。それが父が愛人の元に寄っているためであることは口にはしなくても母も未希にとっても分かりきっていることであった。そして、いつからか父は未希と母を捨て、二度と家には帰らなくなってしまった。
 男なんかには絶対頼りたくない、そのためには一人で生きていけるほどの体と心の強さが欲しい。身も心も強くなるために未希はボクシングジムに通うことを決めた。それ以来、強さへの執着心はどんどん膨れていった。誰にも負けたくない。誰よりも強くなりたい。その気持ちが未希を練習へと駆り立てる。そして、ボクシングの上達が未希の自信に繋がっていた。
 だが、同い年で自分より強い存在がいると知った時、未希は心底悔しい思いをし、それまで築いてきた自信が揺らいだ。その後、その相手とはボクシングの試合をし、雪辱を晴らすことが出来たが、終始殴られ続けた上での大逆転の勝利であり、運良く勝てたに過ぎなかった。あたしは小泉より弱い。試合に勝った後も未希の心の片隅ではその思いが常にあった。小泉に誰もが認める内容で勝たなければ次のステップに進むことは出来ない。だからこそ、次の試合は負けるわけにはいかない。もちろん小泉という人間自体に負けたくないという思いだけでも負けられない理由は充分に成り立っているのではあるが・・。
 未希は鏡の前で動きを止めた。汗だくになり髪が乱れ切った自分が目の前に映し出されている。
 これ以上はオーバーワークかな・・。
 未希は休憩へと入った。しばらくの間休んでいると会長が声をかけてきた。
 「スパーリングやるぞ、リングに上がれ」
 未希は返事をして、グローブとヘッドギアを被り、リングに視線を向けて目を見開いた。リングの上には聡美が立っている。
 「あれっ、スパーリング相手って聡美なの?井上さんじゃないんですか?」
 「井上は昨日から京都行ってるよ、当分帰ってこない。うちには他にアウトボクサーがいないからな、取りあえず聡美に試しにやらせてみることにしたんだ」
 「そうなんだ」
 リングに上がる。
 「アウトボクシングしたことあんの?」
 「一回も無いよ」
 「大丈夫なんかね」
 「だからテストなんじゃないの」
 「まぁそうだけどさ」
 「始めるぞ」
 カーン
 聡美は足を使ってないが一定の距離を保っている。未希がパンチの当たる距離に近付くと左のジャブが放たれてきた。未希はウィービングでパンチをかわし続ける。そこからダッシュして距離を詰め、パンチを叩き込んだ。何発かパンチを入れると聡美は後ろへ距離を取った。
 未希と同じく接近戦を得意としている聡美はぎこちない動きを見せている。しょうがないかと思いつつも未希は再び聡美の懐に飛びこみ、フックを叩き込んだ。その後も未希はやりにくそうに戦う聡美の懐に簡単に飛び込み、パンチを打って出た。ロープに詰めて左右のフックが、二発続けて聡美の顔面に決まった。これ以上当てるとダウンするかなと思い手を休めた。その途端、下からパンチが振り上がってきた。夏見の顔の手前を赤いグローブが上がっていった。夏見の顔が強張る。
 カーン
 ここでゴングが鳴った。
 「やっぱ無理だな、止めだ。スパーリングは大下が来てからだな」
「全然だめ。あたしにアウトボクシングは向いてないよ」
聡美が言った。
「そんなもんだよ。インファイトもアウトボクシングも両方出来るなんて贅沢だ。それに最後のアッパーカットは良かったよ」
「最近アッパーカットに力入れて練習してるんだ」
聡美は弾んだ声を出した。
「誰のためにスパーリングやったんだかね」
 ヘッドギアを外し、未希は頭を掻いた。
 こんな調子で大丈夫かな・・。

 風が乾燥し、冷たい風が空気が流れる中、顔から汗を流しながら小泉は黙々と走り続けていた。車の数が少なく右側は綺麗な草原で覆われているこの道はロードワークとして最適の場所である。
 小泉の頭の中は未希のことで一杯だった。アイツはいくら殴ってもどんなに酷い顔になっても目からは闘志が消えることはなく、向って来た。それは小泉にとって信じられない姿だった。
 "オマエはもうボクサーじゃないんだ!!"
 試合後が終わった後、その言葉が頭から離れず悔しい思いで占められていた。自分はボクシングを嫌いになれないでいるのだ。悩んだ。悩み続けた。答えは一つしかなかった。ボクシングをまた始める。そして、もう一度戦って今度はアイツに勝ってみせる。
・・・・ふんっ、ボクサーになってやったわよ。
気分がむしゃくしゃして仕方がなかった。もっとスピードを上げて何も考えることが出来ないほど体を苛めようかと思った。
 「はぁっ・・はぁっ」
 一定のリズムで取られている呼吸の音が聞こえ、小泉は左に顔を向けた。にこにことした顔で走っている深見の姿があった。
「やっと追いつくことが出来た。裕子さん飛ばし過ぎだよ。このペースじゃ最後までもたないよ」
 「深見が遅すぎるのよ。あたしにはこのペースがちょうどいいわ」
 「はりきってるんだね。次は未希さんとの試合だから気持ちの入り様がやっぱ違うんだな」
 「そんなんじゃないわよ。別に未希だからって関係無いわ、だいたい何であたしがあんな弱い奴相手にはりきらなきゃいけないのよ」
 「大声出すとペースが乱れますよ。あっそれと今度の試合も僕が裕子さんのセコンドに付くことになったから」
 マイペースに穏やかな口調で話し、にこにこした表情をしている。
 「もう、勝手にしてよ」
 小泉はさらにスピードを上げて、深見との距離を離した。
 「ちょっと・・それ以上スピード上げたらやばいって」


 
 決戦の日。
 リングの上には中央で睨み合っている未希と小泉がいる。間近で睨んできている小泉の顔を見て、未希の闘志はさらに沸いてきていた。
 青コーナーに戻り、自らセコンドを志願した聡美から未希はマウスピースを受け取った。その時、聡美は「頑張って」と言った。
 赤コーナーでは深見が小泉にマウスピースを手渡した。その時、深見は「頑張って」と言った。
 ゴングが鳴り、二人はコーナーを飛び出した。




第2話

 ゴングの音が鳴り、未希は青コーナーへと戻った。椅子に腰をかけると聡美の差し出した掌にマウスピースを吐き出した。
  試合はすでに4Rが終わっている。序盤、アウトボクシングに徹した小泉が試合をリードした。予備モーションの少ない左ジャブが未希の顔面に鮮やかに決まり続けた。小泉のアウトボクシングが未希を翻弄し続け、このまま一方的な展開になるかと思われたが、3Rに入り、未希は左ジャブをかわし始め、接近に持ち込みパンチを浴びせ、3、4Rは未希のRだった。試合は今のところ、互角。だが、試合の流れが未希に来ていることは間違いない。
 「その調子だよ、未希」
 聡美は未希の前でタオルをばたつかせ、風を未希に送る。
 「ああっ、小泉の左には慣れた」
 未希はぎらぎらと目を光らせたまま、気を緩ませない。
 第5Rが始まり、未希は元気良くコーナーを飛び出した。
 ────さぁ来い。また懐に潜ってやる。
 未希は的を絞らせないよう上体を揺らす。まだまだスピードの衰えない小泉の左ジャブが未希の顔面めがけ飛んでくる。何発か食らいながらも懐に潜り込むことが出来た未希はパンチのラッシュを始めた。未希の右ストレート、小泉は左フックを返す。未希の左フック、小泉も左フックで反撃。パンチを交互に当て続ける打ち合いが続いた。
 未希は自分のペースが続いていることを確信していた。手数は同じでも自分と小泉ではパンチの威力で桁が違う。あたしのパンチは鉄球をぶつけているようなものだ。3Rから徐々にもらい始め、このRでついにノーガードの打撃戦、小泉の体には相当なダメージが溜まっているはずである。
 グシャッ!!
 未希の左フック。
 ドゴォッ!!
 小泉もパンチを返す。激しいパンチの打ち合いに小泉はまだ食らいついてきている。
 しかし、その均衡もついに崩れた。未希の右ストレートで小泉が後ずさりしたのだ。未希がすかさず距離を詰めていく。
 カーン
 運の悪いことにここでゴングの鐘が鳴った。ロープに手をかけていた小泉はふらふらと赤コーナーへ戻っていった。未希は小泉に顔を向け、その姿をしっかりと見つめていた。小泉の体には相当なダメージが残っている。だけど・・
 「小泉はもうふらふらじゃない。あれなら次のRもダメージが残っているね」
 「ああ、最後のパンチは手応えが違った」
 「もう、すぐ・あっ」
 聡美が驚き、言葉が途切れた。
 「右目が完全に閉じてる・・・」
 そうなのだ。1Rから浴びてきた小泉の左ジャブ、そして、5R小泉が執拗に放ち続けた左フックで右瞼が腫れ上がり、視界が遮られてしまったのだ。
 聡美が氷を当て、腫れた右目をアイシングする。だが、一度閉じられてしまった視界をこの試合中に再び開けることはもはや出来ない。残った右目で戦うしかないのだ。
 いや、不安な面を考えるのは止めておこう。小泉にも相当なダメージがあるのだ、右目を代償にして与えた深いダメージが。

 一方、赤コーナー。
 「足へのダメージは?」
 深見が聞いた。
 「大丈夫よ、まだまだ動けるわ」
 深見が小泉の口に瓶を持っていた。小泉ががらがらっとうがいをする。ぺっと吐き出した水は血が混じり赤色になっている。舌を何箇所か切ってしまっている。体の感覚も鈍ってきている。
───相変わらずパンチ力だけは半端じゃない。
唇についた水滴をグローブで拭い、小泉が口を開いた。
 「それにただではやられなかったわ。相手の右目を奪ったんだから」
 次のRが勝負の分かれ目になると小泉は思った。

 第6Rのゴングが鳴る。山場になるなと思いつつ、未希はコーナーを出ていった。
 ダメージが回復していない今がチャンス、未希は前へ出た。突如、未希の視界から小泉の姿が消えた。
何処だ!?
相手の体が見えないことが未希の心に焦りをうんだ。風を切る音がかすかに耳に届いた。
次の瞬間、未希の頬がへこみ、首が派手にねじれた。小泉の右ストレートが未希の顔面を鮮やかに打ち抜いたのだ。すぐに体勢を立て直すも、小泉の姿はない。右にいることは間違いないのだが、正確な位置が分からない。
 グボォォッ!!
 またも、小泉の右ストレートが未希の顔面にぶち込まれ、未希の体がよろめいた。小泉の姿を捕らえ、未希が前に進むが、再び小泉は死角へと逃げていく。それでも未希は勘を頼りに闇雲にパンチを出していったが、結果は目に見えていた。
ズドォォッ!!ズドォォッ!!ズドォォッ!!
未希のパンチは空転を繰り返し、小泉のパンチだけが一方的に決まり続けていく。しかも、パンチを空振りし、体勢を崩したところに右のパンチが何発も。
 このR未希は小泉のパンチで躍らされ続け、ゴングが鳴る頃には未希の顔面は見るも無残に醜く変っていた。

  第7R、状況は変わらないでいる。狭い視界を頼りに未希は一定の距離を保とうとする小泉を追い駆け、パンチを放つも小泉の体にはかすりすらしない。体勢を崩したところにパンチを浴び、再び視界から消えた位置から強烈なパンチをもらい続けた。
 右のストレートで顎を打ち抜かれ、未希はたまらず小泉の体に抱きついた。今の一撃で足にダメージがきてしまっている。
────離れられたらまずい。
 だが、レフェリーが二人の体を放し、再び距離が離れてしまった。
 小泉が向ってくる。体が視界から姿を消す。見えない恐怖が体を襲う。慌てて顔を右に向け、小泉の体を捕らえた時、視界は赤で覆われていた。小泉の拳がめり込み、未希の顔面を潰した。グシャァッと鈍い音が生じ、未希の顔面から血が飛び散っていった。
 だが、パンチを放った小泉も顔をしかめている。お腹に未希の拳が突き刺さっているのだ。
 未希は一瞬、頭がぼうっとなり、ふらふらと後退した。ロープに体を預け、両足で踏ん張り、相手の体を見つめる。咄嗟に放った一撃で攻略の糸口が見えたのだ。ダウンをしている場合ではない。
 小泉が距離を取り、今度は未希が前へ出た。無防備な未希の顔面へ小泉が右ストレートをぶちかます。未希は顔面を醜く歪ませつつもパンチを放つ。狙うは小泉のボディ。顔を動かすことは簡単だが、ボディの場合そうはいかない。
 グボォォッ!!
 未希のボディブローが小泉の体に決まった。
 「うう・・」と小泉が声を漏らす。
 さらに未希はボディブローを当てる。小泉が後退し、未希が追い駆ける。未希の顔面へ小泉は右ストレートをぶち込むが、未希は構わず、小泉にボディブローを突き刺す。肉を切らせて骨を絶つ。片目を失った未希にはこの戦法に全てを委ねるしかなかった。小泉のパンチを受け続け、体の方は限界まできている。いつダウンしてもおかしくない。何度も倒れてしまいそうになった強烈な小泉のパンチをもらった。それでも、気力でダウンを拒み、小泉のボディにパンチをめり込ませる。未希はボディへ小泉は顔面とパンチを打ち続けた。顔がボコボコに腫れあがり、血塗れになっても未希は決して倒れずに小泉のボディへ叩きこむ。
 先に根負けしたのは小泉の方だった。未希のパンチで動きが止まり、そこから未希のボディブローの集中放火が開始された。一発一発が小泉の体に深くめり込み、小泉が呻き声を漏らしていく。そして、小泉の口から血が吐き出された。
 小泉のその姿を未希は見逃さなかった。顔面へのパンチを決行する。
────その瞬間を小泉は狙っていた。未希のパンチは小泉の頭の右を通り過ぎ、小泉の渾身の力が込められた右ストレートがカウンターとなって未希の顔面へとめり込んでいった。
グワシャァッ!!
 未希の顔面がめり込んだ小泉の拳からゆっくりと離れていき、変わり果てた姿を場内に見せた。未希の強力なパンチ力が合わさった小泉のパンチは未希の顔面をひしゃげさせてしまっていた。
 拳圧で歪んだ未希の顔面はすぐ元に戻ったが、目は宙をさまよい開いた口と鼻からは血がぶち撒かれていく。
 そして、未希は後ろへ崩れ落ちた。



第3話

カウントが進んでいく中、未希は立ち上がろうと懸命にもがいた。カウント8で未希は立った。だが、表情は虚ろだ。試合が再開されると小泉がすかさず、距離を詰め、パンチの体勢に入った。未希は虚ろな目で立ち尽くしたままだ。
 ドガァッ!!ドガァッ!!バキィッ!!グシャァッ!!
 めった打ちとなる。しかも、ロープに挟まれ、逃げ場を断たれている。未希は一方的にサンドバッグにされた。
 ゴングが鳴った。未希はコーナーへ戻った。
 未希は虚ろな視線で唾液を口の端から漏らし、両腕を垂らしながらコーナーポストに体を預け、椅子に座っていた。
 「未希、しっかりしろ!」
 聡美の激が耳に届くが、声を出すことすら出来ない。
 何でこんなことになっているんだっけ・・・。目か・・・。
もう右目だけじゃ無かった。左目の視界も半分程閉じている。視界が極端に狭まっていた。
 ゴングが鳴り、最終Rが始まる。
 もはや走る力は残されておらず、亀のようにのろいスピードでしか前へ歩を進められない。
 対照的に小泉の軽快なステップを踏みながら、とどめを刺しに来た。小泉が視界から消えた直後、左ジャブニ発が未希の顔面に入った。そのジャブで距離を測ったかのように、小泉が大きく踏み込んだ。
 グワシャァッ!!
 「ぶはぁぁっ」
 小泉の右アッパーカットが未希のあごを捕らえる。そして、未希の体は軽々と宙へと吹き飛ばされていった。両腕がバンザイをし、口から大量の血とマウスピースが吹き出ていく。背中からキャンバスに落ち、そのまま両腕をバンザイのまま未希は動かない。目は虚ろ、だらしなく開かれた口の周りには血の跡がついている。
 カウント無情にも進んでいく。未希は立ち上がる気配を見せず、そのまま派手に倒れ込んでいる。
 「フォー、ファイブ」
 負けられない。小泉なんかには負けられない・・
 未希が目をぱちくりと瞬きさせ、上体を一気に起こした。力を込める。未希は立ち上がった。
 「まだまだだよ」
 レフェリーに言い放ち、未希が再開を促した。
 小泉が表情をひきつらせ、ダッシュして向って来た。未希の死角から攻めることをせず、一直線にやってきた。平静さを失い、そのことを忘れているのかもしれない。それでも、グロッキーなままリングの上に立ち尽くしている未希の顔面に小泉の右ストレートは容易く決まってしまった。
 ドゴォォッ!!
 鼻血が散り、未希は後ろへ飛ばされる。体がコーナーポストにぶつかり、その衝撃で前へ崩れる。
 だが、小泉の右ストレートがダウンを許さなかった。小泉の拳が未希の顔面にめり込んだ、次の瞬間、未希の頭が大きく後ろへ吹き飛ばされコーナーポストに叩きつけられた。
 「ぐはぁっ」
 未希が血を吐き出す。小泉の拳は止まらない。さらにパンチの連打で未希の体を痛めつける。
 グシャァッ!!グシャァッ!!グシャァッ!!
 もはや簡単に決まり続ける小泉のパンチの雨に未希は意識が朦朧としていた。
 何でこいつはこんなに強いんだろう・・。あたしが欲するものをコイツは持ち合わせている。あたしはあれだけ練習したっていうのに小泉には手も足も出ない。誰にも負けない強い力ってあたしには届かないものなのだろうか・・。
 「未希しっかりしろ!そのままで殴られっぱなしいいのか!」
 コーナーポストの後ろから聡美の声が聞こえてきた。
 そうだ、負けられない、小泉なんかに負けられないんだ!
 聡美の言葉で自分の意思を思い出し、未希は拳に力を込め、思いっきりパンチを振り抜いた。
 グシャァッ!!グシャァッ!!グシャァッ!!
 一転して未希のラッシュが始まった。それまでの劣勢が嘘のように小泉の顔面にパンチが決まり、小泉は後ろへと下がっていく。闇雲にパンチを振り回し続けた。それでも、小泉の顔面へパンチは当たり続けた。呻き声、唾液、そして吐血とパンチが当たる度に小泉の口からは何かが漏れ出ていた。打撃音、そして、小泉の首の吹き飛び方は異常なまでに激しかった。
すごい、あたしのパンチ力ってこんなに凄かったんだ。
あっという間にロープに詰めることが出来、逃げ場のない小泉の体へさらにパンチを浴びせていく。限界を超えて体が動いていることが自分自身信じられないでいる。
 小泉が鼻血を口からも血が吹いている悲壮めいた顔で体に抱きついてきた。小泉の荒く、乱れ切った息遣いが耳のすぐ側から生々しく聞こえる。未希にも振り解く力は残っておらず、そのまま体を小泉に委ね、息を吐いた。
 「はぁっはぁっ」
 お互いの口から出てくる荒い呼吸が交じり合って耳に届く。
レフェリーが二人の体を離した。
 立っているだけでももう辛いけど、それでも前へ出た。意外にも小泉も前へ出てきた。
 「裕子さん、距離を取るんだ!」
 セコンドに付いている深見の叫び声が飛んだ。それでも小泉は前進を止めない。血塗れになった顔を修羅のように怖いものに変え、向ってくる。
 上等だよ、打ち合いをやろうってのか。
 未希は顔の位置まで両腕を上げ、打ち合いの体勢に入った。
 グワシャァッ!!
 小泉の右ストレートが未希の顔面を鮮やかに打ち抜いた。
 「ぶふぅっ」
 口から唾液を漏らしながらも未希は右ストレートを小泉の顔面に打ち返した。
 「ぐはぁっ」
 小泉の口から血が吹き出る。それでも小泉の右ストレートが未希の顔面へいく。そして、未希も再びパンチを返す。
何処にこんな力が残っていたんだろう・・・。もう両腕を上げていることも息をしていることさえ辛いのに、それでも手が出ていく。パンチを放つことが出来る。
未希はがむしゃらにパンチを打った。もはやテクニックを混ぜること力など残っていない、一発一発力を込めてパンチを放つだけだ。それでも、小泉の顔面にはパンチがヒットする。逆に小泉の大振りなパンチも未希の顔面にヒットする。
グワシャァッ!!
未希の右フックが小泉のテンプルを捕らえた。未希はそのまま体勢が崩れ、遅いスピードながらも小泉の体に目を向ける。小泉の顔は目の焦点が定まっていなかった。
チャンすとばかりに左右のフックを放つと小泉は身動き一つせずにフックの連打を食らった。さらに右ストレートを小泉の顔面へぶち込み、小泉は気を失ったかのようにファイティングポーズを取ったまま、後ろへとスロー画像のようにゆっくりと倒れた。
「裕子さん!立つんだ!あと試合の時間は僅かなんだ。立ちさえすればいいんだ!」
 仰向けの体勢で倒れたまま小泉は動かない。その様はのびてしまっているんじゃないかと思わせる。
 「あと、30秒しか時間が残ってないよ。そのまま寝ててよ!お願いだから」
 懇願する聡美の声がコーナーポストの後ろから届いてきた。
 もう時間がないのか・・。立ってこられたら・・・もう一度倒すだけだ。
 小泉が立ち上がった。レフェリーは試合を続行した。
 もう一度倒すだけだ・・
 だが、足が思うように動かない。体がもう限界まできてしまっているのだ。
 くそっ・・動けったら・・
 一歩ようやく動いた。だが、小泉まで距離はまだまだある。未希が向う場所である小泉は立ちあがってきているものの状況が分かっているのか虚ろな表情でファイティングポーズを取ったままその場に立ち尽くしている。距離が次第に縮まっているものの、それでも小泉との距離はまだまだある。
 「未希!時間が無いよ!早く!」
 未希は亀のようなテンポながらも一歩ずつ歩を進めた。小泉との距離も大分縮まり残りは少しとなった。だが、その少しがとても遠く感じる。
もう少し・・・勝ちに・・勝ちに行くんだ・・
 もう二歩前に出て、小泉との距離もあと僅か、二歩も進めばパンチが当たる距離になる。一歩。そして、もう一歩前へ出てついに間合いに入った。相変わらず小泉は呆然と立ち尽くしたままだ。
 未希が全ての力を込めたパンチを放つ。
 グワシャァッ!!
 「ぶぼぉぉっ」
 壮絶な打撃音と少女の異様な声がリングに響き渡った。その直後、キャンバスに崩れ落ちていく。残り時間は16秒。テンカウントを数えるには充分な時間である。だが、もはや残り時間は重要なものではなくなっている。何故ならキャンバスに倒れているのは未希だからだ。



第4話

 聡美は脱力し、膝が地面に付いた。未希が小泉との間合いを詰め、パンチを放った瞬間、小泉が倒れてくれることだけを祈っていた。だが、ダウンをしたのは小泉では無く未希だった。パンチを避けられ、小泉のカウンターパンチを顔面にぶち込まれた未希は血反吐を撒き散らしてキャンバスに崩れ落ちた。そして、身動き一つしないで倒れている。
 ホントにこれで終わりなの・・未希・・。
 嘘だと思いたくても倒れたまま動かないリング上の未希の姿が聡美に辛い現実をつきつける。
レフェリーが未希の顔を見やった。その直後、カウントを取ることをせず、すぐに試合を止めた。カウントを数える必要性は全くといって無かった。未希が立ち上がり判定にもつれてもポイントで大きくリードしているだろう小泉の勝利に変わりはない。それに、未希は白目を向いて泡を吹いていた。
 「勝者小泉裕子!!」
 レフェリーが名前を上げ、小泉の右手を高々と上げた。
 聡美は慌ててリングに入り、未希の元へ駆け寄った。
 「未希!未希!」
 叫び声を出しても未希は気を失ったままだった。

 誰かに名前を呼ばれている気がして未希は目を開けた。泣きそうな表情の聡美が目の前にある。
 「聡美・・」
 「未希!良かった〜、気を取り戻したんだ」
 何でこんなことになっているんだろう・・。そうだ、あたしは試合をしていたんじゃなかったっけ。
 「試合は?試合はどうなったんだ?」
 聡美が目を瞑り、首を左右に振った。
 あたし・・・負けたんだ・・。
 意外にも自分の負けを素直に受けとめることができていた。
 上体を起こす。
 「こらっ、立ちあがっちゃいかん」
 医者が怒鳴り声を出すが、知ったことではない。
 「小泉のところに行きたい。聡美、肩を貸してくれるか」
 「えっうん、分かった」
 辿り着き、背を向けていた小泉が振り向いた。
 「完敗だよ」
 未希は右手を差し出した。小泉も右手を出して、その手を握った。その最中、小泉は微笑した表情を見せていた。
 「ありがとう」
 小声だったが小泉はそう言った。すぐに小泉は背を向け、未希もコーナーへと戻った。
 「小泉がありがとうだってさ。気味悪ぃや」
 「未希が素直に負けを認めるほうがあたしにはびっくりだったよ」
 聡美が笑顔を作った。
 「なんだろね、あたしもよく分かんないよ」
 目を瞑り、再び開けた。未希はリング降りたあと、もう一度だけリングの上にいる小泉の姿を見つめ、試合会場を後にした。

 場所は下北タウンホール。目の前では女の同士の試合が行なわれている。未希は四回戦同士の退屈な試合をあくびをしながら眺めていた。小泉との試合が終わった後、徐々に悔しさが込み上がってきた。その日の夜、ベッドの上で泣きたくなるほど悔しくて悔しくてたまらない未希は思いを味わった。敗北の悔しさは日に日に薄れている。だけど、そうなるほど、何処か空虚な気持ちが広がっているような気がする。満たされない日々に気が抜けてしまっている。気持ちを高めるため、早く次の試合が決まって欲しかった。
 「ここ座るわよ」
 聞き覚えのある声に未希は顔を上げ、またすぐに戻した。
 「どういう風邪の吹き回しだよ、あたしの隣に座るなんて」
 「勝者の余裕よ」
 小泉は澄ました顔をしている。
 「あいにくあたしはそんな余裕持ち合わせてないよ。深見さんと見ろよ」
 「言っておくけどね、深見とは何でもないわよ」
 カチンときたのか小泉の声が高くなっていた。
 「まぁどうでも良いけどさ。誰の試合が目当てなんだ?」
 「もちろんメインイベントの試合よ、チャンピオンの戦いをこの目で見ておかないとね」
 「そりゃめでたい話だね」
 未希は視線を小泉と正反対の方向へ向けた。感情を見破られわけにはいかなかった。小泉が次のしかも、大きな目標を持っているのに対し、自分は倒すべき目標が相変わらず小泉のままであることに空しさを感じてしまったことなんて。
 「あなたは古矢の応援でしょ?」
 「そうだよ、聡美の応援」
 「一つ、忠告しておくけど」
 「なんだよ」
 「彼女負けるわ」
 「何でそんなこと言えるんだよ」
 不快に答えた。
 「相手が悪すぎる。森永久美。彼女まだ1戦しか戦ってないけど、そのデビュー戦で対戦を相手を再起不能にしたのよ」
 「なんだって!」
 「その対戦相手がうちのジム生だったんだけど、悲惨だったわ。鼻が潰れちゃってて」
 血の気が一気に引いた。そんなやばい奴が相手だったなんて、そんな情報全く入ってこなかったぞ。
 「あたしは聡美を信じる」
 自分に言い聞かせるように言った。
 試合が始まる。二人は前に出て足を止めての打ち合いを始めた。積極的にパンチを打ち合う二人だが、森永のパンチだけが一方的に当たっていく。しかも、その音が半端じゃ無く鈍い。最悪なことに小泉が言った通りの展開へと向っていた。
 2Rに入るとすぐに聡美はロープに詰められ、パンチのめった打ちを浴び続けた。強烈なパンチが次々とめり込み、聡美の体は派手に揺れている。
 未希の額から汗が流れる。
 勝つどころではなく、このままでは壊れてしまうのではないか。
 グワシャァッ!!
 聡美が前のめりに崩れ落ちた。顔がキャンバスに沈み、両腕を広げ、腰だけが持ち上がっている。目はぼんやりと宙を漂い、口からは血の付いたマウスピースがはみ出している。
 「だから言ったのよ。彼女じゃ森永には勝てないって」
 「まだ聡美は負けたわけじゃない!」
 小泉の顔を睨んだ。小泉の口が僅かに開いて固まった。もしかして────
 リングに再び目を向けると思い描いた通り、聡美は立ち上がっていた。
 ダッシュしてとどめを刺しに来た森永に聡美は右ストレートを浴びせた。森永はすぐにパンチを返す。再び打ち合いが始まった。今度は聡美のパンチも当たる。森永のパンチを食らう度に大きく体 がぐらつく聡美だが、必死になってパンチを返している。
 「まるで誰かにそっくりな戦い方」
 「イケ!そこだ!」
 小泉の揶揄を無視し、未希が大声を出して、応援する。
 森永の右フックが聡美のテンプルを捕らえた。それで聡美の動きが固まる。さらに左右のフックが聡美を捕らえた。その衝撃で聡美の口からマウスピースが漏れる。そして、森永の右ストレートが聡美の顔めがけて放たれた。
 やられる!そう思った次の瞬間、聡美は膝を曲げ、森永のパンチをかいくぐっていた。そして、右のアッパーカットを繰り出した。聡美のアッパーカットが炸裂すると森永の口からとてつもない量の赤い血が空へ吹き上がった。その中には白いマウスピースも混じっていた。森永がスロービデオを見ているかのようにゆっくりと倒れた。
 森永は口からは唾液を垂らし続けており、間違いなく顎が砕かれていた。
 未希の目は大きく見開かれていた。背筋に冷たいものが走っていることに未希が気付くのにはもう少し時間が必要だった。

 誰もいない屋上で未希と聡美は手すりに体を預けていた。先程から強い風で未希と聡美の髪は何度も乱れさている。こんなにも風の強く、体が縮こまるほど寒い屋上には生徒がいないのは当然だなと未希は思った。
 「明日で卒業だね」
 聡美が溜め息交じりに言った。
 「あんまり良い思い出はなかったよ」
 「まぁね、あたしらが御嬢様学校に通うこと自体がまず間違ってた」
 「ロクなことなかったな〜」
 「そうだね」
 屋上で卒業の話をして柄にもなく感傷的な気分に少し陥っているなと思った。学校ではたいして良い思い出はなかったというのに。小泉に勝っていればもっと気分良く卒業式を迎えることが出来そうかも知れない。でも、負けてしまったため、これから先、ボクサーとしてやっていけるのか少し不安な気持ちが今ではある。この気持ちを拭い去るには次の試合に勝つことだけなんだろう。
 未希は横目で聡美を見た。聡美はぼうっと天に顔を向けていた。
一週間前、聡美が四回戦の試合をして、勝利をした。2RKO。ダウン寸前まで追い込まれながらも聡美がアッパーカット一発で相手を沈めた光景はその場にいた未希の体を固まらせた。それはデビュー戦を勝利で収めたあとにこの目で見た小泉の1RKOの時と同じ感覚だった。
 それまでは小泉の存在しか見えていなかった。もちろん、世界チャンピオンが到達点であることには違いなかったが、それはあまりにも遠い場所で、日本ランキングにすら入っていなかった未希は日本チャンピオンすら遠い存在に感じていた。
 プロのリングでの小泉との対決で敗れてしまい、前へ進むことをストップさせられた。しかし、小泉に距離を少し離されたことは、逆に目の前にいる人間のもう一つの関係に気付かせる要因になった。
 いつか彼女があたしを追い抜く日が来るかもしれない。そのことを受けとめる度量が自分にあるのか、それは今、考えても仕方のないことだ。それに同じジム同士の選手は戦えない。どちらが強いのか判断するのはランキングになる。でも、あたしはボクサーだ。どちらが上なのか決めるのはリングの上でありたい。
 まずは確かめたかった。
 未希は大きく息を吸い込んだ後に一瞬溜めて吐き、聡美に顔を向けた。
 「聡美」
 「ん?」
 聡美が顔を向けた。
 「あたしと試合をしないか?」
 強い風が体に吹きつける中、未希は聡美の目を力強い眼差しで見つめ続けた。




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