Lily on the ring


第1話

 「世界戦が決まったぞ」
 会長のしゃがれ声を聞き、美優は思わず、大きな声を出した。
 「ホントですか!」
 「しかも、聞いて驚くなよ。なんと、平瀬そのみとの決定戦だ」
 美優は頬が緩み、目が細まった。
 嘘・・信じられない。世界戦が決まっただけじゃなくて、その大舞台でそのみと戦えるなんて・・・。
 「まぁ、そういうことだ」
 用件を簡単に済まし会長はその場を去っていく。だけど、美優はそのみとの世界戦に完全に意識がいっており、会長が行ってしまったことには気付いていなかった。
 美優の頭の中ではそのみと世界のベルトを賭けてリングに上がっているシーンが膨らんでいる。
 日本武道館が一杯になるほどの大勢の客。テレビ放送は日本だけじゃなくて、全世界で流れる。
 世界中の視線が注目している中、私とそのみは試合をするんだ。
 二人で君が代を聞いて、ボルテージをどんどん上げて、二人の名前がコールされる。もちろん、観客は大歓声。それで、ボルテージが最高潮になった時、ゴングが鳴るんだ。
そして、二人は得意の接近戦で打ち合い続ける。あ〜想像したらきりがない。
 練習中、しかも、サンドバッグを打つためにボクシンググローブまで両手にはめているというのに美優はそのことをすっかり忘れ、その場にぼうっと立って妄想を楽しんでいる。
やるんだったらまた、そのみと良い試合したいな・・。もちろん、勝つのはまた私だけどね♪
まだ続いていく美優の妄想は順一の声で立ち切られることになった。
 「美優、世界戦決まったんだってな」
 横からの声に美優は慌てて振り向いた。
 「えっ、あっ・そうだよ」
 「勝ったら世界から注目されることになるんだよな。あっでも、負けたら世界中にその姿晒さなきゃいけないのかな」
 順一は意地悪そうに言い放ち、美優の顔を見る。
 「もう、気分ぶち壊しなんだから」
 美優は大きく溜め息を付き、順平を睨んだ。
「あれ〜もしかして・・・怒らせちゃったかなっ」
順一はいそいそと、美優の元から離れていく。
 全く、何しにきたんだか・・・。
 えっと何してたんだっけ・・・・。たしか・・そうそう、良い試合をしたいなって思ってたんだ。
 そうだよね、もちろん、そうじゃないと。
 その時、順一の言葉を思い出してしまった。
 勝ったら、世界中から注目されて、負けたらその姿を世界に晒さなきゃいけないのかな・・・。
 たしかにそうでもあるんだよね・・・。
 美優は頭を掻いた。
 練習しよっと・・。
 美優はサンドバッグに再び体を向け、叩き始めた。

 そのみはジムの扉を開けて、中に入った。6時を過ぎ、ジムの中は大勢の練習生の姿で賑っていた。
 そのみはサンドバッグを叩いているななみの姿を発見し、彼女もそのみに気付いた。その途端、ダッシュして向かってくる。童顔の顔に両手にグローブをはめたまま、駆け足でこちらに向かってくるその姿はどこか可愛らしく見えた。
 「すごいですよ!そのみさん!」
 松崎ななみ。そのみにとってジムの後輩である。彼女は、そのみと美優との日本タイトルマッチを見て、感動し、プロボクサーになることを決めたのだ。そのことをななみがジムに入門して、一週間くらい過ぎた頃、本人から耳にした。
 ストレートの打ち方をそのみがななみに教えていた時、彼女は興奮して、感激の言葉を告げると、その後も止まることなく、どんどん口が動いた。
 「あの試合に感動しちゃって、それであたし、そのみさんのように強いボクサーになりたいって思って川木ジムに入門したんです」
 「ありがとう、松崎さん。でも、あたしなんかでいいの?だって、あの試合あたし、負けちゃったし・・」
 「勝敗なんか関係ありません。相手の強烈なパンチに真っ向から挑んでいったそのみさんの姿にあたし、感動したんです」
 ちょっと、照れ臭かった。
 「ありがとうっ」
 と言ったそのみの頬は赤く染まっていた。
 落ち着きが無く、賑やかでまだ身も心も大人に成長しきっていない女子高生松崎ななみがいつも以上に興奮して、そのみの元に向かってきている。
 一体何があったんだろう?
 「美優さんとの世界戦が決まったんですよ!!」
 「ホントっ・・」
 そのみが声を漏らしていた。
 「チャンピオンがタイトル返上して、世界ランク1位の美優さんと、2位のそのみさんで世界タイトルマッチ決定戦をやることになったんです!!」
 まるで、夢のようだった。
 あたしは、今、何もタイトル持ってないのに、世界戦をやれるなんて。しかも、対戦相手が美優である。
 一体どうなるんだろう・・・。
 想像もつかなかった。世界戦なんて今までテレビの中でしか見たことがない。だけど、その雰囲気は今まで自分が試合をしてきた時と違う、異質なものを感じた記憶がある。国内のタイトルマッチとは比較にならないほど大きな会場に客が満杯で入っている。アナウンサーも普段以上に熱が入り、日本人をひいきにした実況をする。国を背負い、戦うわけで客の応援もその重みが全然違ってくる。負けられない思いは国内の試合の何倍にもなるに違いない。
 しかし、今回はそのみと美優とで対決するのだ。日本人同志のタイトルマッチでは国の威信は関係なくなる。
 一体どういった雰囲気になるのだろうか・・・。
 やはり想像もつかない。
 一つだけ言えることは今、たまらなく胸が高鳴っていることだ。
 世界戦、しかも美優との三度目の対決でもある。
 興奮しないのがおかしいくらいだ。
 前回の試合でそのみは、美優に負けてしまった。
 次は絶対に勝ちたい。美優に勝ちたい。
 もしかしたら世界戦よりもそっちの方が重要なことかもしれない。いや、重要なことなんだ。
 そのみの気持ちが引き締まる。そこで、ななみの声が耳に届いた。
 「先輩聞こえてますか!!」
 「あっごめん、何?」
 「だから、あたし何でも協力しますからってさっきから言い続けてたんです」
 ななみは少し拗ねたように言った。
 「ごめん、あたしもななみを必要にしてるよ。頼りにしてるんだから。取りあえずロードワークに行こう。ねっ」
 そのみは柔らかい声でななみに声をかける。それで、ななみの機嫌はすぐに直った。
 「はい!」
 と元気な声を出す。
 「じゃぁ着替えてくるから待ってて」
 再びななみの元気な声が返ってくる。
 更衣室に向かう途中、ポケットに入れていた携帯電話がぶるぶる震えたことに気付き、そのみは携帯電話を取り出した。
 ショートメールだ。
  一体誰からだろう?

世界戦決まったね♪でさ、そのみ、時間ないかな〜今日とか明日とか? みゆう

 そのみはメールを打ち始めた




第2話

 美優は公園のベンチに座っていた。
 時計を見るとまだ、9時24分。待ち合わせの時刻にはまだ6分ある。少し早く来過ぎて、もう10分以上待っている。
 その間、美優はそのみのことを考えていた。
 そのみとは不思議な関係だと思う。試合をするほどにそのみとの仲は深まっていく。初め、美優はそのみに対して最悪の印象しか持ってなかったのに。アイドルボクサーの癖にと。
 でも、それはくだらない嫉妬だった。
 今でもそのみに羨望してしまうことはよくある。
 性格は素直ですごく良いし、私と違いスポーツだけでなく、料理も上手で女のこらしいし、何より彼女は綺麗だ。
 そういったそのみの面を見ると時々、羨ましいと美優は思うのだ。だけど、そんなそのみが好きなのだ。自分にないものを持っているから惹かれるのかは分からない。だけど、そのみと一緒にいるとすごく楽しい。それに、そのみを見ていると羨ましく思えることはあっても嫉妬にはならなかった。
いいなぁと素直に羨ましく思えるのだ。それはそのみが才色兼備でありながらも素直な性格の持ち主で憎めない奴だからかもしれない。魅力に溢れている娘だと美優は思う。
 美優は再び時計を見た。まだ2分しか経っていなかった。

 そのみは夜道を歩いていた。肩にはナイキのバッグを担いでいる。その中にはボクシンググローブ、練習着などが入ってるのだが、すれ違った人は皆、テニスの練習帰りとか、そんな想像しか出来ないだろう。半袖パーカーシャツに落ち付いた雰囲気のスカートを履いているそのみの姿はそちらの方が遥かにしっくりとくる。
 暗い夜道を歩いている間、そのみは美優のことを考えていた。
 美優といるといつも元気をもらえる。どんなに辛いことがあっても美優の活発な声を聞くだけで気分が晴れていくのだ。
 だから、ボクシングで何度辛い目にあっても、ここまで続けてこれた。美優がいなかったらおそらくあたしは、日本チャンピオンにすらなれなかったかもしれない。良きライバルであり、友達でもある美優にはとても感謝している。
 でも、今日からは美優に頼ることは出来ない。
 再び、彼女は敵になるのだ。
 公園に着いた。中にあるベンチで美優は座っていた。


 
 「ついに世界戦だね」
 美優は背伸びした。
 「うん、でも、なんだか実感湧かないな・・」
 「私も」
 美優は笑った。美優の顔を見たそのみもつられて笑う。
 「韓国との対抗戦あったじゃない」
 そう言うと美優はそのみの顔を横目で見た。
 一ヶ月前、日本と韓国で女子ボクシングの対抗戦が行なわれた。お互い女子ボクシングがより活性化するためであり、無名の選手同志ではなく、国のトップクラスの選手が参加した一大イベントとなった。その中に、美優とそのみも選ばれていた。
 美優の対戦相手はキムスヨンは韓国女子ボクシング界のスターであり、世界ランキング1位と世界ランキング6位の美優よりも格上の選手だった。
 そのみはというとこちらも世界ランキング2位の選手が相手であり、紛れも無い強豪である。
 「あの試合そのみの声が届いたから私、立ち上がることが出来たんだよ。勝てたのはそのみのおかげだよ」
 「それはあたしだって一緒だよ。美優、あたしが倒された時、リングのすぐ側で大声出して叫んでたじゃない。『立て!』って。あの声がなかったら立てなかったわ」
 「そういえばそうだったね・・。忘れてた」
 そのみはくすっと笑っていた。今度は美優がつられて笑う。
 「あの試合に勝ったからってまさか、1位になれるとは思ってなかったんだよね。しかも、すぐに世界戦のチャンスを掴めたし。なんか、怖いくらい上手くことが進んでいるよね」
 「運なんかじゃない。あの試合に勝てたのは二人で戦ったから勝つことができたのよ。あたし達の実力じゃない。ねっ」
 そのみは片目を閉じ、ウインクする。
 「うん」
 美優は頷く。
 それで、会話が止まる。
 美優は少し寂しげな表情をし、
 「でも、今日からまた敵同志になるんだね。会うのは今日で最後。メールも終り。次、会う時は調印式だね」
 「うん・・・美優、あたし負けないからね」
 「私だって」
 二人は微笑する。
 美優は立ち上がり、そのみに顔を向ける。
 「じゃぁね、そのみ」
 「うん、じゃぁね美優」
 美優は公園の外へ向かう。そのみはベンチに座ったまま顔を臥せていた。



第3話

 「さぁ、行くぞ。準備は良いな」
 会長の確認に、そのみは力強くゆっくりと「はい」と答えた。
 会長は「よし」と言い、扉を開けた。先に行く会長の背中に付いていき、試合会場内に足を踏み入れるとあまりにも大勢の客の視線が一斉に向けられ、そのみは圧倒された。世界戦の会場となった日本武道館にはいつもの10倍近い客がいる。
 そのみは場内に流れるBGMに体を乗せながら拳を振り、リングへと向かう。まだ、年齢は21歳ながらも丈が短く膝までないバスローブ風のお洒落なガウンを身にまとい、ボクサーとしての風格が出ている。前には会長、後ろにはトレーナーの横田とななみがいる。
 リングに上がり客席を見て改めて客の多さを実感した。それだけじゃない。自分に向けられている声援の量もいつもの10倍、いや、観客の熱気がすでにいつもの倍はあり、声援の量は20倍だろうか。それほどの多くの声がそのみに対し向けられていた。
 そのみは唾を飲んだ。
 これが世界戦なんだ・・・。

 会場に入る前から心臓が高鳴っていた。扉の向こうから大きな歓声が聞こえる。
 一体、どれほどの客がいるんだろう・・・。
 扉が開かれ、場内が見えた。
 美優は目を見開いた。
 場内は満杯で、立ち見の客もいるほど多くの人で埋っていた。
 こんな大勢の前で試合をするんだ・・・。
 そう思うと心臓の鼓動はさらに高鳴っていく。
 リングに目を向けると青コーナーではそのみがセコンドに囲まれながら立っており、美優に視線を向けていた。
 緊張している場合じゃない。
 そのみ、今そこへ行くから。
 美優は気を引き締めて、リングへと向かう。
 美優はリングに上がり、ガウンを脱ぐ。それは堂々とした振る舞いだった。今、美優の意識は全てそのみへと向かっている。
 役者がリングの上に出揃い、リングアナウンサーがマイクを掴む。
 「青コーナー世界フライ級2位平瀬そのみ〜!!」
 そのみが右手を上げた。相変わらず、いや、会場の大きさのためにいつもよりも遥かに多くの声援が送られる。
 「赤コーナー世界フライ級1位高橋美優〜!!」
 美優は両腕を上げ、声援を送ってくる観客に応えた。そのみに比べると数は少なくなるが、それでも自分を支えてくれるものではあることに違いはない。
 両者がリング中央に呼ばれ、体を対峙させる。
 美優もそのみも正面にある相手の顔を睨んだ。二人の関係は友達からライバルへとなっている。
 睨み合う二人に観客から大きな声援が送られる。
 世界のベルトを賭けて日本人の女性同志が戦うこの事実が観客達を熱狂させているのだ。


 二人はコーナーへと戻る。
 美優は会長からの指示に耳を傾けた。作戦はすでに決まっている。その確認をしただけである。
 ゴングが打ち鳴らされ、ついに試合が開始された。
 美優は慎重に前へと出ていく。勢いが売りの美優も世界戦では慎重にならざるを得ない。
 美優はそのみの姿に研ぎ澄ました視線を向ける。そのみも同じだった。慎重に距離を詰めてきている。
 パンチが当たる間合いになっても美優もそのみもなかなかパンチを出さない。緊迫した雰囲気に場内は息詰まる。
 特に美優は徹底していた。そのみは時折、左のジャブを放ち、様子を探るが、美優は一発のパンチを放つことなく、フェイントだけを見せ、揺さぶりをかける。パンチを放つと見せて体を止めたり、肩を何度も動かして惑わせる。
 ────まずはペースを掴まないと。10Rの長丁場なんだから、時間を有効に使って。
 パンチを一発も打たない自分自身がすでにじれていながらも美優は自分に言い聞かし、まだパンチを放つことをしない。
 そのみの顔に戸惑いの色が出ているように美優は思えた。まさか、私がここまで慎重になるとは思っていなかったに違いない。
 グシャァッ!!
 静寂なリングの上に突如、鈍い打撃音が響き渡る。
 美優の右ストレートがそのみの顔面にめり込んでいた。狙い澄ました一撃は鮮やかにそのみの顔面を捕らえている。
そのみの顔面が赤いボクシンググローブからそっと離れていき、ゆっくりと体が後ろへと崩れ落ちた。
 早くもそのみのダウンである。
 しかも、そのみのフィニッシュブローである右ストレートを美優から逆に決められてしまい、そのみはダウンをしたのだ。
 予想外の展開に場内がざわめいている。
 美優はコーナーポストに体を預け、仰向けで倒れているそのみに目をやった。
 そこまでダメージを与えているわけではなく、そのみはすぐに上体を起こし立ち上がる気配を見せている。 
 ─────ここまでは上手く作戦にはまっている。でも、様子見はここまで。
 そのみが立ち上がり、試合が再開されると美優は一気に前に出た。いつもの勢いがある荒っぽいラッシュが始まった。
 虚を突かれたそのみはガードを固めるしかない。防戦一方となり、ロープに詰まった。ガードが弾かれ、何発か美優のパンチをもらう。
 ここで、ゴングが鳴る。
 試合のペースを握り、意気揚揚と美優はコーナーへ戻った。
 そのみの表情、動きは少し硬かった。世界戦だから仕方のないことだけど、リングの上に立つ以上手加減なんてする気はない。
 早々にペースを掴み、次のRはすぐにラッシュをかけていくことを美優は決めた。
 弟2Rが始まり、美優はそのみの元へとダッシュして向かっていく。
ラッシュでこのRも私がペースを掴むんだ、覚悟してよね、そのみ!
 グワシャァッ!!
 パンチの音は連続して響くことはなかった。たった一発のパンチが連打を断ち切ったのだ。
 「ぶへぇっ!!」
 痛々しい声が上がるとマウスピースが無数のラインを作る血を供にして、高々と舞っていく。
 美優は血を吐きながらキャンバスへ、顔から崩れ落ちていく。
 そのみは右拳を高々と上げていた。



第4話

 美優の口から血が流れ落ち、キャンバスに赤い水溜りがみるみるうちに出来あがっていく。
 そのみの表情に1Rにあった硬さは消えており、毅然とした態度で倒れている美優を見下ろしている。
 私が得意なアッパーカットで反撃するなんて・・。受けた借りはきちんと返すってやつか・・・。やってくれるよね、そのみ!
 悔しさから美優は下唇を噛み締めた。
 得意のパンチで逆にダウンを食らうことがこんなに悔しいとは思いもしなかった。
 美優は立ち上がり、そのみを睨みつける。
 レフェリーが試合を再開すると美優は飛び出していく。
 「美優、落ちつけ!また、繰り返す気か!!」
 会長の声が届いてきた。
 それで美優は足を止め、はっとした表情を作った。
 すぐ頭に血が昇るのは私の悪い癖だ。初めてそのみと対決して負けたのはそれが原因じゃないか。
 ストレートでなく、アッパーカットで返したのはわざと私を怒らせることも意図してそのみはやったのかもしれない。
 だとしたら危ない、危ない・・。
 美優は再び慎重に歩を進めていく。パンチが当たるか当たらないかぎりぎりの間合いで立ち止まり、美優はそのみに喋りかけた。
 「これで五分と五分。ここからだよ」
 美優の言葉にそのみは表情を変えずに冷静な目で美優を見つめていた。
 それを見て、美優は唾を飲んだ。
 そのみは全く動じない。美優は試合は五分と五分と言ったものの今、試合の流れはそのみにあることを感じ取っていた。
 それを引き戻すには相当な覚悟が必要だ。
 美優は一歩、距離を詰める。それは勇気にいることだった。なぜならそのみのパンチが容易く当たる距離だからだ。
 ついに美優にもそのみにも得意の接近戦の間合いになった。
 もう小細工はなしだ。どちらがインファイトで強いか勝負だ!
 美優は左ストレートを放つ。その攻撃をガードで防いだそのみはすぐにパンチを返していく。接近戦において手数で負けてはならないことをそのみは知っている。もちろん、美優も手数の重要性を本能的に察知している。
 攻撃重視の打撃戦が開始された。
 美優の体にそのみの体に相手のパンチがめり込む。顔が歪み、口からは唾液や血が飛び散る。
 グシャァッ!!ドゴォッ!!バキィッ!!
 激しい打撃戦の幕開けと供に場内の熱気は一段と上がっていく。
 試合は5Rに突入していた。依然としてリングの上では激しい打撃戦が繰り広げられている。
 激しいパンチの応酬に美優もそのみの顔もすっかり腫れ上がってしまっていた。だが、数えきれないほどのパンチを受けながらも二人はお互いのフィニッシュブローだけは食らっていない。
 美優もそのみもお互い、フィニッシュブローは文字通り試合を決める威力を持ち合わせている。一発でも食らうわけにはいかず、美優もそのみも相手のフィニッシュブローには意識を充分に張り巡らせていた。
 だが、フィニッシュブローはもらっていないとはいえ、美優もそのみもハードパンチの持ち主である。それを2R以降、まともに受け続けてきた二人の体には相当なダメージが溜まっている。それでも二人は退くことをせず、相手の体にパンチを叩き込む。
 ドガァァッ!!
 鮮やかなパンチが一閃し、場内がざわめいた。
 美優の右フックにそのみがよれよれと下がっていく。
手数はほぼ互角だった。しかし、二人の間に一つだけ僅かな差があった。パンチ力では僅かに美優が勝っているのだ。 
 ついに差が生じていく。
 ─────勝つんだ!!そのみに勝って世界チャンピオンになるんだ!!
 美優が前に出た。ラッシュをかけていく。それはそのみの体にバシバシ決まっていく。そのみもパンチを返すのだが、攻める圧力で劣り、防戦へとなっていく。
 ガードを固め、美優の猛攻を凌ごうとするのだが、美優のパンチの力がガードを弾き飛ばし、そのみの顔面へとめり込む。徐々に腕の力が弱まっていき、ガードはもろくなるに比例して美優のパンチが決まっていくようになる。
 そして、試合はいつしか美優がそのみの体を滅多打ちしている状況に変わっていた。もはやガードは意味をもたない。美優が繰り出すパンチの大波にそのみは飲み込まれてしまった。その波はそのみの顔面を何度もぶちのめしていく。
 パンチを受けるたびにそのみは美優の強さを感じ取っていた。
 一撃、一撃がとんでもない威力であり、いつ、意識が飛んでもおかしくない。
 だけど、そのみの目は死んでいなかった。そして、美優の体をその生きた目でずっと追い続けている。何度も顔面を殴られて、頭を吹き飛ばされながらもすぐに目を美優の元に戻す。
 ────チャンスが訪れるのを待っていちゃダメ。チャンスは自分で探すものなのよ。
 そのみは自分に言い聞かす。じゃないと意識が何処かへ飛んでいってしまいそうだ。
 美優の攻撃は一層激しさを増していく。
 グワシャァッ!!
 マウスピースがきゅるきゅると回転しながら孤を描いて飛んでいく。2度、バウンドし、重い音を発てた。それとは別に人がキャンバスに倒れる大きな音がリングに響いた。
 そのみは自分の力を信じていた。最後までチャンスを必至に掴み取ろうとしていた。そして、試合展開は急変したのだ。
 今、キャンバスには美優が血反吐を吐いて倒れている。



第5話

 美優が大振りになったところをそのみは見逃さなかった。大振りといっても僅かに振りが大きくなった程度だった。
 しかし、研ぎ澄まされたそのみの集中力が逆転を可能にした。
 美優の右ストレートに対し、そのみは右ストレートを合わせた。矢のように速いそのみの右ストレートはカウンターとなって美優のパンチより先に美優の顔面にぶち込まれた。
 美優の決めに出たパンチの威力がそのまま自分に返ってくる。しかも、そのみのパンチの必殺パンチの威力も合わさってだ。美優の顔面は悲惨なほどに醜く変形してしまった。
潰れた顔面は元に戻っていく。だが、美優の表情は壊れていた。ダメージで目は虚ろになり、口はだらしなく開いている。
 美優は体を震わせながらも立ち上がろうと体に力を入れる。
 だが、美優の体は思うように動かず、カウントが無情にも進んでいく。
 それでも、気合で美優はカウント8で立ち上がることができた。
 ファイティングポーズを取り、試合は再開されることになったが、本能で取っているだけの美優のガードは簡単に突き破られ、そのみのパンチが美優の顔面に突き刺さっていく。
 立場は入れ替わり、一転して、そのみの猛攻が始まった。そのみのパンチの雨を前に美優の頭が右に左にふられていく。
 そのみが見せる激しいラッシュに場内はものすごい歓声が飛び交っていた。
 二人の間にレフェリーが割って入った。
 レフェリーストップ?
 美優とそのみは一斉にレフェリーに顔を向ける。
 「ゴングだ!コーナーに戻って」
 大歓声でゴングの音が消されていた。すぐさま、そのみが青コーナーへと戻っていった。すでに心は次のRに向かっている。
 美優はその場から動くことが出来ず、両腕でロープに掴まり、体を支えている。首を下に垂らしているが、目だけはそのみの背中を追っていた。
 まだ、まだ・・・。
 鼻血をポタポタとキャンバスに垂らしながらも美優は次のR反撃に出ることを心に誓った。
 第6R、そのみの猛攻は続く。前のRのダメージを引き摺っている美優は動きが明らかに鈍かった。体が思うように動かず、ガードに撤するしかなかった。それでも、そのみは隙を縫って確実にパンチを当てていく。しかも、徐々に強烈なパンチが美優の顔面を捕らえていく。
 そのみのパンチが美優の顔面を往復した。パンチのダメージが重なり、美優のガードは甘くなっていく。それから数十秒後が過ぎた頃には、そのみがパンチを出せば当たる、そういった状況に美優は陥っていた。これをサンドバッグと言わずして何と言べばいいのか・・・。
 そのみの拳が美優の体を打ち壊していく。美優は顔を殴られるたび、絶えず顔面から液体を飛び散らしていく。
 うう・・・。もうダメなのだろうか・・・。
 強烈なパンチを食らい続け、美優の心は弱気になっていた。もう、ラウンド前にそのみに向けていた牙は抜かれている。
 しかし、反撃のチャンスは巡ってきた。膝ががくっと折れた美優はそのみの右フックをかいくぐることが出来た。それはほとんど偶然に近かったが、過程はどうあれ、巡ってきたチャンスである。美優は反撃に出る。その一撃にはずっと溜められていた力が込められていた。
 しかし、そのみは目覚めてしまっていた。カウンターを取る感覚に。
 グワシャァッ!!
 またも、そのみの左ストレートがカウンターとなって美優の顔面に突き刺さる。
 「ぶべぇっ!!」
 美優は再び痛々しい苦悶の声を上げ、その場に崩れ落ちていく。
 うつ伏せであるが、尻だけが高く上がり、その姿はまるで尺取虫のようだ。両腕が真横に開き、頬がキャンバスに張りついている姿がさらに惨めな印象を場内の客に与える。両目は瞑っており、気持ちよく眠っているようにも見える。だらしなく涎をキャンバスに垂らして。


 カウントが取られる。
 美優は目を開いた。だが、その目は虚ろであり、だるそうに体を持ち上げる。
 美優は立ち上がる。しかし、依然として目は虚ろであり、そのみが勢いよく近付いてきていることにさえ、気付いてない。ボクサーの本能だけで立っているだけだ。
 そのみは迷いなく右腕を引き、美優の顔面へめがけフィニッシュブローである右ストレートを放った。
 そこで、ゴングが鳴った。
 そのみは美優の顔の僅か数センチ手前でパンチを止めていた。ゴングが鳴る前に放ったパンチであり、ルール上、美優にパンチを当てていても反則にはならないのだが、そのみはそれで決着が付くことを許さなかった。
 そのみの紳士的な戦い方に美優は救われる形になった。
だが、肝心の美優の目はもう輝きを失せていた。
 「もう終わりにするか?」
 美優の体を抱きかかえ、椅子に座らせた会長が確かめる。
 もう終わりに・・・。そのみは強すぎるよ・・私じゃどう足掻いても勝つことなんて・・・。
 美優は背中をコーナーポストにもたらしていた。じゃないと椅子に転げ落ちそうであった。顔を斜め下に垂らしながら、視界にそのみの姿が映った。
 美優とは対照的に背中をぴんと張って毅然とした姿で椅子に座っている。
 美優は改めて今、置かれている二人の状況の差をぼうっとした頭の中で実感した。
 だが、視線を上げ、そのみの顔に向けた時、美優は思わず口を開けてしまった。
 そのみは目を辛そうに細め、憂鬱な表情をしていた。
 ────何で、そのみ?何でそんな表情をしているの?
 ダメージから辛そうにしていることだけじゃないのは分かった。
 ────もしかして、私が不甲斐ないから・・・。そうなの、そのみ?
 情けなかった。こんなので終れるはずないじゃないか。何で私は諦めようとしていたんだ。まだ、体は動くよ。どんなに差が開いていても体が動く限り諦めちゃだめだ。
 「私、まだやります」
 「よし。美優、御前はカウンターの前にもう反撃の手段が何も無いと思っているかもしれんが、一つだけ有効なパンチがあるぞ」
 「なっ何ですか?」
 「御前の得意なアッパーカットだ。アッパーカットは最もカウンターを取ることが難しいパンチなんだ。御前の武器を最大限に活かすしかない」
 そうだ、私にはアッパーカットがある。でも・・・この試合まだ一発もアッパーカットを当ててない。果たして、当てることが出来るのだろうか・・・。いや、自分を信じなければ。絶対にアッパーカットを当ててやる。
 「分かりました。アッパーカットに全てを賭けます」
 美優は力強く答えた。
 「その調子だ」
 第7Rが始まり、美優はコーナーを出ていく。その目は力強くそのみに向けられていた。


第6話

 ゴングが鳴ると同時にそのみが美優の元へ勢いよく向かってきた。そのみは回復する時間を与えないつもりだ。
 あっという間に距二人の距離は縮まり、またもそのみのラッシュが始まった。
 美優の体は鉛でも背負っているかのように重く思うように動かない。スピードではとてもじゃないがそのみには敵わない。
 美優はガードして、そのみの猛攻に耐えるしかなかった。
 しかし、美優の目はそのみの細い顎を捕えたまま外すことはない。
 今は耐えるしかない。でも、その顎に絶対アッパーカットを叩きこんでやる。そのみに隙が出来るまでは待つんだ。
 しかし、そのみの攻撃緩まるどころかは怒涛の勢いが増していき、美優はまたもボコボコに殴られていく。
 グシャァァッ!!
 皮肉にもそのみがアッパーカットを美優の顎にぶち込んだ。
 「ぶべぇっ!!」
 美優の口から血が噴き上がる。客の視線が高く噴き上がっていく血に奪われるが、その間も美優はそのみのパンチを浴び続ける。
 ─────諦めちゃダメだ。
 力強い意志がなんとか美優の体を支えていた。
 だが、その強い意志さえも奪いかねない強烈なパンチが美優の御腹にぶち込まれた。
 ドボォォッ!!
 「ぶばぁぁっ!!」
 美優の口が大きく開けられ、唾液が一気に噴き出ていった。拷問ともいえるそのみの一撃は美優の鳩尾に決まっていた。
 もはや意志の強さ云々のレベルではなくなり、体中の力を奪い取られて口からは泡さえ吹き出している美優は両腕を下げ、前へと崩れ落ちていく。
 だが、幸運にもそのみの体に当たり、支えられる格好になった。いや、これは幸運過ぎていた。
 自然と右腕が動く。前にもこんな状況があったからだ。美優がそのみを大逆転でノックアウトしたシーン。まさにそのシーンが今、再び再現されようとしている。そのみの表情がみるみる強張っていく。しかし、その時にはもう遅かった。
 グシャァァッ!!
 ついに美優の右アッパーカットがそのみの顎を捕えた。
 「ぶひゃぁっ!!」
 美優が右腕を高々と伸ばし切ると、そのみの体が宙に舞った。
 浮いた体は口から噴き出ていく血と供に緩やかな孤を描いて宙を舞い、背中からキャンバスに落とされた。その衝撃でそのみの体は一度ヒキツケを起こし、背中がえびぞりした状態で固まってしまっていた。丁度ブリッジをしているような体勢である。そして、そのみの閉じられた口からはマウスピースがはみ出てしまっている。銀色の光を発するその白い物体はいっそのこと、キャンバスに落ちてしまっていた方がどれだけましだっただろうか・・・。



 激闘が繰り広げられたリングの中央。そこにはあまりにも惨めなそのみの姿がある。
 そのみはその惨めな姿を晒したままぴくりともしない。
 美優は顔をしかめ、目を背けた。
 そのみのブザマな姿なんて見ていられなかった。
 これで終りだっていうの・・?
 たった一発のパンチで終りなの、そのみ?
 鳴り止まない大歓声が悲鳴から歓喜へと変わった。
 美優が再びそのみの姿に目をやった。
 そのみは立ち上がっている。
 そうじゃなくちゃ、そのみ。
 美優は頬を緩ませた。そのみもその姿を見て、美優の心が伝わってきたのか笑みを浮かべる。
 お互いの意志を確認した二人はリング中央でパンチを打ち合う。
 そこから死闘は果てしなく続いていく。


第7話

 美優とそのみはリングの中央でパンチを打ち合っていた。あれからさらに、2Rが過ぎ、試合は9Rに入っている。
 美優とそのみは精も根も尽き果てた顔をしながら、なお、パンチを放つことを止めない。 
 ゴングが鳴った。
 美優はセコンドが置いた椅子に崩れ落ちていくように座った。背中をコーナーポストに預け、顎が上がる。
 「はぁっはぁっ」
 呼吸をすることさえ辛い。
 美優は目を瞑った。
 あと、1R・・・。そのみとの戦いもあと1Rを残すだけだ。
 気が付くと地鳴りのような大歓声が耳に届いていた。観客の異常なまでの熱気が目を閉じているのに伝わってくる。
 これが世界戦なんだ・・・。こんな大舞台で私とそのみは戦っているんだ・・・。
 目を開けた。周りを見渡して、最後に対角線にある青コーナーに目をやった。ライバルの姿を確認し、美優は気持ち良さそうな笑みを作った。
 体を前に傾け、拳を胸の前で打ち合わした。
 ────これが最後のR。この試合絶対に私が勝つ。

 足元がふらふらと覚束かないままに青コーナーに辿り着くと会長がそのみの体を抱きかかえ椅子に座らせた。
 会長がそのみの口からマウスピースを取り出し、ななみに手渡した。ななみはマウスピースを洗い終えると、次にそのみの体にまとわりつく汗をタオルで拭き取った。しかし、いくら拭いてもそのみの体からは汗が次から次へと止まらずに噴き出ていく。
 そのみは苦しげな表情で呼吸をしている。体力はとっくに底をついていた。それでも一つの強い意志がそのみの体を動かしていく。
 この試合が世界戦であることなどもはやそのみにとってどうでもいいことになっていた。
 美優に勝ちたい。
 そのことだけを思い、そのみは美優と戦っている。
 そのみこそが最も純粋な思い抱き、試合をしているのかもしれない。
 ただ、ライバルに勝ちたいだけ、それだけのために9Rまで戦ってきた。
 そのみから日本タイトルを奪った美優はその後、美優は日本タイトルの防衛回数を着実に伸ばした。
 美優が強くなることを、世界へと近付いていくことをそのみは嬉しく思った。
 自分もいつか美優に追い付く。そして、また、美優と戦って今度こそあたしが勝ちたい。そう思いながらそのみは過酷な練習の日々を過ごした。
 日韓対抗戦で美優が勝った相手キムスヨンは韓国の英雄、チェジヒョンのあとを継ぐ選手として韓国女子ボクシング界で最も将来を期待されていた選手だった。日本よりも女子ボクシングへの熱が高い韓国で最も期待をかけられている相手に美優は勝利したのだ。
 美優がKOした瞬間、そのみは自分のことのように喜んでいた。
 あたしに勝ったライバルはすごいボクサーなんだ。
 そのみの中で思いはさらに深まる。そして、今、その思いは最大に膨れ上がっていた。
 美優を超えたい。あたしは美優に勝ちたい。
 「時間ですよ、そのみさん」
 ななみの声が耳に届き、そのみはゆっくりと椅子から立ち上がった。
 マウスピースが会長の手から直接口にはめられる。次のRの準備が済むとそのみは心の中でもう一度呟いた。
 美優に勝つ、と。
 そして、最終Rのゴングが鳴った。

 二人はガードを忘れて打ち合った。判定での決着など望んでいない、狙うはKOのみだった。
 連打の回転を上げ、最後の馬力を美優が見せる。
 ───手数で負けちゃダメ・・・。
 そのみも負けじとパンチを放っていく。
 何度と無く二人の顔面にパンチがクリーンヒットした。
 「あぶっ!!あぶぅっ!!」
 間抜けな呻き声はそのみの口から漏れていた。美優が放った左右のストレートが鮮やかにそのみの顔面を捕らえたのだ。
 美優に勝つんだ・・・・。
 そのみはそう自分に言い聞かし、必死に耐える。
 だが、そのみの純粋な思いは打ち砕かれていく。
 グワシャァァッ!!
 美優のアッパーカットがそのみの顔面を押し潰した。
美優が右拳を振り上げるとそのみは体ごとゆっくりと反転して、足元が定まらず前へ崩れ落ちていく。
 そのみの視界が長方形の物体で覆われていき、次の瞬間には、顔面がコーナーポストにぶつかっていた。両腕がだらりと下がり、顔面がコーナーポストに埋ったまま数秒が過ぎた。顔がコーナーポストで擦れながら下がり、キャンバスに崩れ落ちていく。
 今度はそのみが尻を高く突き出して倒れている。高く突き上げた尻を美優に晒し、腫れ上がった顔はセコンドに晒している。
 美優に勝つんだ・・・
 ぼうっとした意識の中でそのみは何度も何度も呟いた。



 今でも右手にそのみの顔面を潰した感触が残っている。会心の一撃がそのみの顔面に決まったのだ。
 これでもう決まって欲しい。
 美優は懇願する。気力を振り絞り、打撃戦を制したのだ。もう、自分には体力が残っていないことを美優は承知していた。
 美優は目を大きく見開いた。そのみが立ち上がってくる。体がぷるぷると震えているというのに、呼吸することさえ、辛そうだというのに両腕をロープに絡ませて、執念で立とうとしている。
 そのみはカウント9で立ち上がってきた。
 試合が再開され、美優は気を取り直し、そのみの元へ向かっていく。案の定、足が思うように動かない。
 しかし、足のもつれはそのみの方がさらに酷かった。今にも倒れそうなほど不安定な前進をしている。
 そのみがパンチを空振りし、泳いだ体が美優の体にぶつかった。そのみが両腕を美優の背中に回し、離さない。
 二人はそのままクリンチして体を休ませる。
 いつも、シャンプーの爽やかな芳香を漂わせているそのみの綺麗な髪はくしゃくしゃに乱れ切っており、全身から発する汗の匂いが美優の鼻にまとわりつく。
 耳元ではそのみの苦しげな息遣いがなされ、そのみがボロボロに変り果ててていることを実感した。今までだってそのみが深いダメージを受けていることは分かっていた。だけど、不思議なことに間近で目にしたことでそれが紛れも無い事実として初めて認識することになったのだ。
 「美優・・・あたし・・負けないからね」
 美優の耳元でそのみがそっと呟いた。
 私のライバルはまだ、私のことを意識している。私に向けて闘士をぶつけてくる。
 普段、落ち着いていて優しい表情を絶やさないそのみだが、実は負けん気の強さは人一倍持っている。そのみと友達になり何度も遊び、そして、何よりそのみと何度も拳を交えてきたことでそのことを美優はよく分かっていた。
 「私だって・・私だって負けるもんか」
 美優の声はかすかに震えていた。
 何でだろう・・・ものすごい感動が私の心を包んでいる。


 レフェリーが二人の間に割って入り、美優とそのみは引き剥がされた。
 即座に美優は向かって行っていた。足が自然とそのみに向かって動いていたのだ。
 そのみはその場に立ち尽くし、美優を真摯な表情で見つめている。
 その顔面を美優は右フックでぶちのめす。
 グシャァァッ!!
 右フックがそのみの体を後ろへ吹き飛ばした。それから、美優が放った四連打がそのみの顔面を捕らえた。どんなパンチを放ったのか、美優は覚えてない。ただ、がむしゃらに放った全てのパンチがいいようにそのみの顔面に決まっていった。
 それでもそのみは立っている。人形のように立ち尽くしている。その視線はもう何も映していないのだ。
 残った力全てを次のパンチに込めて、美優は右アッパーカットを放った。
 これで終りだ、そのみ・・・。
 グワシャァァッ!!
 そのみの口からマウスピースが上空へと飛んでいった。


最終話

 薬品の匂いが充満している空間は久し振りだった。その時は、三日間ほど入院する必要があった。そのみにKOされてだった。
 美優は思い出す。あの時から、そのみとのライバル関係が始まったんだ。刺激しあえる存在ができ、これからの目標もできた。
 一年と半年後、美優は再びそのみと戦うことになった。ニ度目の対決は日本タイトルマッチという大きな舞台になっていた。その戦いで美優は接戦の末、そのみにリベンジを果たすことができた。その後も二人の関係は続いていく。いや、もっと仲は親密になった。
 そして、二人は世界タイトルを賭けて三度目の死闘を繰り広げたのだ。
目的の病室に辿り着き、中へと入った。
 二人部屋の奥のベッドにそのみはいた。目を瞑り、眠っているようだ。
 美優は椅子に座り、そのみの顔を見た。顔の腫れはまだ引いて無く、両頬には白く大きなばんそうこうが貼られている。もちろん、美優の顔面にも死闘の傷跡は残っていた。
 あれだけの戦いをしたのだから当然だよね・・・。
 目を瞑るとあの試合のことが鮮烈に思い出されてくる。

 飛び上がっていくそのみのマウスピース。
 美優が放ったとどめのアッパーカットはそのみの顎を捕えた。完璧な一撃だった。完璧な一撃が決まったというのに、それでもそのみは倒れないでいる。
 呆然とそのみの姿を見ていた美優だが、マウスピースがキャンバスに落ちた音ではっと我に返った。コンマ数秒の間、隙だらけとなっていた美優にパンチが飛んでくることは無かった。そのみは何も映してない瞳でその場に立ち尽くしたままだからだ。
 美優はもう一度右のアッパーカットを放った。御願いだからもう倒れてと心の中で泣き叫んでいた。
 その瞬間は思いもしていなかった。まさか、打ちのめされるのが自分になるとは。
 パンチが空転した美優は体を泳がせ、よろめく。そのみに背を向けた美優は全く気付いてない。そのみが右ストレートを放つ体勢に入っていることに。そして、そのみの方に顔を向き直したその瞬間、美優の顔面に痛恨の一撃がぶち込まれた。
 グワシャァァッ!!
 それは尋常じゃない威力のパンチだった。パンチの衝撃で美優の顔面がひしゃげただけではない。勢いよく吹き飛ばされた美優の体は、ロープの間からリングの外に跳び出て、場外に向けてロープに吊るされていた。膝の裏がロープに引っ掛かり場外に落ちるに落ちれないのだ。
代わりに美優の口からマウスピースが銀色の糸を引き、場外に落ちた。
グローブからはぽたぽたと血が垂れ落ちている。これは殴り続けて付いたそのみの返り血だ。
一方、そのみは倒れこむようにパンチを放った右手が勢いのあまりロープの外に出ており、脱力しきったように両膝をキャンバスに落として、ロープに寄りかかっている。


 その直後、気を失ったかのように前へとそのみの上体が崩れ落ちた。
 場内がどよめく。
 レフェリーがダウンを宣告し、カウントを取り始めた。
 二人はぴくりとも動かず、失神しているかのようだ。特にロープに吊るされた美優は白目を向いており、気を失っているのは間違いなかった。
 カウント5の時点で美優の足がロープから解け、場外に転落した。
 美優は場外でうつ伏せになったまま倒れている。
 カウントが進むが、二人は一向に立ち上がる気配さえ見せない。
 そして、レフェリーがカウント10を数えた。
 両者ノックアウト、この場合、どうなるんだとこのシーンを目撃した者達は思い、場内は騒然とする。
 「イレブン」
 カウントが進み、場内のどよめきはさらに上がった。
 レフェリーだけが把握していた。場外でダウンした場合カウントが20まで数えられるのである。これは美優のために数えられているカウントである。この時点でそのみの勝ちは潰えた。
 「フォーティーン」
 ここで、大きく歓声が沸き上がった。美優が起き上がり、キャンバスに左手を付いた。右手で最下段のロープを掴む。美優は虚ろげな表情で、リングに向かう。口は開き、目は焦点が定まっておらず、状況を理解しているとは思えなかった。しかし、美優は気だるそうにしながらもリングに向かっていく。
 「フィフティーン、シックスティーン、セブンティーン」
 美優がリングの上に立つ。
 「エイティーン」
 美優がリングの中に入る。
 「ナインティーン」
 美優がファイティングポーズを取ったのを確認すると、レフェリーが両腕を交差し、試合を終了させた。
 ゴングが三度打ち鳴らされ、レフェリーが美優の腕を上げる。
 しかし、その直後、美優は前へと崩れ落ちていった。キャンバスには二人の倒れている姿がある。
 そのみの右ストレートを食らった後のことを美優は何も覚えてない。勝利を知ったのは病室で起きた後だった。
 「美優」
 そのみの声が聞こえ、美優ははっと顔を上げた。
 「改めておはようっ」
 とそのみはにこっと笑った。
 「おはようって昼の2時だよ」
 「ここって陽が射すじゃない。だから、気持ち良くって」
 「気持ちは分かるけどねっ」
 美優は両腕を頭の後ろに回した。
 「これで入院して2日だよね。すごく退屈だよ、そのみがいなかったらもっと退屈してたけど」
 「たまにはのんびりするのもいいんじゃない、美優?あれだけ体動かしたんだし」
 「当分はね・・」
 と言って美優は苦笑いした。
 「ねぇ、屋上に行かない?太陽が気持ち良さそうだし」
 そのみの提案に美優は頷き、二人は病室を出て屋上へ向かった。
 扉を開けると日差しが二人の体を照らし、そのみの言葉通り美優は心地よさを感じた。
 手すりの側に行き、太陽の光を浴びながら二人は会話を続けた。
 「ねっ気持ち良いでしょ?」
 「うん」
  美優は顔に笑みを浮かべ頷いた。そのみに顔を向けると気持ち良さそうな表情を作っていた。
 「美優」
 そのみに名前を呼ばれて振り向いた。
 「世界チャンピオン、おめでとう」
 そのみは柔らかく微笑む。
 「ありがとう、そのみっ・・」
 美優は照れ臭そうに人差し指で鼻の下をこすった。
「でも、私、そのみに勝った気しないよ」
 「えっ・・何で?」
 「だって、カウントの数が違うんじゃ、不公平じゃない」
 「全然おかしくないよ。ルールはルールじゃない」
 「でも、納得いかないよ。最後、記憶なんて全くなかったし」
 「あたしも最終Rなんてほとんど記憶に残ってなかったよ、そういう試合をしたんだよね、あたし達って」
 そのみは感慨深く言った。
 「すごい試合かぁ・・」
 そのみに言われて初めてものすごい戦いをしたのだという実感が湧いてきた。
 「また、戦おうね」
 美優はそのみに顔を向けて言った。
 「うん」
 そのみが両腕を体の後ろで引っ張り、気持ち良さそうに背中を伸ばした。
 その後に美優に顔を向け、にこっと微笑んだ。
 「戻ろっか?」
 「そうだね」
 二人は自分の病室へと戻っていく。同じ病室へと。美優もそのみも同じ病室に入院しているのだ。
 屋上から屋内へと戻る入り口のところで、美優は背中を振り向いた。
 次はそのみと屋外で戦うのもいいかなと美優は思った。
 だけど、今は口にしなかった。
 時間は沢山あるんだ。その話は明日また、屋上でしよう。
 「どうしたの?」
 そのみが立ち止まり、美優の方に顔を向けた。
 「ううん、何でも無い」
 そう言って、美優は首を振り、そのみの元へ駆け寄った。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送