Making the road

第1話

 強い風が腫れ上がった頬にしみる。夏に入りかかっているのに、流石に夜の空気は冷たい。
 傷付いたのは顔面だけでなく口の中も何箇所か切っている。これでは当分の間食事も苦痛だ。
 向こうから歩いてきたスーツを着た中年の男性が未希の横を通り過ぎようとした時、目を大きく開いて驚いた顔をした。これで9人目。電車の中を含めたら数え切れない人数になる。
 うっとおしい反応だけど、それも、仕方ない。未希自身も鏡で自分の顔を見た時はショックを受けた。小泉との試合でも二回とも思わず顔をしかめてしまうほどに顔が痛々しく腫れ上がっていたが、今回はそれを上回っているのだ。見た時は、誰だこの醜い奴はと思ってしまった。
 駅から歩いて5分が経とうとしている。この路地の先を右に曲がると公園がある。そこにさしかかり未希は言う。
 「聡美、公園に寄っていかないか」
 「うん、いいよ」
 再び風が二人の体を強く吹きつけてきた。でも、あの時二人に吹き付けた風はもっと強くて冷たかったなと未希は思った。
 当然か、3月だったんだから・・。
 

 「あたしと試合をしないか?」
 未希の言葉に聡美は眉を持ち上げた。強い風が二人の体を吹き付けたが、未希も聡美も表情を変えることはなかった。屋上には他に人の姿はない。風と寒さのせいだろう。
 「どうしたの?急に。真面目な顔しちゃってさ」
 聡美は困惑気味に声を出した。
 「聡美はあたしと戦いたいと思ったことってないのか?」
 聡美は黙った。ややあって口を開ける。
 「ボクシングで未希を抜きたいとは思ってるよ」
 聡美の目も真剣な眼差しに変わっていた。
 「戦わなきゃホントに抜いたことにはなりゃしないよ」
 「そうかもね。でも、今はまだ実力が離れ過ぎてるから戦う気にはなれないよ。それに同じジムにいちゃ試合も出来ないしね」
 「もう3回もプロのリングで勝ってるんだ。3戦3勝3KO。充分な戦績だよ。それに戦う場所は客の前じゃなくてもいい。あたしにとっちゃリングさえあれば充分だ」
 「分からないよ・・」
 「何がだよ」
 「何で今、あたしと試合をしたいのか」
 未希は首筋を掻いた。
 「ライバルだなんて恥ずかしい台詞言わせるなよな」
聡美はきょとんとした表情を見せた。そのあとで、照れ臭そうな表情になり、
 「分かった、未希の挑戦受けてたつよ。で場所と日にちは?」
 「場所はジムだね。日にちは今すぐにでもってところかな。ただ、誰もいない時間じゃないとね。会長に見られると何言われるか分からないからさ。」
 「深夜なら大丈夫だよ。父さん11時には寝てるからまず気付かないし、母さんも同じ時間に寝てるから。じゃあ明日の12時でいい?」
 「いいよ」
 と言って未希は振り向き、屋上の出口へと向かう。
 聡美との試合を取り決めたあとで、思いきったことを言ったなと思った。親友である聡美と試合をして良いのかという迷いもまだ残ってはいる。
 だけど、聡美とは競い合う関係になっている。それだけの実力を未希は聡美から感じた。だったらいつかプロのリングで戦いたい。だから、一つの決心をするために確かめる必要があるのだ。
 廊下を歩いていると無邪気な顔して笑いながら話している女子生徒二人組の会話が耳に入り、未希は唇を尖らせた。
 そういえば明日って卒業式なんだよな・・・。

第2話

 深夜の十二時を過ぎ誰もいない真夜中のボクシングジムは静寂で寂しさが漂っている。リングの上にはTシャツとスパッツ姿に着替え、赤いボクシンググローブを両手にはめた未希と聡美が向かい合わせに立っていた。
 「ルールはどうするの?」
 聡美が尋ねる。
 「う〜ん、そこまで考えてなかったなぁ。時間無制限で立ち上がれなくなるまでってのはどう?」
 「なんか喧嘩みたいだね。まっ他に誰もいないんじゃ仕方ないか」
 未希は右手に持っていたマウスピースを口にくわえた。
 聡美とボクシングの試合をするなんて二年前には考えられなかったことだ。きっかけとなったのは未希と小泉の試合であることは間違いない。あの時、聡美は未希のセコンドだった。ボクシングに関してずぶの素人だった聡美は何度も未希をサポートしようと必死だった。それが、今は、聡美とボクシングの試合をなったなんて聡美と対峙したことで未希は不思議な感覚に捕らわれた。
 未希は大きく息を吸って吐いた。
 「あたしは良いよ」
 「あたしも」
 「じゃあ始めるよ」
 未希が試合開始の言葉を告げ、未希と聡美はコーナーを飛び出た。二人とも典型的なインファイターであり、ごく自然に足を止めて、相手の体に全力のパンチを打ち込んでいく。聡美は未希のパンチをかわし、未希も聡美のパンチをかわしていく。まだクリーンヒットは一発も出ず互角の攻防が続いた。
 しかし、未希は聡美の攻撃に圧力を感じていなかった。
 こんなんじゃない・・
 聡美の右ストレートをブロックするとがら空きの聡美の顔面へ右ストレートをぶち込んだ。
 グシャァッ!!
 聡美の柔らかい頬が潰れていく感触が右手に伝わってきた。未希の拳がめり込み、頬が潰れている聡美の顔は痛々しく歪み、驚いているような顔にも見えた。
 未希は左拳に力を込め、聡美の右の頬に思いっきりフックをぶち込んだ。またも聡美の顔は痛々しく歪んだ。
 「あがっ・・」
 間抜けな声が聡美の口から漏れていた。
 聡美は崩れた体勢を立て直しさらに追い打ちにいこうとした未希の顔面に右フックを放った。
 未希は膝を曲げ、パンチをかわし、
 グシャァッ!!
 聡美の顔面に右ストレートをぶち込んだ。よれよれと後ろへ後退していく聡美の姿は弱々しく儚げである。未希は距離を詰め、フックの連打を何度も繰り返し聡美の顔面に打ち込んだ。小泉をあと一歩まで追い詰めた殺人的な破壊力を持つラッシュである。その餌食となった聡美の頭はパンチングボールのように軽く吹き飛び続け、血が霧状になってキャンバスに舞っていく。
 あたしが求めていたものはこんなんじゃないよ・・。
 自分が放つフックの連打の前に聡美は何もできずにリング上を血を吹きながら踊っている。聡美のブザマな姿を未希は口を噛み締めながら目の前で見るしかなかった。それでもパンチの手を緩めることをせず、聡美の顔面を潰していく。
 最後の一撃となった右フックが聡美の頬に直撃すると聡美の口からは大量の血が吹き出て彼女は後ろへ沈んだ。
 両手を大の字に広げて聡美は天を仰ぎ、そのまま動かない。未希は切ない目をし、聡美の姿を見続けた。聡美は顔を下げたままゆっくりと上体を起こした。
 「ごめん・・あたしが悪かった・・・」
 と未希は言った。
 「未希は悪くない・・」
 聡美の言葉がジムの中に虚しく響いた。
 聡美がどれだけ強くなっていたのかを確かめたかっただけなんだ。それで聡美と試合をした後、プロのリングで聡美と試合をするためにジムを出るところまで未希は決心を固めていた。だが、未希はもはやジムを出る必要をなくしている。
 聡美はライバルになりえる存在ではなかったのだから。
 聡美はまだ尻をキャンバスにつけて座ったままだ。立ち上がってくるまで聡美のことを直視できずに未希は苦々しい顔つきでリングに立ち続けていた。



第3話

 聡美との試合を終えた翌日、未希は憂鬱な思いでジムに顔を出した。真っ先に聡美の姿を捜していた。聡美はサンドバッグを叩いており、わざと気付かないふりをしているのかこちらを振り向くことは無かった。その姿を尻目に未希はそそくさと更衣室に向かった。
 どんな風に声をかければいいのか分からないし、上手く出来るとも思えない。こんなとき器用に接する心を持っていればどれだけ楽に生きていけるんだろうと思う。
 未希はため息を付いた。
 もっと考える必要があったかな・・・。
 何も考えずに行動する奴は馬鹿だ。他人の軽率な行動に巻き込まれ、苦い思いをする度に未希はその思いを強めていた。だから、行動する時は、充分に検討してから、そして、行動に移す時は大胆かつ、繊細にするよう心掛けていた。特に今回はことがことなだけにいつも以上に慎重に考えたはずなのに、それなのに、結果はこれときたもんだ。
 全くあたしは何を見てきたっていうんだか・・・。
 着替えを済まして、練習の場に戻りシューズの紐を結ぶ。
 「昨日のこと・・気にしないでよ」
 顔を上げると、聡美が横に立っていた。聡美は真っ直ぐに顔を向けており、こちらを見ていなかった。聡美の顔は腫れ上がっていて、両頬には貼られた湿布がさらに痛々しく感じさせる。
 「うん、分かってるよ・・」
 沈黙が続いた。
 「未希」
 会長に名前を呼ばれ未希はぎくりとした。昨日のことがばれてしまったのだろうか?聡美の顔に大きな証拠を残してしまっているわけだし。
 未希は会長の元に向かった。
 「御前に試合のオファーが来てるぞ」
覚悟していたことと違う会長の言葉に未希はほっとし、ややあいてから、心を弾ませた。 
 「七瀬鞠子、ランキング8位の選手だ。次の試合は再起戦だからな、格上との試合俺は強制しない。話を受けるか決めるのは未希、御前だ」
 ランキングの選手から指名がくるなんて思ってもいなかっただけに驚いた。これは一気に上へいくチャンス。でも、ニ連敗だけは免れなければならないだけにすぐに結論は出せなかった。
 「その日は小泉の試合も組まれてるぞ」
 未希は表情を鋭く変えた。
 「メインイベントでランキング5位の選手と戦うそうだ」
 会長はさらりと言ったが、これが、強制しないと言っときながらもあたしを発奮させようとの意図を持っての発言だということは容易く読めた。
 相変わらず食えないおっさん。
 だけど、このままじゃ小泉との距離はますます離れる一方なのは事実だ。一度負けたからって止まってる場合じゃない。折角のチャンスが来たんだ。あたしも前に進まなきゃ。
 未希は覚悟を決めた。
 「その試合受けます」
 「分かった。七瀬の情報を一つ付け加えておくが、戦績は2戦2勝だ」
 戦績が少ないのに何で日本ランカーなんだと未希は不満な顔を作った。
 「不服な顔だな〜、なんで2戦程度の奴が格上なんだって思ってるのか?」
 人の心をずばずばと読み当ててくる。今回はあからさまに表情を作ったから簡単過ぎたということもあるけど。
 「七瀬はアマチュアボクシング大会の優勝者だ。だから、試合数は少ないのにランキングに入っている。実力は申し分ない。日本ランカーの七瀬がランキングにも入っていない未希をどうして指名したか分かるか?」
 未希は首を横に振った。
 「デビュー戦でいきなり八回戦と、二戦目で日本ランカーと格上の相手と戦い、苦戦しながらも勝った。僅か二戦で日本ランカーになった話題性にしかも、抜群の美貌を持っている。人気はうなぎ上りってところだろう。だが、KO勝利がないってことでここらで格下の相手と戦って圧倒的な強さを客にアピールしようって考えているんだろう。しかも、御前は実力の割には派手な試合が多いから人気もそれなりにある。噛ませ犬としてはもってこいと思ってんだろ。それでもこの試合受けるか?」
 くだらないと未希は思った。でも、そのくだらない彼女の目的のおかげで日本ランカーになれるチャンスをもらえたことだけには感謝しておこう。
 「もちろん」
 未希は唇を緩ませて答えた。
 要件が済み、会長はその場を離れた。
 このチャンスを逃すわけにはいかない。この試合に勝って小泉との距離を縮めるぞ。
 未希は振り向き、聡美って言いかけて、言葉を呑んだ。聡美との関係が気まずいことを思い出し、気分は再び下がった。

第4話

 七瀬鞠子戦に向けて練習する日々が続く。徐々に本番に向けたトレーニングに移り、スパーリングする日を迎えた。
 「未希、聡美とスパーリングだ」
 会長の言葉に未希は気分を重くした。聡美とは出来ればスパーリングをやりたくなかった。スパーリングをしてもあの時味わった苦々しい体験を思い出すだけだ。
 未希はヘッドギアを付けてリングに上がった。先にリングに上がっていた聡美はヘッドギア付けていない。
 「聡美、ヘッドギア忘れてるぞ」
 会長が言った。
 「ううん、これでいいよ、未希とは試合をするつもりだから」
 「何?」
 「お父さん、あたしと未希との試合を許可してよ」
 「わけがわからんぞ」
 「前に朝になって顔を腫らしてた日あったでしょ。あれ、未希と試合したんだ。でも、あたしが弱すぎたばっかしに試合にはなってなかった。それが原因で未希は練習に集中出来ていない。このままの状態で未希をリングに上がらせるわけにはいかないよ。だから・・・それにあたしにだってプライドがある。あのままやられっぱなしじゃいられないよ」
 会長は表情を険しく変え、聡美を見る。
 「御前等勝手に試合なんぞしやがってっ」
 次に未希に顔を向けた。
 「未希はどうなんだ?」
 「あたしももう一度聡美と試合をしたい」
 会長は頭を掻く。
 「分かった。御前等の試合を許可する。6Rだ。それでいいな?」
 二人は頷いた。
 未希はヘッドギアを外し、聡美の顔を見た。
 馬鹿な選択だよ。これでまた聡美が完敗したら傷口はさらに深まるじゃないか。でも─────。
 未希は頬を緩ませる。
 カッコ良いこと言うね、聡美。危険な賭けにあたしも付き合うよ。
 未希は両拳を打ち合わせた。
 いつのまにかリングの周りには練習生達が練習を止めて集まり、リングの上を見つめている。
 まいったなと未希は首をひねる。
 でも、この試合を見たい気持ちも分からんでもないか。
 驚いたことに、レフェリーは会長がやることになった。未希はコーナーでゴングが鳴るのをじっと待つ。ゴングが鳴らされ、未希は聡美の元へ向かう。
 「良い度胸してるよ」
 対峙する聡美に向かって未希は言った。
 「未希のボクシング馬鹿が染ったんだよ」
 「言うじゃないか」
 嬉しそうに頬を緩める。
 未希が先制パンチを放った。聡美はブロックしている。構わず左のフックを打ったが、これも聡美は腕でガードした。
 聡美は両腕をだいぶ高く上げて、未希のフックをもらわないようにしている。前回の敗戦で少しは未希との戦いを考えてきたようだ。でも────。
 ドボォォッ!!
 未希は聡美のボディへパンチをめり込ませたガードを上げている分お腹は無防備になってしまっている。
 「ぐふっ」
 もう一発。
 ドボォォッ!!
 「ぶふっ」
 ドボォォッ!!
 「ぶふっ!!」
 ドボォォッ!!
 「ぐはぁっ!!」
 未希がボディブローを乱打する。聡美のお腹はたちまち赤くなっていくが、それでも歯を食いしばり耐えて、ガードを下げない。
 良いガッツだけど、それじゃあたしには勝てないよ・・。
 やはり、聡美の実力じゃ未希には歯が立たない。
 再びあの時のやれ切れない思いを味わければならないのか────。
 一方的な展開になりつつあることに歯痒く思いながらも未希は踏み込んでボディブローを聡美のお腹にぶち込んだ。
 ドボォォォッ!!
 拳が深々と聡美のお腹にめり込んでいった。手応えは十二分にあり過ぎた。だけど、聡美の顔は歪みつつも笑みを浮かべていた。
 えっ?
 聡美の右拳が天井に向けて振り上げられた。
 グワシャァァッ!!
 「ぶへぇっ!!」 
 マウスピースが空高く舞い上がる。未希の上体がぐるりと反転し、ばんざいしたまま見事なくらい派手に顔からキャンバスに沈んだ。その一連の動きは出来の悪い踊りに見えなくもなかった。


第5話

 聡美が未希からダウンを奪うという大方の予想を裏切る展開にジム生達がざわめいた。
 未希は顔をキャンバスに埋めたままカウントを耳にしている。 
 聡美のアッパーカット、なんて威力なんだ・・・。
 ボディへの攻撃は打った瞬間顔面ががら空きとなる。聡美はアッパーカットを当てる絶好の機会を狙っていたんだ。
 カウント8で未希は立ち上がる。
 まずいことに今の一発で足が言うことを効かなくなっていた。
 聡美が勢いよく向かってきた。右ストレートが繰り出される。
 やばっ!
 未希の反応が遅れた。
 ズドォォッ!!
 未希はまともに食らい頭を弾き飛ばされた。
 ズドォォッ!!ズドォォッ!!グキャァッ!!ベキャァッ!!
 聡美が未希をめった打ちにする。未希はロープに詰まり、聡美のパンチを浴び続けた。
 「ぶべっぐほっぶはっ」
 未希が痛切な声を漏らす。
 ゴングが鳴り聡美のラッシュが止まった。未希はふらふらとコーナーへ帰っていく。
 まさかめった打ちにされるなんて・・・
 未希は背をコーナーポストに垂らし、だれた姿で聡美を見ていた。目がぎらぎらと輝き高揚した顔。次のRで仕留めてやる。聡美はそういった顔をしていた。
 ────第1Rは完全に聡美にしてやられた。でも、試合はまだ始まったばかりだ。
 セコンドの介護を受けている間、未希はずっと聡美の顔を見続けていた。
 第2R開始のゴングが鳴り、聡美が猛然と攻めてきた。聡美が未希のお株を奪うかのようにフックの連打を繰り出していく。
 まだ体の動きが完全ではない。やっかいな攻撃だ。
 聡美の連打を断ち切るべく未希が攻撃に出た。
 グワシャァァッ!!
 未希は顔面に聡美の右ストレートがめり込まれている。だが、聡美の顔面にも未希の右ストレートがめり込んでいる。
 自分の顔面を犠牲にして聡美の連打を強引に止めたのだ。
 足の踏ん張りが効かず未希は後ろへふらふらと下がる。だが、聡美も足ががくがく震え、追撃のパンチを打ちにいけないでいる。先にダメージのとれた聡美がまたも間合いを詰め、ラッシュをかけた。
 少しばかし、聡美のパンチが鈍くなっている。これなら打ち合いに出れると未希もパンチを放っていく。
 足を止めての打ち合いとなる。未希の体に聡美の体に相手のパンチが決まる。試合は意地と意地のぶつかり合いになっていた。殴り合いは続いていく。

第6話

 聡美がワン、ツーを出していく。未希はこれをもらった。しかし、これは意図しての行動だった。その直後、今度は未希が聡美の頭を左右のフックで殴り飛ばす。
 与えたダメージの質が違うのは二人の姿を見ていれば明らかだった。その後も未希は聡美のパンチをもらう未希がすぐさま遥かに強烈なパンチを返していく。
 肉を切らせて骨を断つである。
 未希のフックを何度となくもらい、聡美は後ろへ下がっていく。すぐに体勢を立て直し、未希の元へと向かい、未希の顔面にパンチの連打を浴びせた。が、未希は涼しげな顔をして聡美の顔を見つめる。
 ────聡美は充分良くやった。でも、アッパーカット以外は脅威と感じないんだ!
 グワシャァッ!!
 聡美のラッシュを断ち切る未希の体重が乗りかかった右フックが聡美をキャンバスに叩きつけた。
 ふらふらと立ち上がり、試合が再開されるも
 グシャァッ!!グシャァッ!!
 唯一互角であった手数さえも差が開いていく。未希の連打の前に聡美は成す術もなく食らい続けた。何発も何発も前へ戻ってくる顔面を吹き飛ばし、その度に聡美の意識朦朧とした顔から唾液が飛び散る。
 くそっ・・早く倒れてよ・・。
 未希が顔をしかめる。
 その時に出来た一瞬の隙に食らいつく体力はもはや聡美にはなかった。聡美の膝ががくっと折れ曲る。とどめを刺すチャンスとショートアッパーで下がった顔面を叩こうとしたが、そこでゴングが鳴ってしまった。
 ちっと舌打ちをし、未希はすぐにコーナーに戻る。
 セコンドが未希に頬を緩ませて話し掛けるが、未希は苦々しい顔つきで違うところに意識が向かう。
 もう充分だよ。聡美はよくやったんだ。そして、聡美のパンチではアッパーカットに気をつけていればあたしを倒すことは出来ない。あの状態で仕留め切れなかったのはあたしの力不足だ。詰めが甘いから、だから小泉にも負けたんだ。
 ゴングが鳴り、第3Rが始まった。勝負の見えた試合をこれ以上続けたくはなかった。聡美が相手ならなおさらだ。
 まだ朦朧とした目のままの聡美が目の前に立っている。その顔面に未希は容赦なくパンチを叩きこむ。
グシャァッ!!グシャァッ!!
 しかし、聡美は倒れない。
 くそ・・なんで・・・。あたしのパンチ力ってこんなもんなの?
 気の迷いから余計な力みが生じてしまった。右のフックをダッキングでかわされる。
 聡美が繰り出した右のアッパーカットはぎりぎりのところで避けることができた。未希の上体がのけぞっている隙に聡美は左のストレートを放つ。
 ガードすれば間に合う。
 そう思えたパンチを次の瞬間には顔面にもらっていた。
 何で・・・
 聡美は次のパンチに移行していた。そしてまた、ガードしなきゃと思った次の瞬間にはパンチが未希の顔面へと突き刺さる。
 未希の心の中で動揺が広がっていく。その隙に聡美のストレートが何度となく未希の顔面を捕えた。
 気が付くと膝がキャンバスに付いていた。鼻の下がぬめりとしている。この感触は鼻血だ。
 どうして?どうしてあたしがダウンをしているんだ。
 未希は青コーナーへ視線を移す。聡美は力なくコーナーポストに寄りかかっていた。
 ふらふらじゃないか。それなのに何であんなパンチが打てるの?
 未希は立ち上がる。
 二人はじりじりと距離を詰める。ギリギリ当たらない距離で二人はお互いの体を見合う。
 先に出たのは聡美の方だ。
 矢のような右ストレートがまたも未希の顔面を捕らえる。
 ドボォォッ!!ドボォォッ!!
 連打だ。連打で聡美のパンチが正確無比に未希の顔面にめり込む。こんなにも凄まじいパンチの連打など今まで受けたことがなかった。無駄な動きがないから飛んでくるストレートのモーションを読むことがまったくできない。そして、なによりも恐ろしいのが一発一発パンチの威力が凄まじいことである。何発受けようとも意識がなくなるような恐れを感じさせられないパンチしか打てないボクサー。今まで未希が闘ってきたボクサーはそういった者ばかりだった。だからこそ、未希はガードを疎かにしてでもがんがん攻めていったのだ。しかし、聡美のパンチは違う。聡美のパンチを受け続ければ間違いなく意識は吹っ飛ぶ。いや、すでに頭がぼうっとしてきていた。パンチを食らう度に耐え難い痛みが未希の頭の中を走り、そして朦朧としてくるのだ。
 パンチを出さなければやられる。
 ファイターとしての本能が未希に告げる。
 こうなったら─────
 グシャァァッ!!
 相討ち覚悟で放った未希のパンチは聡美の頬へとめり込んだ。その代償として未希も頬に聡美のパンチを受けてしまっている。
 互角ではない。それは二人の表情を見れば一目瞭然だった。
 状況を把握することが出来ていない右目。左目はパンチで瞑らされてしまっている。パンチに潰された頬の肉が唇を細く尖らせる。それが相討ちに打ち負けた者の変わり果てた顔である。
 代償はあまりに高かった。顔面にパンチがぶち込まれている未希の体はぷるぷると震えてしまっている。


第7話

 体を震わせながら硬直してしまっている未希に聡美は踏み込んで距離を詰めた。
 ドボォォッ!!ドガァァッ!!ドガァァッ!!
 ボディ、フック、フックとこなれた流れをみせるコンビネーションが未希の体を打ち殴る。もはや、滅多打ちといってよかった。
 パンチの相討ちで試合の流れは完全に聡美のものになった。聡美が繰り出すパンチの雨に未希は抵抗をすることはおろか、避けることさえできないでいた。もはや、体の自由は奪われてしまっているのだ。
 意識が薄れ始め、そして、未希は思い出した。
 目の前で見せた聡美の動きは聡美の父、古矢正嗣のボクシングである。何度かビデオで観たことのある強靭な下半身を活かしきったパンチ。東洋の王座についたことのなるボクサーのパンチは映像とはいえ、目に焼き付くものがあった。その古矢正嗣のボクシングを今まさに聡美は再現しているのだ。
 道理でパンチのキレも威力も桁違いに上がっていたんだ。下半身の使い方が先ほどまでとは全然違っている。
 目の前が真っ白になっていき、痛みだけが未希の顔面を襲う。
 あたしは今、何をしているんだっけか・・・。
 連続して襲いかかってきた衝撃が急に止まり、未希はとろんとした視線を目の前に向ける。目に映る聡美の顔は表情を失っている。感情が伝わってこない機械のような目。思考能力がほとんどなくなっていた未希にはどういうことなのか分からない。その刹那、下からパンチを切る音が耳に届き、顎に衝撃が伝わった。
 グワシャァァッ!!
 アッパーカットが未希の顎を抉り、歪まされた未希の口から大量の血が天井へと噴き上がっていく。
 未希の体が半回転し、聡美に背中をみせた。千鳥足でふらつき、キャンバスに血反吐を吐き散らす未希の醜態は聡美に打ちのめされたことを誰もが受けとめざるをえない象徴的なシーンの過程であった。
 未希は血を吐き出している口が塞がられるように顔面からキャンバスへと沈んだ。白いキャンバスに接触し、歪んで開けられている口から赤い水溜りがじわじわと広がっていく。
 会長はすぐに試合を止めた。ぴくぴくと痙攣を起こし、キャンバスを赤く染める未希の姿に未希が戦闘不能であることは一目瞭然である。それと同時に未希の凄惨な姿は聡美のアッパーカットの威力が尋常でないことも物語っていた。
 だが、未希にはまだ意識が残っていた。体の自由は奪われ、顔がパンチの衝撃で引き攣ったまま、自分の敗北を未希は認識できてしまっていた。
 聡美に負けた・・・・。
 未希は体の自由が奪われ指一つ動かせず、パンチの衝撃で表情が引き攣ったままの姿で敗北の味を噛み締めるのだった。

第8話

 「聡美に記憶が無い?」
 会長の言葉を聞いて未希は怪訝な顔をして聞き直した。
 「おそらくな。途中から試合の記憶が無いはずだ。見違えるようなパンチを放つ直前に未希のパンチを受けて意識がなくなっているよ。目が焦点を捉えてなかったからな。今までにも一度似たことを見たことがあるから間違い無い。もっとも俺が現役時代の古い記憶だがな」
 試合が終った直後に聡美はその場に崩れ落ちた。意識が無く、聡美は自分の部屋に連れていかれた。そのままベッドに眠らされ、今、さっき起きたとこらしい。
 「聡美に負けたって告げるのか?また、仲がぎくしゃくするんじゃないのか?」
 「仕方ないです。あたしが弱いからこうなったんだ」
 「そうか、まぁ、その辺は御前等に任せるが、それよりも、未希、負けた理由は分かってるか?」
 ────えっ・・・・。
 急にふられて未希は戸惑った。
 「次の試合までの宿題だ。分からないままだったら次の試合間違いなく負ける」
 と言い残して会長は背中を向け去った。
 聡美に負けた敗因?
 ツメが甘いってことだろうか?結果的には最後攻め切れなかったから小泉にも聡美にも逆転負けを食らったことになる。
 会長の手痛い指摘にその瞬間、聡美のことを忘れてしまっていた。結局、確信を持てないまま、意識はまた聡美の方に向かう。
 さてといくか。
 未希は聡美の部屋を開けた。
 聡美はベッドの上に腰を下ろしていた。両頬には湿布が貼られている。もちろん、未希の顔にも顎に湿布が、鼻にはばんそうこうが貼られている。
 「全然記憶が無いんだよね。あたしって負けたんだよね」
 聡美が苦笑いをした。未希は大きく息を吸った。
 「違う。勝ったのは聡美の方だ。あたしが負けたんだ」
 「嘘っ」
 聡美は目を丸くする。
 「本当だよ」
 「だって記憶が・・」
 「それでも、聡美は試合を続けていたんだ。というよりも、記憶がなくなってから動きが別人のようだった。あんたの親父さんみたいなボクシングをね」
 「父さんの?」
 「やっぱりそこから記憶が無くなったんだね。とにかく、悔しいけど、あたしは手も足も出なかったよ」
 「そうなんだ・・」
 「子供の頃だけど、父さんのボクシングって今でも凄く印象に残ってる。パンチのキレが他の選手と全然違うったんだよね。でも、あたしがあんなレベルのことできたって言われてもぴんとこないよ」
 事実を全て話し、未希は話すことがなくなった。聡美も黙ったままで気まずい雰囲気が二人の間に流れている。
 友達同士で闘うのは上手くいかないもんだ。
 思っても言う必要なんてなかった。聡美もきっと同じことを考えているに違いない。
 「じゃぁまた明日だね」
 未希は立ち上がり、聡美の部屋を出た。


第9話

 口元に力を入れたまま苛立った表情で未希はハンバーガーにかぶりついた。
 無事に計量にパスして、気分良く食事ができるはずだった。だが、計量後にやってきた対戦相手にすべては台無しにされた。
 「あんな奴たいしたことないに決まってる。甘ったるい香水に匂い振り撒きながら計量に来やがって、ボクシングを舐めてるよあいつは。それに性格も最悪だ。日本ランカーだか知らないけど、まだプロで2戦しか戦ってないんだろ。しかも、まだKO勝ちすらしたことない。あたしならKOで勝てるって勘違いしてるみたいだけど、逆にKOで倒してやるって〜の」
 「たしかに嫌な奴だったね」
 と聡美は相槌をうつ。手にはこちらもハンバーガーが握られている。
 今から三十分前のことである、未希は聡美と会長と供に計量室のドアを開けた。対戦相手である七瀬はすでに部屋におり、服を脱いでいる最中だった。部屋の端に行き、未希も服を脱ぎ計量の準備をした。
 七瀬がリミットをクリアし、未希は体重計に向かった。七瀬とすれ違い様、強烈な香水の匂いが鼻にまとわりついた。
 未希は顔をしかめ、体重計に乗った。リミットをパスし、服を着替え終えるとまた、鼻につく嫌な香水の匂いがした。振り向くとそこに七瀬が立っていた。ショートにしている髪は限りなく金に近い茶髪、つけまつげ、大量のファンデーションが塗りたくられた頬、光沢の輝きをみせるピンク色の艶やかな唇、人工的にほどこされた彼女の顔はフランス人形のようであった。
 「明日はお手柔らかにね」
 七瀬は右手を差し出した。
 なんだ礼儀正しいやつじゃないかと思い、未希も右手を差し出して手を握った途端、七瀬は唇の端を持ち上げた。右手に力が加えられ、未希は顔をしかめた。
 「また失神した顔見せてよねっ、あの顔傑作だったんだから」
 と小さな声で言った。
 七瀬は右手を離すとくるりと踵を返して離れていく。
 言葉を返す機会を失った未希はやり場のない怒りで煮え返る思いをしながら七瀬の背中を睨んだ。
 「あ〜思い出すだけでむかつく。あんな嫌な奴はじめてだ。小泉より上だぞ、あの小泉より」
 と言って未希はハンバーガーをむしゃむしゃと食う。
 「でも、嫌な奴ほど強いんじゃない、小泉とかさ」
 頬杖をついている聡美はにんまりと笑っていた。
 「聡美、それは間違ってるぞ。小泉は性格が丸くなった方が強かった」
 未希の言葉に聡美は腹を抱えて笑った。
 聡美との試合から時間も大分経ち、前のように聡美と冗談を言い合える間柄に回復した。それは聡美に試合の記憶がないことも幸いしている。だけど、触れちゃいけないことが一つだけある。未希も聡美もあれから一回もそのことには触れていない。だけど、未希は分かっている。いつまでも逃げてるわけにはいかないことを。いつかは絶対に触れなければならないのだ。
 未希はハンバーガーを噛み付いた。
 人工的で不自然な味だ。フレッシュネスバーガーを食いたいなとボクシングとは全く関係のないことをふと未希は思った。

第10話

 観客席から未希の苗字を呼ぶ応援の声が耳に届く。その数は前の試合とほぼ同じくらいであろう。連勝記録がストップしたからといって客は未希から離れていない。
 未希はいつもより心持ち強張った表情で相手コーナーに視線をやっていた。今日、拳を交える対戦相手はまだリングに姿を現していない。
 今日があたしにとってのリスタートだ。また負けるわけにはいかない。あたしは前へ進むんだ。未希は意気込みを抑えるように胸の前で拳を二度打ち鳴らした。
 耳障りなダンスミュージックが鳴り響き、七瀬が姿を現した。音楽に体を乗らせ、七瀬がリングに向かってくる。帽子を被り、私服でも使えそうな半そでのジャンパーをチャック全開にし、着ていた。
 ジャンパーを脱ぎ、客の前に披露したコスチュームは上下ともにピンクがベースの色になっているた。スポーツブラはナイジェリアの国旗のように縦に三分割され、そのうち真ん中が白色、左右がピンク色である。アイドルですよといわんばかりのコスチュームである。
 コスチュームにも力の入ってること・・・
 未希は阿呆らしげに七瀬を見ていた。

 未希はリング中央で七瀬と向かい合うとまたも香水の匂いが漂ってきた。試合にも香水をつけるなんてどんな神経してるんだ。
 顔もよく見るとやはりフランス人形を意識したメイクが施されていた。
 この女は一体何を考えているんだ。
 未希はちっと舌打ちし、不快感を露にした。
 七瀬は未希の振る舞いにも気にせずにくすっと笑った。
 「よくそんなださい格好でリングに上がれるよね〜」
 かちんときた。
 「大げさに化粧なんかして馬鹿じゃないのか御前。あたしに潰される御前の顔なんか何の価値もないんだよ」
 「あんたなんか元々価値のない顔じゃん」
 「二人とも私語を慎しんで」
 レフェリーの注意に未希は七瀬にぶつけようとした言葉を呑んだ。
 くそっ絶対ぶちのめしてやる!
 「作戦はわかってるな」
 「はい」
 青コーナーに戻った未希は会長の言葉に頷いた。
 試合の二週間前、ようやく会長が宿題の答えを教えてくれた。
 「宿題はわかったか?」
 「詰めが甘いってことじゃないんですか?だから小泉にも聡美にも負けた」
 「それもあるけどな。ただ、小泉に負けたのはあれは運だ。最後のカウンターは偶然だよ、狙って当てたもんじゃない」
 そうだったんだ・・・。
 「もっと自分に自信を持てってことだ。小泉に負けたからって二人の間に差があるわけじゃない。だから、自分の力を信じて今まで通りのボクシングをやれば聡美にも負けなかった。次の試合の相手にも勝てる」
 自分の力か・・。
 今となっちゃ全く信じることができない。小泉にも聡美にさえも負けたんだから。自分を見失ったからといっても。
 「次の試合の作戦だ。ビデオは何遍も見てきたな」
 「はい」
 「危険なのはパンチのスピードだ。七瀬はあのパンチのスピードを活かして1Rから隙を見つけてはラッシュを仕掛けてくる。と思った途端、急に距離を離れて休む。その繰り返しで相手は完全に戸惑わされる。序盤に相手の心を困惑させ、ポイントを奪ったら中盤以降は正統なスタイルで攻めるようになるんだが、その頃には七瀬のスタイルに自分の闘い方を見失い、手があまり出なくなる。チャンスなはずなんだがな。序盤のRで相手のラッシュにペースを奪われなければ勝てる。手数で勝とうとするな。ガードを固めて手堅くパンチを返していくんだ。手数で勝負すると負けることになるぞ」
 ガードを固めるか。打ち合いに応じていきたいところだけど、仕方ないか、負けるわけにはいかない。
 「ガードを固めて打ち合うな。それだけは忘れるな」
 会長が改めて確認を取った。未希はマウスピースをはめながら頷く。
 ゴングが鳴り、試合が開始された。小刻みにステップを繰り返す七瀬は左のガードを下げている。
 攻めていきたいところであるが、ここからやっかいなパンチが飛んでくるのだ。未希の思い描いた通り、下からパンチを斜めの角度から真っ直ぐに上がってきた。慌てて避ける。
 フリッカー気味のパンチだ。伸びてくるほどのものではないが、嫌な角度から上がってくるためわかっていても避け辛い。
 七瀬が前に出てきた。ボディへフックの連打。未希はこれを全てガードする。ならばとパンチが顔面に襲いかかってくる。これも全てガードし、未希が反撃のパンチを出たところに七瀬は見透かしたように後ろへ下がり、パンチは空振りに終わった。
 七瀬は頬を緩めてうっとりとした笑みを浮かべている。
 自分のペースで試合が出来ているのだ。さぞ気分が良いに違いないだろう。
たしかにやりにくい相手である。だけど、思っていたほどパンチのスピードが速いというわけではない。パンチ力もたいしたことはない。
これなら打ち合っても充分にいける。確信した未希は作戦を無視し、今度は自ら前へと出た。ジャブを当ててからボディへ。これはガードされる。しかし、そこから顔面へとパンチを持っていくと七瀬はガードで未希のフックの連打を凌ぐ。
 七瀬も小さなパンチで応戦に出た。未希は体を振りながら避ける。接近戦でのパンチの応酬が繰り広げられる。しかも、体の距離が近いというのに一発のパンチも当たらないのだから場が緊張に包まれていく。
 「蚊が止まるようなパンチだね。よくそれで勝ち上がれてこれたもんだ」
 未希は得意げな表情を作り、パンチを打つ。
 「じゃぁもっとスピード上げよっか?」
 「えっ?」
 ズドォォッ!!
 赤い弾丸が未希の顔面にぶちこまれた。
 まったく見えなかった。パンチを目で捕えた時は赤で覆われ、顔に衝撃が走っていた。
 七瀬は右と左の拳を何度も小刻むに動かし、打つよ打つよと無言のプレッシャーをかける。
 どっちだ?
 バシィィッ!!
 またも、未希の頭が弾かれた。すぐさま、頭を元の位置に戻し、未希は七瀬を睨んだ。
 七瀬はにやりと胸糞悪い笑みを浮かべている。
 どっちの腕で放ったのかわからなかった。パンチが見えていない。そんなことがあるのっていうの?
 つんと突き刺すように痛む鼻がさらに未希の苛立ちを募らせる。
 ズドォォッ!!ズドォォッ!!ズドォォッ!!
 七瀬のストレート三連打が決まる。そのスピードはやはり尋常ではない。
 ───そんな馬鹿な・・こんなスピードがあってたまるか・・
 未希の目には赤い軌道を作る閃光が一瞬見えるだけだった。赤い閃光を作る弾丸が未希の体に次々とめり込んでいく。恐ろしいことにさらにラッシュは激しさを増していく。
 グシャァァッ!!ドゴォォッ!!バキャァッ!!
 未希はまるで対応が出来ずに七瀬のパンチをいいように浴びた。パンチを返していくが、七瀬のパンチとではスピードが全然違う。しかも、未希のパンチは最悪なことに冷静さを欠いて大振りである。当たるわけがなかった。次第に未希の手は止まり、相手のパンチを浴びるだけとなっていく。その様はサンドバッグである。
 七瀬が繰り出すパンチの連打は未希に体勢を立て直す余裕を与えない。吹き飛ばされ、戻ってきたところにまたストレートをぶち込む。それがエンドレスで続くのだ。食らう方はたまったのものではない。パンチの衝撃で顔面の肉が波打ち、観客の前で醜悪な表情が絶えることなく晒らされる。やがて、顔が赤く変色しはじめ、パンチを受け、歪む度に顔面から血と唾液がリングに放射される。
 カーン
 ゴングが鳴り、未希は七瀬のラッシュから解放された。未希の顔はまだ1Rだというのに鼻の両穴から早くも血が流れている。
 七瀬は馬鹿にしたような笑みを見せ、赤コーナーに戻っていった。
 くそっ・・・。

第11話

 「わざとパンチのスピードを緩めて未希に手を出させることを狙ってたんだ。七瀬の策略にはまったな」
 鼻血の止血のために未希の鼻の穴に綿棒を入れながら会長は言う。
 くそっ・・・・。全てはあいつの掌の上で躍らされていたっていうのか。
 苛立ちだけが募っていくばかりだ。しかも、綿棒棒を突っ込まれている痛みが苛立ちに輪をかける。
 「頭を冷やして次のRはガードを固めろ。パンチも大振りになってるぞ。小さくコンパクトにして打つんだ。相手のパンチを凌げば相手はスタミナが切れてこっちのものになる」
 「わかった」
 と未希は投げやりに返事をし、聡美から手渡されたマウスピースをくわえた。
 次のR、七瀬が一方的に攻めたてていく。
 未希は早く反撃したい思いをひたすら我慢し、七瀬のパンチをガードを固めて耐えた。何度もボディにパンチをもらったが、両腕のガードだけは絶対に下げなかった。それでも、ガードの合間を縫ってパンチが顔面を襲う。何度かやばいピンチに陥っては未希はフックで相手をガードの上から追い払いピンチを脱した。
 長く感じられた第2Rが終わった。
 「それでいい。このR、七瀬はずっと攻めっぱなしだった。次のRあたりから手数が少なくなっていくはずだ。相手の動きが止まっているようなら逆に攻めろ」
 次のR、会長の言った通り、七瀬はジャブで攻める。フリッカーを使わずにジャブを起点とした基本に忠実な攻めである。
 いける────。
未希は七瀬のジャブをガードすると攻めに転じた。フックを主体にしてパンチを力ごと相手にぶつけていくが、固い七瀬のガードを崩すことができない。
 折角、攻めているのにパンチを当てられない。それどころか逆に細かいパンチを浴びてしまう。
 「はぁっはぁっ」
 未希は顔を歪め、乱れた呼吸を吐く。疲れと苛立ちが溜まっているのは誰の目からも明かだった。
 そこをつけ込まれた。
 七瀬の狙い済ました右ストレートが未希の左頬にぶち込まれたのだ。
 グワシャァァッ!!
 「ぶへぇぇっ」
 凄まじい衝撃に未希の頬が横に膨れ上がった。マウスピースが吹き飛ばされ、リングの上をころころと転がっていく。足がもつれ、体が翻り、未希は両腕を上げて顔からキャンバスへと沈み落ちた。

 頭の中はぼうっとしていて、両腕が鉛のように重かった。
 こんなはずじゃなかったのに・・・なんであたしはこんな目にあっているんだろう・・
 試合は6Rに入っていた。七瀬の巧みなボクシングテクニックの前に未希はいいように打たれた。とうに百発以上のパンチを食らっているのに対しまだ未希は一発のパンチも七瀬に当てていない。
 そして、七瀬はとどめの攻撃へと移っていた。目にも止まらぬスピードのパンチを未希の顔面へと何度と無くぶち込んでいく。
 未希はサンドバッグと化して打たれるだけであった。
 視界の右半分が閉ざされ、さらに残った左側も閉じかけている。その狭い視界の中で奴はにやにやと笑っていた。
 「どうしたの、手が止まっちゃてるじゃん。あたしの顔面を潰すんじゃなかったっけ?」
────言いたい放題いいやがって!
 ズドォォッ!!
 七瀬の右ストレートが未希の頭を吹き飛ばした。
 「もう諦めたってことなんだね」
 ────今、その生意気な顔面にパンチをぶち込んでやる!
 グシャァッ!!
 未希のパンチより早く七瀬の左フックが未希の頬にめり込んだ。
 「まぁ潰されちゃってるのはあんたの方だしね」
 うふふっと胸糞悪い笑い声。だが、七瀬の拳によって顔面を潰された未希の耳にはもはや届いていなかった。
 未希はロープまで吹き飛ばされその反動で体が跳ね返された。未希は七瀬の右拳に力が込められていく瞬間をこの目で見たが、体が吹き飛ばされていて動かすことも、さらにはそのための思考能力すらももはや失っていた。とどめとなる七瀬の右拳が未希の顔面めがけ飛んでくる。
 グシャァッ!!
 未希は「ぶぼぉぉっ」と呻き声をもらすとキャンバスに沈んだ。
 七瀬は未希の顔面を見下ろして満足げな表情を作った。
 「整形手術終了っと。失敗だけどね。もっと醜い顔にしちゃってごめんね」
 未希はリングの上に大の字で倒れている。七瀬の言葉通り、未希の顔面は崩壊していた。



第12話

 もっと自分に自信を持てってことだ。小泉に負けたからって二人の間に差があるわけじゃない。だから、自分の力を信じて今まで通りのボクシングをやれば聡美にも次の相手も勝てる。 
 天井を仰ぎながら会長の言葉を未希は思い起こした。 
 まるで歯が立たないじゃないか・・・・。
 こんなブザマな試合してて自信なんてもてるわけがない・・。
 それでも、負けられない。立たなきゃ。
 カウントが止まる。試合が再開され、七瀬がやってきた。
 「まだやる気なの?あんたもこりないよね」
 と言って七瀬はがら空きとなっている未希の顔面に右ストレートをぶち込んだ。
 くそっ・・・・。
 重い両腕を上げて必死になってのラッシュに耐える。
 ゴングが鳴りようやく七瀬の猛攻から未希はやっと開放された。
 重苦しい空気が青コーナーを支配していた。未希にとって再起戦となるこの試合、肝心なのは内容ではなく勝つことだった。それなのに、何もできないままに試合は6Rまで終えてしまった。未希の試合の中で間違いなく最悪の試合となっている。
 「まだ、力は残ってるか?」
 「ある」
 「ガードを上げすぎているから攻撃にスムーズに移れてない。相手のパンチを恐れるな。それだけ食らってまだ立っていられるんだ。七瀬のパンチは小便パンチだろ。だったらパンチを食らうことに恐れずに向かい続けろ。それが御前の闘いかたなんだ」
 あたしがパンチを恐れてる?そんなわけが・・・
 次のRも七瀬が未希を攻めたてていく。未希はガードを固めて耐える。右ストレートで反撃に出るが、難なくかわされ、ボディにパンチを打たれた。
 会長の言う通りじゃないか。いつのまにかガードを上げて縮こまっている。リスクの無い闘いかたであたしが勝てるはずが無い。
 未希がパンチを放つ。先に七瀬のパンチが当たったが、構わず拳を振り抜いた。
 グワシャァァッ!!
 初めて未希のパンチが七瀬の顔面を捕らえた。しかも、頭がおもいっきり吹き飛ばされている。
 よしっ!
 未希は前へと出る。七瀬がジャブを放つが構わない。食らいながらも前へと出て、七瀬の顔面へパンチを打ちこんだ。
 密着してフックを連続して叩き込んだ。密着では流石に七瀬もパンチを避けることができない。
 七瀬が右フックを未希の顔面に当たる。しかし、未希は七瀬の顔を睨みつけた。
 「いくら打ったって効かない。御前のパンチには気持ちが篭っていないんだ」
 未希は言い放ち、七瀬の顔面へと右ストレートをぶち込んだ。
 「ちょっとパンチが当たったからって調子に乗らないでよね」
 七瀬も退かずに未希の顔面にパンチを当て返す。
 それから、お互いが休むこと無くパンチを相手の体にぶち込んだ。いかんともしがたいダメージ差から未希は何度と無く体をがくがく揺らしたが、それでも耐えてパンチを返す。
 しかし、ついに未希の体に溜まっていたダメージが一斉に噴き出てしまう。
 七瀬の渾身のボディブローが未希の体に炸裂したのだ。
 「ぶばぁぁっ!!」
 未希の口の中に溜まっていた唾液が大量に噴き出た。呼吸に詰まり、苦しそうな表情を未希は目の前の敵に見せてしまう。
 七瀬が放つ怒涛のパンチの連打が未希の頬を何度と無く往復した。
 「ぶべぇっ!!ぶほっ!!がはぁっ!!」
 七瀬の表情には鬼気迫るものがあった。殴り殺す勢いで未希の顔面だけを執拗に殴る。唾液と鼻血がべっとりと付き、ぼこぼこに腫れ上がった未希の顔面は残酷なまでに醜い形になり果てている。
グワシャァァッ!!
 アッパーカットが未希の顎を打ち上げた。
 「ぶへぇぇっ!!」
 未希の体が後ろへ吹き飛ばされた。しかし、斜めに傾いた体を立て直しふんばる。倒れて当然の一撃を食らったはずなのに未希は立ち続ける。リングの上に立っていられている。
 ここでゴングが鳴った。
 コーナーに戻ってきた未希の変り果てた顔を間近で見た聡美は表情を青ざめた。
 「もう限界だよ、お父さん・・」
 「まだ・・やれ・る・・」 
 途切れ途切れとなりながら未希は聡美の言葉を制した。とはいうもの盛り返し、主導権を握りつつあったのにあっさりと奪い返された。しかも、得意な打ち合いでの完全な力負け。この現実に未希は精も根も尽き果てつつあった。それでも、試合を投げ出さないのはもう二度と負けたくないからだった。
 「未希、自分の力を信じろ。最後まで信じて戦いぬけ」
 会長は言う。
 自分の力・・・。



第13話(第3章最終話)

 ゴングが鳴り、7Rが始まった。
七瀬の放った右ストレートが早くも未希の顔面を綺麗に捕らえた。瞼が腫れ上がりほとんど閉ざされてしまっている視界でパンチを避けること自体無理な話である。
 七瀬が放つパンチの雨に未希は晒される。
 未希はガードを上げて連打を堪える。
 打ち返すことさえできないよ・・。弱い・・あたしって・・。
 がっちりと固められた両腕の隙間を通り抜けてきた七瀬の拳が未希の顔面を押し潰した。潰された未希の鼻から血がぶしゅうっと吹き出た。それを機に、七瀬のパンチが集中砲火で未希の顔面を潰しまくる。
 ドガァァッ!!バキィィっ!!グシャァッ!!
 頭がぼうっとし、意識が途切れがちになっていく。
 手を出さなきゃ・・・。
 闇雲に振り回した右フックは偶然にも七瀬の顔面を捕らえ、体を吹き飛ばした。しかし、チャンスなのに足が言うことを効かず、追い打ちをかけられない。
 いきたいのにいけない。
 未希は歯痒い思いで苦痛で顔が歪めている七瀬を見つめる。
 回復した七瀬がまたも、ラッシュ始めた。
 未希はガードを固めて凌ぐしかなかった。ガードを固める両腕への衝撃が次第に強烈になっている。
 両腕の痺れが増し、感覚が麻痺しはじめた。このままじゃガードを破られるのは時間の問題だ。しかし、未希は衝撃が激しくなったかわりにパンチを受ける間隔が前よりも空いていることに気付いた。
 七瀬の顔面を覗くと、目が細まり、頬が引き攣っていた。怒りではなく、焦りに映る。もしかして、瀕死な状態でパンチを打ち返したあたしに奴は怯えているの?
 だとしたら、弱いじゃないか・・・あいつの心は弱い。あたしの心は折れないぞ、あいつよりあたしの方が強い。あいつのパンチに怯えてたまるもんか。
 その時だ。
 グシャァァッ!!
 ショートアッパーが未希の顔面を潰した。七瀬は大きく振りかぶり、追撃の右ストレートを放つ。
 自分の顔めがけ近付いてくるパンチを未希は紙一重で避けた。七瀬の武器である高速のパンチなら避けられなかったはずだ。しかし、今は連繋になっていないただの大振りのパンチ。だから、未希は避けられることができた。
 右拳をおもいきり握り締めた。力を入れ過ぎたらパンチのキレが落ちる。会長に何度も注意されたことだ。しかし、そんなことはどうでも良かった。目一杯力を込めてあいつの顔面を殴りたいんだ。
 未希は右腕を振り回した。
 グワシャァァッ!!
 観声が雑音のようにこだまする中、鈍い音がはっきりと耳の中で響いた。七瀬が血を吐き出して後ろへ崩れ落ちる。一連の様がスローのように未希の目には映る。
 七瀬がキャンバスに背中を付けて重い音がキャンバスから発った。
 それから、歓声がよく聞こえるようになった。
 未希はコーナーへと戻る。
 ゴングが三度打ち鳴らされた。未希は驚いて七瀬の方を振り向いた。仰向けで腰をくねらせて足と逆の方に上体が向いている。腕はバンザイをしていた。全く動かず、どうやら失神しているようだ。
 あたし、勝ったんだ。
 ブザマな姿で倒れている七瀬の姿を見てやっと自分が試合に勝ったことを理解した。
 「未希!」
 聡美の声だった。聡美が肩に手をかける。未希は振り向いた。
 未希は鼻血をグローブで拭う。だけど、血はまた流れ落ちる。だから、鼻血が流れたまま微笑した。
 「勝ちってのは最高だね」


 
 住宅街にある公園には誰も人がいなかった。いちゃいちゃとした馬鹿なカップルがいなくて幸いだった。
 ブランコに乗り、座ったまま小さくこいだ。
 「昔はブランコすごく好きだったんだ」
 未希は言った。
 「あたしは公園に行ったことなんてほとんどなかったな〜。ブランコ漕ぐの密かにすごくやりたかったとよく思ってた」
 聡美もブランコを軽くこいだ。
 「女の癖にブランコなんて生意気だとか、いちゃもんつける男子がいるんだよ。それで口喧嘩。口喧嘩なら負けなかったけど、中には体を突き飛ばすバカもいたから困ったもんだった」
 「今と、あんまり変わってないじゃない」
 聡美がくすっと笑う。
 「言われてみるとそうだ」
 おどけて未希も頬を緩ませた。でも、その表情も直に戻った。
 「七瀬のアッパーカットを耐えられたのは聡美のアッパーカットをもらったからだなんだ。聡美のアッパーカットの方が遥かに強烈だったから耐えることができたんだ」
 「そうだったんだ。未希がアッパーカットをもらった時はホントにやばいと思ったよ。勝ててよかったよ」
 未希は両足を地面に付けてブランコを止めた。
 「でもさ、いつまでも仲良し子良しってわけにはいかないよね・・」
 聡美が顔を向けてきた。
 「未希・・・・」
 聡美の喉元から唾を飲み込む音が聞こえた。
 「ジムを出るの?」
 「うん」
 立ち上がり、顔を聡美に向けた。うっすらと顔に笑みを作る。
 「帰ったらメールでも送るよ」
 と言って未希はその場を去った。






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