鉄砲百合2第1話 太郎は闇雲にサンドバッグを叩き続けた。何かを殴ることで昨日の知夏の敗北で鬱になった気持ちを払拭したかったのだ。だが、少し気を許すと知夏が負けたことを思い出してまう。
太郎は両腕を止めて、サンドバッグを押さえた。荒い息を整えた後、周りを見渡した。
ジムに知夏の姿は無い。昨日の敗北で深いダメージを負ってしまったため美穂子から一週間自宅で休養するよう命じられているのだ。
試合が終った直後、太郎はキャンバスの上で知夏が全く動かず、さらに口からは血反吐をぶちまいて倒れこんでいた姿を見て入院する必要があるのではないかと思ったが、知夏が受けたダメージは大事には至っておらず、その必要は無かった。パンパンに腫れ上がっていた顔の見た目ほどダメージを受けて無かったことは唯一の幸いだった。
控え室では落ちこんでいる姿を見せてはいたが、帰り道では自分の負けを認め、悔しい気持ちを声にして表すなど、知夏らしいストレートな態度が戻ってきたことに太郎は安心した。
だけど、負けた直後は敗北の実感は薄く、悔しさはじわじわと時間をかけて込みあがってくるものである。そのことを太郎は何度も負けを味わっているためよく分かっていた。知夏も今回が初めての敗北ではないから自暴自棄になってはいないとは思うが負けた相手が因縁めいた相手だっただけに心配ではある。
知夏には、早くジムに戻ってきて欲しいと思う一方で太郎には知夏がジムに戻ってきてもどうやって接すればいいのか分からない戸惑いもあった。彼女が普段通りの態度でいれば助かるのだが、そうでなかったらジムの雰囲気は辛気臭くなるだろう。現に知夏がいないだけでジム全体のモチベーションはかなり下がっている。
休みを取ろうと太郎は長椅子に目を向けると理子が新聞を広げて読んでいた。恐らく、ジムと繋がっている間垣宅に入って持ってきたのだろう。美穂子の妹である理子なら簡単なことである。
スポーツ新聞かと思ったが、よく見ると読捨新聞の夕刊だったので理子のイメージからは程遠く、意外な感じがした。
「理子ちゃん、いつも新聞読むの?」
「スポーツ欄しか見てないですよ。ねぇ、これ見てくださいよぉ。昨日の試合が記事になってるんですけど」
太郎は慌てて新聞を受け取り、記事に目を通した。
カラーの写真が大きく載っていた。夕菜の左フックが知夏の顔面にめり込んでいる瞬間だ。知夏の顔面は頬や瞼が醜く腫れ上がっており、さらにパンチの衝撃で不細工な形に歪んでいた。
「新チャンピオン誕生、女子ボクシング界に希望の星現る」と見出しが付けられており、記事は夕菜側に立った視点で昨日の試合の展開が書かれ、最後に彼女は下火になっている女子ボクシング界を盛り上げる可能性を充分に秘めている存在であるといった内容で締められていた。
なんだか知夏が気の毒だった。これまで知夏が派手なKOで何度も防衛を重ねたのに新聞記者は彼女を取り上げることはほとんどなかった。それなのに夕菜には新チャンピオンになった途端女子ボクシング界の救世主扱いして記事にしたのだ。今までに知夏が築き上げてきたものはなんだったのだろう。
「読捨新聞は最近、女子ボクシングを取り上げてなかったんですよ。それなのに白石夕菜がチャンピオンになったらカラーでこれだもん。イヤになっちゃう」
その通りだと太郎は頷いた。
「知夏さんこの記事見たら怒るだろうなぁ」
知夏が新聞を床に叩きつけるシーンが想像できた。いや、もしかしたら破りつけるかもしれない。
「知夏さんってああ見えて新聞ちゃんと読んでるんですよね。前にそんなの当たり前だろって言われちゃったことあるし。この記事、目にしてるかも。今頃家で荒れてるかもしれないなぁ。でも流石にそんな元気はないかなぁ」
太郎には理子の語尾がわざとらしく聞こえ、嫌な予感がした。
「そうだっ太郎さんが知夏さんのお見舞いにいけばいいんだ」
「ちょっとっ、なんでそうなるの」
太郎は少し上ずった声で言った。
「知夏さん今頃家で落ちこんでますよ。だから太郎さんが行くべきですよ」
理子の声はいつも以上に弾んでいる。
「何で僕が?心配なら理子ちゃんが行けばいいじゃない」
「あたし、この後、テスト勉強しなきゃいけませんから」
この娘絶対楽しんでると思うと、太郎はむすっとして
「僕は絶対行かないからね」
と言い放った。
「太郎君」
突然、後ろから美穂子の声がかかった。
「知夏ちゃんのお見舞いにいくのね」
美穂子はにこっと笑う。
「ちっ違いますって」
「じゃぁ行きなさい」
命令口調だというのに美穂子はにこにこしている。
「僕が行っても嫌がられますよ」
「そんなことないわ。ああ見えて知夏ちゃん寂しがりやだから。今頃きっと誰かに甘えたがっているはずよ」
「僕に彼女の鬱憤を受ける役になれと」
「そういうことね。でも、いいじゃない。それって好かれている証拠よ」
愚痴の相手になるこちらの身も考えてくれと言いたかったが、言っても無駄なので黙るしかなかった。
それに、本当にそれが好きな証拠なのだろうかとも思う。
どちらにしろ、知夏の家に行き辛いことに変わりない。
「ちょっと待って」
と言って美穂子はジムの奥に急ぎ足で向かった。
彼女も知夏が太郎のことを好きだと決めつけている。笑顔でずばずば自分の意志を押し通す美穂子も考えようによっては知夏以上に恐ろしい存在である。
美穂子はすぐに戻ってきた。美穂子の両腕にはメロンが抱えられている。
「これっ知夏ちゃんに渡して。今朝、実家から届いたのよ。これで彼女の家に行く口実が出来たでしょ」
美穂子は「はい、いってらっしゃい」と言ってメロンを太郎に渡した。
「練習したいんですけど?」
と最後の抵抗を見せると
「身が入ってないから無駄よ」
と笑顔で返された。
第2話 理子から知夏の家の場所を教えてもらいそれほど迷うこと無く目的の場所へと着くことが出来た。こんな時に限って迷わずに目的地に辿り着くことが出来る。
ここにきて一層気が重くなってきた。
知夏のことは心配だけど、試合に負けてからまだ1日しか経っていないというのに彼女にどう接すればいいというのだ。普段から感情の起伏が激しい彼女のことだ。今は沈んでいるか、あるいは気がたっているに違いなく、どちらにしろ腫れ物に触るようなものであり、そのことを思うだけで憂鬱になる。
知夏は少し古い見栄えがする5階建てのマンションに住んでおり、建物に中に入り、郵便受けを見渡すと理子の言った通り、403が木之下と書かれていた。
エレベーターで4階まで上がり403号室のドアの前で足を止めた。
ポストには新聞が挟まれたままだ。ふと、知夏が屁理屈が得意なのは、雑学が多いからなのかと思った。だから、彼女にはいつも会話で押されっぱなしなのだろうか。
唾を飲み込んで、インターホンのボタンを押した。
やや時間が経っても出て来ないのでもう一度押してみようかと思った時に扉が開いた。パジャマ姿の知夏が出てきた。知夏の顔は昨日よりも腫れ上がっており、さらに醜くなっていた。表情はぼうっとしており、覇気がないように見える。パジャマ姿から寝起きなのかなとも想像した。
太郎と目が合い、知夏の顔は目を丸くして驚いた表情に一変した。
「何で・・太郎が来てるの?」
「お見舞いです。これっ、美穂子さんからです」
太郎はメロンを知夏の前に出した。知夏は受け取ると
「上がっていいよ」
と素直に家に入れてくれた。太郎は邪険に門前払いをされることも覚悟していただけにあっさりと家の中に入れてくれたことに拍子抜けした。
台所とワンルームしかない知夏の家は女性の部屋を思わせる飾り気はまるでなく、質素だった。生活に必要なものしか無く、ベッドも毛布や枕のカバーは地味な色のものだ。都会に一人暮ししている女性の寂しさを感じた。
「適当に何処かに座ってよ」
と言われたので丸いちゃぶ台の側に腰を下ろした。知夏はベッドの上に座った。
普段、口数が多い知夏だが、今日はいつもと違いむすっとした表情で黙っており二人の間で沈黙が続いた。やがてこの雰囲気に耐え難くなった太郎は慎重に言葉を選んで話しかけた。
「体の方は大丈夫ですか?」
「うん、別に何ともないよ」
素っ気無く返され、再び沈黙が続いた。
太郎はちらりと知夏の顔を見た。白いばんそうこうが両頬に貼られ、ぱんぱんに腫れ上がった知夏の顔は可愛さを奪われ、見ていて辛い気持ちにさせる。太郎はすぐに視線を反らした。
「そんなさぁ、ちらちらと見ないでよ」
知夏はため息交じりに言った。
「すみません」
知夏のはっきりと言う物腰は影を潜めていない。沈みきっているというわけではないようで太郎は少し安心した。
「ジムの方はどうなの?」
「あんまりといった感じですね。皆、活気がなくて」
「しょうがないなぁ。でも、一週間は休めって美穂子さんに言われてるし。ホントは明日でにもジムで練習再開させたいのに」
「元気なみたいですね」
「これでもかなり沈んでる方だよ」
それで知夏は滑らかになりかけていた口をまた閉じてしまい沈黙が続いた。
扱いが難しいなと悩みながらも再び知夏に話しかけてみた。
「知夏さんは何でボクシングを始めたんですか?」
「んっ?ああ、別にたいした理由はないんだけどね。体動かしたくてジムに通うようになったんだ。別にプロになる気なんてまったくなかったんだけど、美穂子さんにアマの大会に出てみないか薦められてさ、それで出てみたんだ。別にどうでもよかったんだけどね。でも、決勝で白石夕菜に負けてからボクシングで誰にも負けたくないなって気持ちがあることに気付いたんだ」
知夏はそこで言葉を区切りあぐらを掻いて膝の上に肘をついた。
「早いよね、アマチュアボクシング大会からもう4年近くになるんだから。嫌んなっちゃうよ。4年もやってきて誰にも負けないくらい強くなったと思ったのに、あっさりと負けちゃって」
知夏はため息を付いた。
「あっさりと負けたわけじゃないですよ。途中まではどちがら勝つか分からない良い試合でした」
「ありがとな、太郎。だけど、昨日の負けはあたしにとっては完敗に等しいんだ。完全な力負けだったから」
それで知夏は首を下げた。一瞬、間が開いて下がっていた首を再び知夏は持ち上げた。
「でもさ、負けるたびに思いが強まるんだよね。あたしにはボクシングしかないんだってさ。まだ気持ちの整理が出来ているわけじゃないけどさ、今回もきっとそうなるよ。すぐにでもまた白石夕菜と戦いって思うようになるんだろうね。あんなに痛い思いしてもまだボクシングやるなんて馬鹿だよなぁ、ホントあたしって馬鹿だよ」
言葉とは裏腹に知夏はにひひと笑っていた。ボクシングに飾り気なく裸の姿で向き合う知夏の態度は見ていてすがすがしかった。
つられて太郎も笑顔になっていた。
第3話リングの上にはヘッドギアと12オンスのグローブをはめた太郎と知夏が立っていた。
これから太郎と知夏のスパーリングが始まろうとしている。
知夏がジムに復帰してから間垣ボクシングジムはまた活気付くようになった。知夏は前と同じように我が物顔で自由気ままにジムの中を動いており、間垣ボクシングジムは彼女を中心にして回っていることを太郎は改めて実感させられた。ただ、前と一つだけ違っていたのは試合も決まってないのに知夏が練習に相当な熱を入れていたことだった。
お見舞いに行った時、知夏が言った言葉を思い出した。
"すぐにでもまた白石夕菜と戦いって思うようになるんだろうな"
知夏の頭の中はもうすでに白石夕菜との再戦で一杯なのだろうか。いつになったら再戦出来るチャンスが来るのか分からないというのに。
だが、太郎の思いは杞憂に終った。知夏がジムに復帰してから二週間後に、早くも知夏と白石夕菜の再戦が決定したのだ。日本女子ボクシング協会の方から二ヶ月後の興行で白石夕菜と木之下知夏の再戦をカードに組みたいという要望が来た。美穂子からその話を受けた知夏は「やりたい」と二つ返事で答え、美穂子も反対することは無く、白石夕菜との再戦はすんなりと決まった。再戦が決まるや否や、太郎は知夏にスパーリングパートナーとしてリングに上がるよう命じられた。
「始めていいよ」
知夏の声でゴングが鳴らされ知夏が勢いよく向かってきた。太郎は接近を許しパンチの連打で迎え撃ちにでた。太郎はなるべく白石夕菜と似せた動きをしてみせた。
知夏も足を止めてパンチを放ってくる。
そのまま打ち合いは続いた。ヘッドギアをしているし、グローブも12オンスと大きめにしているのに知夏のパンチは体に効き、スパーリングの相手としては辛い。
ゴングが鳴り、太郎はコーナーに戻ろうと背を向けた。
その時、知夏から声をかけられた。
「太郎、手を抜いているだろ?それじゃ練習にならない。全力でパンチを打ってきてよ」
「えっ・それじゃ知夏さんの体が・」
「こんなぬるいスパーリングをしてちゃ白石夕菜には勝てないよ。彼女のパンチはもっと痛かったよ」
太郎は知夏とのスパーリングでは知夏の体のことを思い、力を70パーセントの力に抑えていた。
知夏の視線は太郎の元に真摯に向けられていた。彼女の思いを無視し、逃げるわけにはいかない。
「分かりました」
からからになった喉から声を振り絞り、太郎は答えた。
第2Rが始まり、再び足を止めて知夏の体めがけてパンチを放った。全力のパンチである。
太郎の右フックが知夏の頬に当たった。その瞬間、知夏の細い首がパンチの衝撃に耐えられず後ろへ大きく吹き飛んだ。知夏は2、3歩後ろへよろめき立ち止まった。
「だっ大丈夫ですか?」
口に出していた。
ズドォォッ!!
知夏の右ストレートが太郎に当たる。
「心配なんてするな。試合のつもりでやってよ」
太郎は頷き、パンチを放っていく。知夏も真っ向からパンチを放ち、両者のパンチが当たっていくが、すぐにパンチ力の差が表れ始め、パンチの手数でも差がついてきた。
太郎の猛攻の前に彼女のパンチが完全に止まりかけてきた頃、ゴングが鳴り、太郎は手を休めた。知夏は力無く、ふらふらと自軍のコーナーへと戻る。
太郎は不快な気持ちで覆われていた。全力のパンチを彼女の体に何発も叩きこみ、知夏をグロッキー寸前にまで追い詰めてしまったのだ。
まだやらなくちゃいけないのか。まだ知夏さんを殴らなくちゃいけないのか。
苛立ちながらもちらっと知夏の方に顔を向けてみた。もし知夏がキャンバスに尻を付けてしゃがみこんでいたら、スパーリングを中止にさせようという思いが頭の中にあった。だが、知夏は上段のロープに両手を広げて掴み、背中を屈めがら辛そうに乱れた呼吸を整えて次のRに備えていた。
無情にも次のRのゴングが太郎の耳に届き、余計なことを考えていたために一瞬、出遅れてしまった太郎に対し、知夏は猛突進して向かってきてパンチを放ってきた。彼女は白石夕菜に勝つために必死なのだ。その覚悟を無駄にするわけにはいかない。
太郎は全力で持って知夏にぶつかっていった。
その日、スパーリングは6R行なわれ、知夏は4度のダウンをした。最後のダウンでは暫くの間立つことが出来ないほどにダメージを受けていた。
第4話「ねぇ、昨日の雄二マイケルの防衛戦ビデオ取ってない?」
知夏は後ろから太郎の肩にぽんと手をかけた。太郎は振り向き、
「ないですよ」
と簡単に済まされた。
「昨日取り忘れちゃったんだよね。ボクシング中継もっと早くにやってくれればビデオに撮ることもこないのに。試合は観なかったの?」
「眠かったから」
太郎はそう答えるとサンドバッグの方へ向かって行った。
なんだ、素っ気無いなと思いながら知夏はサンドバッグを打つ太郎の後ろ姿を眺めていた。
練習を終え、更衣室に行くと理子が先に着替えていた。
「最近太郎の奴元気ないと思わない?」
「分からないんですか」
理子はうふふっと笑う。
「さぁっ」
知夏は首をひねった。
「好きな人を殴り続ける日々が続いちゃそりゃぁ太郎さんも参りますよ」
知夏は頬を赤らめた。
「なっ何言ってんだよ!」
知夏は動揺して声が大きくなっていた。
「そういうことです」
「からかうなよ」
「からかってなんかいませんよ。でも、もうちょっと太郎さんのこと気遣った方がいいですよっ」
理子は着替えを済まし、部屋を出て行った。
なんだよそれ、太郎があたしのこと好きだって─────。
知夏は頭の中がさらにかっと熱くなっていくのを感じた。疲れ切った顔を水でバシャバシャッと洗った。
知夏とのスパリーングが始まり、3週間が経った。ほぼ毎日行なわれ、知夏を何度となくダウンさせた。その数は30回をゆうに超える。知夏がフライ級の日本チャンピオンとはいっても女子であり、しかも階級もスーパーフェザー級の太郎とでは4階級も違うのだ。六回戦とはいえ太郎が本気でかかったら知夏とは勝負になるわけが無い。それでも知夏は全力でぶつかってくることを太郎に要求し続ける。
太郎は知夏の決意を無駄にしないためにもスパーリングで力を抑えることは一切しなかったが、そのため精神的には相当参っていた。
「太郎」
ジムを出たところで知夏に呼びとめられ、太郎は後ろを振り向いた。
「あたしも帰るところなんだ。駅まで一緒に行こうよ」
「あっ・はい」
知夏の顔は今日も腫れたままだ。
太郎は顔をすぐに背けた。
知夏と横に並びんだ。普段なら知夏からは愚痴話を聞かされているところなのだが、今日はどういうわけか知夏は黙っていた。
「太郎・・・あたしとのスパ―リング嫌か?」
「えっ何で・・そんなことを?」
知夏は顔を気持ち斜めに向けて黙った。ややあって口を開いた。
「理子がさぁ教えてくれたんだ。太郎はあたしとのスパーリング嫌がってるって。そりゃぁ女を殴るの嫌だよな・・」
知夏の顔は赤い。それで太郎の胸は高鳴った。
同じようなことが前にも一度あった。白石夕菜との試合で劣勢に立たされて迎えたインターバルでだ。殴り合いをしている最中だというのに突然、見せた弱気な表情に太郎はどきっとした。今、彼女は顔を赤らめ、さらに女を思わせる表情をしている。しかも、リングという特殊な場所ではなく、道端である。これではまるで告白する前の雰囲気みたいだ。
太郎は返答に困った。これはスパーリングパートナーから解放されるチャンスである。しかし、白石夕菜に雪辱を果たすために出来るだけ知夏に協力していきたい思いも持っている。
よく分からぬままに口が喋っていた。
「女を殴ることは正直言って嫌いです。でも、知夏さんが負けるとところはもうみたくないです。だから、気にしないでください。僕に協力が出来ることはスパーリングのパートナーになることくらいしかないですから」
「そう・・ありがとう・・」
知夏はそう言うとまだ何か言いたげな顔のまま黙ってしまった。
何処か空気がおかしく、知夏は依然として顔を赤らめている
理子は知夏に何処まで話をしたのだろうか・・・。ひょっとしたら俺が知夏のことを好きだなんて余計なことを言ったのではないだろうか?
そんな疑問が湧いて出てきた。
彼女は告白されることを望んでいるのだろうか?理子が言ったように彼女は本当に俺のことが好きなのだろうか?
考えたらきりがない。太郎は再び知夏の顔を横目で見た。緊張しているように思える知夏の表情に太郎の心臓はさらに高鳴る。
だけど、言えなかった。彼女のことを意識しているのに。すごく意識しているのに・・・。
「明日もスパーリングいいかな・・?」
弱々しく聞こえた知夏の頼みに太郎は知夏の顔を見ることが出来ないまま「はい」と頷いた。
第5話 ウェイトレスの手からテーブルの中央に二皿、トマトのモッツァレラチーズ焼きとスパゲティカルボラーナが置かれた。夕菜の目にはどちらも美味しそうに映り、唾を飲み込んでしまった。
今日は久し振りに光平と外で食事である。ここのところ、光平が仕事に忙しかったため夕菜と休日が重ならなかったのだ。
目の前に置かれた二品を見比べて夕菜はトマトのモッツァレラチーズ焼きから口にした。
「このモッツァレラチーズが乗ってる奴ってすごく美味しい。ほらっ光平も食べなよ」
「ああ」
一口入れると光平も美味しそうに頬を僅かながら緩ませた。
「こっちも食べてみな」
スパゲティカルボラーナを夕菜は皿に取り、口にほうばった。
「あっ、こっちの方が美味しいっ」
美味しくて食がどんどん進む。
「でも、御馳走も今日で食い収めなんだよね。減量しなくちゃいけないから」
と言って夕菜は溜め息を漏らした。
「試合近いんだ」
「うん、次は一ヶ月後」
「チャンピオンってことはさ、これからは強い人と相手し続けるんだろ?」
「チャンピオンでいる限りそうなるかな」
「あんまり心配させないでくれよ。前回みたいなことが続くとさ」
「無茶言わないでよ。相手だって必死なんだよ」
光平は否定的な態度を見せる。要はボクシングなんか辞めろと言いたいのだけれども、夕菜が頑固であることを充分承知しているため、直接口にはしないのだ
ボクシングをすることに反対はしないけど、関心も持たない。夕菜がプロボクサーになることを告げた時、光平はすぐさま反対の言葉を返してきたが、いくら反対しても夕菜の決意を変えることは出来なかったために渋々了承し、それ以来、光平はそうした態度を決めこんでいた。
これまで光平が試合前、試合後も全くボクシングの話題に触れようとしないのはいつも夕菜が試合をしてきても全くそう思えない綺麗なままの顔をしていたことが大きかったと夕菜は考えている。女性は筋力がないから女子ボクシングは男子と比べてもかなり安全な競技と光平は思ったに違いない。実際はそんなことはない。夕菜が相手のパンチをもらうことがほとんどないから夕菜は顔を腫らさずに試合を終えることが出来るだけで、夕菜と闘った相手は皆、酷い顔にさせられてリングを降りるはめになっているのだ。
しかし、前回の木之下知夏との試合で相当な数のパンチをもらい、腫れ上がった夕菜の顔を光平に見せた。今日、夕菜がボクシングすることに再び反対の姿勢を出しているのはそれが原因に違いない。
たしかに恋人が顔を腫らせば心配するようになるのは当たり前のことだけど、それでも一度でも良いから光平に祝福の言葉をかけてもらいたいと夕菜は思うのである。
木之下知夏に勝ち、チャンピオンになった次の日、光平は夕菜の家に来て、その腫れ上がった顔を見て顔が真っ青になった。「大丈夫か?」と聞いてきて、
「うん、平気だよ。相手が強かったから苦戦したけど、試合の方は勝てたんだ。これであたしチャンピオンだよ」
夕菜は笑顔で嬉しそうに話たが、光平は「そっか」と素っ気無い反応を返すだけだった。
光平の態度に夕菜は物足りなさを感じた。辛い練習に耐えてチャンピオンベルトを取ることが出来たのだから光平の口からも労いの言葉をかけて欲しかった。折角、愛し合っている人がいるのにその人から祝福されることはないなんて寂し過ぎる。これじゃロマンの欠片さえない(もっとも選択したスポーツ自体がロマンに欠けていることは重々承知だけど)。チャンピオンになっても祝福されないのだからもうそんなことは絶対ありえないと夕菜は悟った。
光平はむすっとしてスパゲティカルボラーナを食べている。夕菜はその態度を見て頬を膨らませた。
「一度くらいさぁ、応援に来てもいいんじゃないっ」
「夕菜が殴られるところなんて見たくないよ」
光平は夕菜を見ることなくスパゲティカルボラーナをフォークに巻いた。
自分の部屋には入るや夕菜はベッドの上に横になった。
「あ〜もう最悪!」
夕菜は天井をじっと見つめる。少し、頭がぼうっとしているのはアルコールが体に入っているためだ。
ボクシングなんて疲れたよ・・・。練習は辛いし、減量で大好きな食事我慢しなきゃいけないし、光平は分かってくれないし。
夕菜は寝返りを打った。夕菜の視界の中に壁に吊るされた赤いボクシンググローブが映る。
辛い練習をともにしてきた夕菜にとって最も思い出深く大切な物だ。
夕菜は大きく息を吐いた。
止められるわけないよね。試合に勝った時の喜びを知っちゃったんだから。
ベルトを守り続ける。そして、いずれは世界のベルトを腰に巻くんだ。そのためにまずは次の防衛戦に勝たなきゃ。
夕菜は次の対戦相手を思い浮かべた。決して侮ることは出来ない相手である。だけど────夕菜は思う。
次もまた木之下知夏か・・・。彼女も懲りないなぁ・・。
拳を交えた2試合とも力の差を見せつけたのにまだ彼女はあたしと戦うことを望んでいる。
今まで戦ってきたボクサーの中ではダントツで強かったけど、それでもあたしの方がもっと強い。なのに、夕菜がボクシングを続けてきて重要なところでは必ず彼女が絡んでくる。運命的なつながりでもあるのだろうかと思ってしまう。
彼女と初めて出会ったのはアマチュアボクシング大会でである。
健康的な体を持ちたいためにボクササイズを始めた夕菜は高校3年の秋にアマチュアボクシング大会に出た。銀行への就職が決まり、仕事に付いてからは公式の試合に出ることは出来なくなる。高校生活最後の思い出という意味合いも兼ねて夕菜は最初で最後のアマチュアボクシングボクシング大会への参加を決めたのだ。
その大会で夕菜はKO勝利で勝ち続け、決勝戦へと進んだ。その決勝戦の相手が夕菜と同じくオールKO勝利で勝ち抜いてきた木之下知夏であった。
準決勝で知夏のパンチ力を目の当たりにし、夕菜はこれまで以上に警戒して、試合に臨んだが、実際、拳を交えてみると知夏はたいして強く無かった。とにかく、ガードがあまく、パンチが簡単に決まっていった。三度のダウンを奪い、最後、サンドバッグと化した彼女にレフェリーが割って入り、夕菜の優勝が決定した。
その時夕菜は初めて自分が強いことを知った。ボクシングの公式戦をこれで最後にするのはもったいない。もし、プロのリングで上がったらどうなるんだろう。そんなことも思ったが、せっかく決めた銀行の就職をふいにするわけにはいかず、プロになることは断念した。
その後もジムには通い続けたが、ボクササイズのメニューでスパーリングは一切やらず、主に体を動かすことが目的であった。だけど、夕菜はリングの上で相手を翻弄する気持ち良さが忘れられず、スパーリングをやっている男たちの姿をいつも横目に羨ましげな顔で見ていた。
ある日、家族がCSデジタル放送をテレビに入れ、家で女子ボクシング中継を見られるようになった。リングに上がりたい思いを抑えるため、女子ボクシングの情報を意図的に耳にいれないようにしていた夕菜は見ようか見まいか悩んだが、誘惑に負けつい見てしまった。
メインイベントに出ていたのはアマチュアボクシング大会で夕菜に手も足も出ずにKO負けした木之下知夏だった。
彼女は日本タイトルマッチで敗北し、この試合が再起戦らしかったが、ランキング5位の相手に終始攻め続け、KOで圧勝して試合は終わった。
「木之下選手再起戦を見事KO勝利で飾りました。これで再び日本タイトルマッチ挑戦の一歩を踏み出したといえるでしょう!!」
必要以上に場を盛り上げようとするアナウンサーの実況が耳に届く。
アップで映し出される木之下知夏の笑顔と彼女を取り囲むセコンド達。
それは夕菜の目に華やかな光景に映った。
あたしの方が強いのになぁ・・・。
ボクシング・・・。
やりたい。本当は試合をしたいよ。
もう気持ちを抑えることは無理だった。その時、夕菜は銀行を辞めてでも、プロのリングに上がることを決意した。
プロデビューした夕菜は連勝街道を突き進む。そして、初めて挑戦することになった日本フライ級タイトルマッチの対戦相手もまた木之下知夏となった。さらには初防衛戦の相手も。
大舞台で必ず戦うことになる巡り合わせ、そして、プロになることを決めた陰に彼女の存在がある。
これってライバルってことなのかな・・。
夕菜はくすっと笑った。
だとしても次の試合、ドラマチックな試合をするつもりはない。次の試合までにもっと成長して、そして、前回よりもより完璧な勝利を掴んでみせるんだ。
サンドバッグ打ちを終え、休憩を取っている夕菜のところに優香がやってきた。目を緩ませて、楽しそうだ。
「ねぇ昨日食事してきたんでしょ。どうだった?」
「普通っ」
夕菜はむすっと答えた。
「あれっ不機嫌だなぁ。何かあったんだ」
「別にな〜んにもなかったよ」
「試合も近いんだから彼氏から励まされたりと心配をかけてもらったんじゃないの?」
「あいつ最悪だよ。一度も励ましてくれたことなんてないんだもんっ」
「白石さん」
柔らかい声に会話が中断させられた。夕菜は顔を上げると、目の前に麻名が立っていた。
「休憩終ったらスパーリングなんてどう?白石さん、試合近いでしょ」
「別にかまなわいよっ」
「まぁ試合も近いっていうのに男とのおのろけ話なんてしてるくらいだから余裕なんでしょうけど」
嫉妬心を剥き出しにしているのが容易に分かる。麻奈は夕菜と同じフライ級の日本ランキング4位であるが、いくらランクを上げても夕菜がチャンピオンである限りチャンピオンにはなれないため、そうでなくても麻奈は秋山ボクシングジムでは夕菜の1年先輩にあたる。並々ならぬ嫉妬心を彼女は夕菜に対し持っていて当然といえば当然である。
「残念ながらそのようで」
夕菜は茶化して返した。麻奈の唇に力が加わっていく。だが、すぐに平然とした表情に戻し、
「たいした自信よね。ねぇ、普通にスパーリングしてもつまらないでしょ。スパーで負けた方がこのジム出ることにしない」
「別に構いませんよっ」
「その言葉忘れないでよね」
麻奈は背を向けて、リングへと向かっていく。
「そんな約束して大丈夫なの夕菜!」
優香は声は大きくして言った。
「大丈夫だって」
軽い調子で返した後、夕菜は厳しい視線を麻奈に向けた。
それから数分後、リングの上では一人の女性が顔面を血塗れにして倒れていた。
夕菜はコーナーポストに戻ると、セコンドとしてコーナーの外に立っていた優香に向かって微笑み掛けた。
「このベルトはあたしのもんなんだから。誰にも絶対渡さないよ」
第6話
途中、街中で目にした時刻は8時5分だった。街の小さな商店街はほとんどが店を閉めており、人通りはほとんどなかった。
ようやくジムが見えてきた。今は時刻もう、8時20分を回っているはずだ。だとしたらジムが閉じる時間を20分以上過ぎており中には美穂子くらいしかいないだろう。
そもそもロードワークでいつもより長い距離を走ろうとして道を変えたのが間違いだった。方向音痴が激しい太郎はすぐに道に迷い、40分で終らせるつもりだったロードワ−クは2時間も走ることになってしまったのだ。
やっとのことでジムに辿りついた太郎はまだ中は明かりが点いていることに安堵して扉を開けた。
がらんとしたジムの中に1人、知夏の背中があった。Tシャツに紺のジーパン姿の私服に着替えており窓に体を向けて立っていた。知夏は扉が開く音に反応し、顔をこちらに向けた。
「すごい汗じゃない、どうしたの?」
「2時間ずっとロードワークしてたんで」
「すごい気合じゃない」
「いやっ、ただ単に道を間違えちゃっただけで」
知夏は腹を抱えてゲラゲラ笑い出した。
「はははっ、そりゃぁいいやっ」
「知夏さんは何をしてたんですか?」
「今日で練習も御終い。長かったよね」
太郎の問いかけは無視され、知夏は太郎に話し掛ける。解放感と感傷が混ざり合ったような口調だった。
自分の問いかけが無視されたことへの不満よりも知夏の感傷的な表情に気持ちがいく。
太郎も自分の試合ではないのに知夏の練習期間は自分の試合以上に長く感じた。知夏と二人きりになった帰り道に知夏にスパーリングのことを聞かれたあともスパーリングは何事もなかったように続いた。太郎は知夏を殴ることに依然として抵抗を感じつつもそれでも自分の気持ちを抑えて、知夏のサポートに努めた。スパーリングは試合の1週間前まで続けられ、それ以降知夏の練習は疲れを取ることに重点を置いた軽いメニューに移行していた。それも試合を2日前に控えた今日で終了である。
「仕上がりは完璧ですか?」
「そりゃあ最高だよ」
「それじゃ勝つって信じます」
「信じてもらわないとねっ」
そう言って知夏はリングに目を移した。
「さっきさぁ、ちょっと、思い出に浸ってたんだ」
知夏は照れ臭そうに言った。
「えっ?」
「今日でジムの練習も終わりだから、1人でジムにちょっと居たかったんだ。あたし、今度の試合に負けたら引退するよ」
彼女は重大な言葉をあっさりと言い放った。太郎は表情を強張らせた。
「あたしって自分に甘かったんだよ。今まで、練習で手を抜いていたわけじゃないけど、限界までやってきたかっていうと自信を持って言えなかった。だから、今回は体のことなんて忘れて限界を超えて自分の体を苛め抜いてやったんだ。これ以上練習を続けたら壊れるんじゃないかって思ったこと何回もあったけど、それでもやり続けた。明日のことなんて考えずにやってきたんだ。あたしは自分に屈しなかった。だから、負けない。あたしは誰にも屈しない。それでも白石夕菜に適わなかったらあたしはそれまでだったことだよ。限界を超えてやったんだ。負けても引退に悔いなんてないよ」
「知夏さんが出した結論なら・・・」
そこまで言うのが精一杯だった。
「それから太郎に一つ頼み毎があるんだ」
「なんですか?」
「タオルは太郎に持っていて欲しいんだ」
「それは美穂子さんの役目じゃっ・・」
「いいんだ。ずっと練習に付き合ってきたのは太郎じゃないか。だから、あたしの限界も太郎が一番よく分かっているはずだよ。本当はタオルなんて絶対に投げて欲しくなんかない。でも、そんな我侭通用しないだろ。だったら太郎に投げてもらうのが一番納得いくよ。もちろんタオルを投げる展開になんてさせないけどね」
知夏とのスパーリングの日々が思い出された。スパーリングの相手をしてきて知夏の試合への思いは痛いほどに伝わっている。だからこそ、タオルを持つことの重みを感じた。生半可な気持ちで引き受けることなんて出来ないタオルなのだ。
「分かりました。僕に任してください」
太郎は知夏の目を見て、言いきった。
そして、知夏と太郎は試合を迎えた。
タイトルマッチ。深い因縁を持つ女性同士の三度目の対決。複雑な思いが絡み合い、試合は進んでいく。何度となく鈍いパンチの音がリングに響き渡る。血が、唾液がキャンバスに飛び散っていく。
時間の流れが太郎には長く感じられた。それが、何故なのか、簡単なことである。
今、場内は耳をつんざくほどの大歓声に包まれていた。客はこれが最後のシーンとなることを望んでいるのか、大勢の人間によって出された熱気と狂気の入り混じった空気が場内を支配していた。
太郎は張り詰めた表情でリングに向かい叫んでいた。
知夏がサンドバッグにされているからだ。
第7話
バシィッ!!グシャァッ!!ドボォォッ!!
チャンピオンの拳がロープを背負わされた知夏の体を滅多打ちにしていく。果敢に攻めていった序盤の知夏の姿はもうそこにはなく、体を丸め、夕菜のパンチの雨を浴びるだけのサンドバッグと化している。
夕菜のパンチを浴び続け、知夏の体に蓄積されていたダメージがここにきて一気に噴き出て、夕菜の拳に捕まってしまったのだ。
無抵抗のままに打たれ続ける知夏の姿からは知夏の耳に太郎の声が届いているとは思えなかった。何もできないままに殴られるだけだ。
ゴングが鳴り、夕菜の連打がようやく止まった。
知夏はふらふらと安定しない足取りでコーナーに戻ってきた。
6度目のインターバルになるが、そのたびに知夏は劣勢のまま帰ってきている。1Rから知夏は夕菜のパンチを浴び続けた。1Rからずっとだ。
試合開始のゴングが鳴り、知夏と夕菜はジャブでお互いの様子を見る。特攻する戦いが身上の知夏も流石に一度負けている相手だけに立ち上がりは慎重だった。知夏は左ジャブの手数で夕菜を上回っていた。良い立ち上がりだと太郎は思った。
その矢先だった─────。
知夏が鼻血を撒き散らしてダウンしてしまったのは。
グワシャァッと鈍い音がリングに響き渡る。打ち抜いた右ストレートに知夏の首はぐるりと回る。パンチを受けた勢いで太郎の元に向かれた知夏の顔はひしゃげてしまっていた。鼻が潰れ、上唇と下唇がそり返って、顔面が醜悪な形になっている。
大の字に倒された彼女を見て、場内は瞬間的に静まり返り、その後に待っていたのは大歓声だった。
圧倒的な強さをまたしても、そして早くも見せつけた夕菜に場内は興奮の坩堝と化した。客が騒げば騒ぐほど大の字の姿でキャンバスの上に横になっている知夏の姿が惨めに映る。もちろん、太郎にそれを感じ取っている余裕はない。声を大にして知夏の名前を呼ぶ。
だが、知夏はなかなか立ち上がらない。たった一発のパンチで知夏はグロッキーとなっていた。なんとかカウント内に立つも、足元はふらついている。
簡単に避けられる大振りのパンチだったはずだ。しかし、負けられないプレッシャーに知夏は緊張していた。今、考えるとそうとしか思えない。試合前、知夏は控え室で理子とジムにいるかの如くお喋りしていたが、あれは緊張をほぐそうとしていたのだろう。リングに上がったあとの知夏の顔は強張っていた。太郎も少しでも緊張がほぐれるような声をかければ良かったのだが、気付くのが遅すぎた。
夕菜の強烈な一撃の前に戦いは大幅な修正を余儀なくされた。足元が覚束ない状態で打ち合える相手ではない。「ガードを固めて」と美穂子は指示を出した。勝負は2R以降ということである。知夏は美穂子の指示通り、ガードを固めて1Rを凌ぎ切った。
仕切り直しとなって知夏が試合を持ち直してくれることを祈り、太郎はコーナーを出ていく知夏は見送った。
しかし、狂った歯車はそう簡単には直らない。動きがちぐはぐなままの知夏のまま夕菜と対等に闘い合えるわけがなかった。
夕菜のパンチが次々と知夏の身体を抉っていく。あまりにも強烈なパンチを食らい知夏は何度となくキャンバスに倒された。知夏は倒されるたびに立ち上がり、そしてまたキャンバスに沈まされる。ダウンの数は4度を数えた。知夏の顔は頬がぱんぱんに腫れ上がってしまい、輪郭が正常な形を失って大きく膨らんでいる。直視するだけで太郎には辛かった。
椅子に腰をかける知夏の体から流れている汗を太郎はタオルで拭い取った。顔にも腹にも紫色に変色した痣がある。すでに夕菜のハードパンチを百発以上も浴び、普通ならすでにKOされているはずである。しかし、知夏がまだ闘うことができているのは、急所にだけはパンチを受けてないからだった。
それは唯一出ている特訓の成果だ。前回の試合で顎にパンチをもらい、意識がなくなった経験と、太郎との激しいスパーリングを何度も重ね、スパーリングでも何度もKOされたことで知夏の体が無意識に急所を防ぐ動きができるようになっていた。そのことを太郎は知夏とスパーリングをして体感していた。短期間の間に何度もKOされた経験が今、生きている。
だが、この先も防げる保証はない。今の知夏の状態では一発でも急所にパンチを受ければKOされてしまうだろう。もちろん、急所でなくてもどこにパンチが当たろうが夕菜のハードパンチならいつKOされてもおかしくない状態である。
逆に知夏の狙いは急所への攻撃しかなかった。一発逆転のパンチを浴びせるにはそれしか手が残っていない。
「知夏さん、ガードをもっと上げて。カウンター狙いでいきましょう」
「わっ・分かってる・・。とうに自分のスタイルは捨ててるんだ・・・」
重い言葉だった。しかし、知夏の言葉通りである。試合の途中から知夏はアグレッシブに攻めるスタイルを捨てガードを上げて、一発逆転のパンチを狙うようになっていた。このまま自分のスタイルで戦っても勝てないと知夏は悟っていた。それでも、守りに入った闘い方はクリーンヒットをもらう数は減ったのだが、肝心の知夏が放つパンチは夕菜に当たらず、KOされる時間を延ばしているだけにしかなっていなかった。
もう策はないのだろうか・・
弱気なことを言わない知夏が歯痒さを全面に出したのだ。希望が見えなくなっている・・。
「時間になったよ・・。マウスピース」
知夏は椅子から立ち上がり、右手を開き、差し出した。
「あっ・・はい」
太郎は慌てて知夏にマウスピースを渡した。マウスピースを口にくわえる知夏の顔を太郎は見た。痛々しく腫れ上がった顔は可愛らしかった原型を僅かに残しているだけだ。ダメージは相当なものである。
次、ピンチになったらタオルを投げることも考えなくてはと太郎は思い、コーナーを出ていく知夏を見送る。
第8話 グワシャァァッ!!
夕菜の右フックが決まり、知夏の体が沈んでいく。横に倒れていく体を知夏は離れていた右足を地に付けて支え、こらえた。
ダウンは免れたが、太郎にとって気の休む間はない。右、左。フックの連打が知夏の顔面を往復した。
7Rに入っても夕菜の猛攻は止まらなかった。知夏が防戦一方であることは変わらない。
相変わらず知夏は夕菜が放つパンチの的となっている。
これ以上は危険だ。
太郎はタオルを握り締めた。
─────あたし、今度の試合に負けたら引退するよ。
くそっ・・・何でこんな時に知夏さんの顔が思い浮かぶんだ。
その時、
バシィッ!!バシィッ!!
知夏のワン、ツーが決まった。知夏のパンチが久々に当たり、太郎は僅かな可能性しかない知夏が盛り返す展開に期待を寄せたが、夕菜はすぐにパンチを返していき、知夏がペースを握ることはなかった。
再び知夏はガードに撤することになり、ガードの合間からパンチを浴びた。知夏の頭が殴られる度に右に左に激しくふられる。血がキャンバスに飛び散っていき、それは悲愴な姿だった。
もう、ダメだ。
太郎は決断し、再びタオルを握り締めた。
その刹那、鈍い音がリングに響き渡った。
夕菜の右ストレートが知夏の顔面に埋め込まれている。
遅かったか────。
瞬間的に醜く変形しているだろう知夏の顔に太郎は目を向けた途端、目を大きく見開いた。
知夏の目は相手に向かっていた。その表情に対戦相手の夕菜は圧倒され、気後れした表情に変わっていた。
─────あたしは自分に屈しなかったんだ。だから、負けない。あたしは誰にも屈しない。
知夏の言葉が頭をよぎる。
知夏の心はまだ屈してない。
連打の合間を割って知夏のワン、ツーがまた夕菜の顔面に当たったが、夕菜の動きを止めることは出来ない。左のフックを放ち、主導権を渡さない。
隙はあるが、誰にも負けないパワーを活かした戦い方を夕菜は知っている。
狙うとしたら彼女のパンチ力を逆にぶつけることが出来るカウンターしかないが、不器用な知夏が成功させることは難しい。
次に打つパンチさえ分からない限り当てるのは無理がある。
次のパンチ・・。
太郎は今の攻防を思い浮かべ、考え込んだ。
その時、一つの事実に気付いた。予測できるパンチが一つだけあることに。
太郎の右手に力が入る。
希望が見えてきたのだ。
まずは知夏がこのRを耐えぬく必要があった。
しかし、夕菜の拳はさらに強烈な音を発てて知夏の体を殴りつけていた。
「ぶぼっ!!ぶへえっ!!ぐはぁっ!!」
その拳は知夏の顔を醜い形に変え、口から苦悶の声を上げさせる。その痛々しげな声はゴングが鳴り響くまで止むことは無かった。
第9話 「やっ・・やってみる・・価値ありそうだね」
辛うじて夕菜の猛攻に耐え抜き、顔が血塗れになりながらも青コーナーに戻ってこれた知夏に太郎が考えた反撃の案を説明した。知夏は息苦しくし呼吸をしながらも太郎の案に同意した。
第8Rが始まる。試合は依然として夕菜のペースだった。
知夏はガードを固め、反撃のチャンスを狙う。
ドゴォォッ!!
夕菜の右ストレートが知夏を捕える。
バシィィッ!!
夕菜の右ストレートが知夏の顔面にめり込む。
ガードしても合間を縫って知夏の体にパンチは当たる。
グシャァッ!!グシャァッ!!
知夏のガードが甘くなってきている。
バシィィッ!!バシィッ!!
知夏のワン、ツ−が夕菜の顔面に決まった。夕菜はそれでも止まらずに左のフックを放ってきた。
─────そこだ!
次の瞬間、左フックは空を切り、知夏はその下に潜りこんでいた。
グシャァァッ!!
知夏の右アッパーカットが夕菜の顎を打ち上げた。不恰好に変形した夕菜の小さな口から白いマウスピースが血を連れて高々と舞い上がっていく。
顎を突き上げられた夕菜は気を失ったかのように両腕を上げ、無防備に後ろへと崩れ落ちていった。起死回生となるアッパーカットは大逆転を呼んだのだ。
夕菜には決まって出すパンチが一つあった。それは知夏が右のパンチを当てたときだ。パンチを当てた後、夕菜は主導権を奪われないために、接近戦ならば必ず左のフックを出していた。生粋のファイターである夕菜の唯一浮き出た欠点だった。ファイターの習性を逆に利用し、知夏は狙い澄ました一撃を急所である顎へぶち込んだのだ。
バンザイをしたまま夕菜は動かない。開いたまま瞬きしない目は気を失っているかのように見える。
早くカウントが数え終えられるか、もしくは試合を止めてくれることを太郎は願った。
「セブン、エイト」
歓声が沸き上がる。
夕菜が立ち上がってきた。ファイティングポーズを取り、レフェリーの確認に首を縦に振る。
試合が再開され、今度は知夏が一方的に攻めたてていった。カウント内に立つことができた夕菜だが、顎への一撃は彼女の足の自由を奪ったようだ。思うように力の入ったパンチを打てず抵抗する力を失った夕菜は逆に知夏のサンドバッグになった。今まで殴り続けられ蓄積されていた怒りが爆発したかのように、知夏の拳が夕菜の顔面に何度もえぐい音を発て、めり込まれる。その姿はまさにチャンピオンだった頃の強い知夏を重い起こさせる。
ゴングが鳴り、知夏は舌打ちをし、コーナーへと戻ってくる。
「いける、この試合いける」
自分に奮い立たせるように知夏は声を出した。知夏のダメージも相当なもので体を動かすことも辛いはずだが、目の前に見える希望が彼女の体を動かしている。
次のRに入っても知夏の優勢は続いた。夕菜の体が悲鳴を上げる。知夏が放つパンチの連打に小さな頭が激しく吹き飛ばされ、顔から血が、唾液が撒き散る。
そして、知夏は再び、右アッパーカットを夕菜の顎にぶちこみ、夕菜の体を吹き飛ばした。凄まじいパンチの威力に両足がキャンバスから浮いていた。あまりに豪快な知夏のアッパーカットに倒れていく夕菜の姿には敵ながら儚ささえ感じた。
一度も弾むこと無く重い音を発てて落ちたマウスピースが儚さをさらに際立たせていた。
立ち上がれるわけないパンチが決まったというのに太郎の心臓の鼓動はさらに速いスピードで動く。
立ち上がれるわけが無い。太郎は自分にそう言い聞かした。
仰向けとなった体に上体を起こそうとしているが、すぐにキャンバスに背中が沈んだ。
またも、持ち上げようとした夕菜は首が上がったまま突然、ぽかんとした表情になり、固まってしまった。その直後、歯を食いしばり、必死の形相でなりふり構わず立ち上がろうと力を入れていた。
もがきにもがいて、夕菜はカウント9で立ち上がってきた。
知夏さんだけじゃない。彼女だって負けられないものがあるのだろうかと太郎は思った。
その清楚な外見に似合わないガッツを彼女は持っている。でなければ立ち上がれるはずが無い。
知夏は向かっていく。次、決めれば今度こそ立てないはずだ。
足元が覚束ない夕菜に知夏は右ストレートを放った。
しかし、知夏の右ストレートは空を切る。夕菜はダッキングしてパンチの下に潜っていた。狙い澄ましたその目は知夏の顎に向けられている。夕菜の右拳が風を切りながら上昇し、知夏の顎を捕えた。右腕の力が一点に凝縮され、知夏の顎を打ち壊す。勝負を決める一撃が完成したのだ。
「ぶへぇぇっ!!」
耳を塞ぎたくなる知夏の呻き声がリングに響いた。
知夏の口からマウスピースが高々と舞い上がっていく。マウスピースは何処までも高く、血とともに上がっていく。
知夏は千鳥足でリングをふらつき、顔からキャンバスに沈んだ。
第10話
大の字で倒れている知夏。その体はぷるぷると震えていた。
無情にもカウントは進んでいく。
大の字で倒れたままの知夏に向かってレフェリーはまるで死の宣告をしているかのようにカウントを数える。
「スリー、フォー」
レフェリーがファイブを数えるべく右手を上げた時、太郎は体が震えるのを感じた。
知夏が立ち上がろうとしているのだ。体はぷるぷろと震え、表情は息をすることさえ辛そうに見えるのにそれでも立ち上がろうと必至に力を入れている。
知夏は両腕をロープに絡ませる。そうしないと今にもキャンバスに崩れ落ちていきそうである。
「エイト、ナイン」
そこで知夏は両腕をロープから離し、ファイティングポーズを取った。
その姿を見て、レフェリーは試合を続けさせた。
夕菜はコーナーから攻めてこない。足ががくがくと痙攣している。知夏も目が虚ろなまま立っているだけだった。そのまま時は経過し、ゴングが鳴った。
後ろに崩れ落ちていく知夏の体を太郎は抱き止めた。
「知夏さん!!」
知夏の虚ろな目が太郎に向けられた。
「大丈夫だよ・・」
ぼそっとした声で言った。赤コーナーでは夕菜もセコンドに抱き抱えられてコーナーに戻っていた。
太郎は次のRの指示を出した。といっても技術云々では無く気力を出せといった励ましの言葉を送ったにすぎない。
もう、試合は技術云々といったレベルではなく、精神力の勝負になっている。
太郎が指示を出す中、知夏はコーナーポストに体をもたらせて知夏はひたすら呼吸の回復に努めていた。
弟9Rが始まった。
重い足取りで二人はコーナーを出た。二人は虚ろな目をしながらも本能がそうさせるのか足を止めて拳を相手の体に叩き込んでいく。1Rに比べ、パンチは明らかにキレを失っており、お互い気力でパンチを放っていた。気力でパンチを放ち、気力で体を支え立ち続けている。
気力だけで戦っていく知夏と夕菜の姿に観客は熱狂していた。知夏に、夕菜に声援がひっきりなしに送られている。
グワシャァッ!!
お互いの顔面に相手のパンチがめり込み、知夏も夕菜も同時にふらふらと下がった。知夏は後ろにあったロープに体を預け、後退が止まった。夕菜は自力で踏ん張り、後退を止めた。
そこでゴングが鳴り、弟9Rが終った。
知夏がロープにもたれたまま動かないでいたので太郎は急いで知夏の元へ駆け寄り体を抱えて青コーナーに戻った。
椅子に知夏を座らせた。
力無く両腕をだらりと下げ、コーナーポストに体を預けて、顎を上げている知夏の姿に相当なダメージを感じつつも知夏の顔を見ると太郎は表情を青ざめた。
夕菜のパンチを浴び続けて原型が分からないほどに腫れていた知夏の顔はついに瞳が両方とも閉じてしまっていた。
「まだ・・やれる・・」
力無い声で知夏は呟いた。
「知夏さん・・・」
「これ以上は無理よ。ここまできて残念だけど、仕方ないわ。棄権しましょう」
「待って!あたしはまだ戦えるよ!」
「分かって知夏ちゃん、相手が見えなくては戦えないでしょう」
やりきれなかった。劣勢だった展開を五分にまで持ちこむことが出来たのにここで引き下がるしかないなんて。セコンドをしている太郎でさえ、悔しくて溜まらないのに試合をしている当人である知夏の悔しさは計り知れないだろう。
その時、太郎の頭の中で電流が走るかのように一つの打開策が浮かんだ。
しかし──────そんなことをしたら知夏さんの顔に一生残る傷が付いてしまうかもしれない。
「まだ体は動くんだよ。あたしは戦いたいんだ・・」
知夏は泣きすがるように美穂子に訴えかける。両目が見えなくなってもまだ戦うことを望む知夏の姿に太郎は息を呑んだ。
「知夏さん、どんなことになっても戦いますか?」
「あたしは戦う」
迷いの無い声だった。その声を聞いて太郎は覚悟を決めた。
「まだ戦える方法が一つあります。瞼を切るんです。溜まっている血が抜かれるからそれで視界は開けます」
知夏の顔が硬直した。彼女の喉からつばを飲むを音が聞こえた。
「何言ってるの、太郎君!そんなことしたら顔に大きな傷が残るかもしれないじゃない」
美穂子の言葉を無視し、太郎は知夏の顔を見続ける。
知夏は力強い眼差しで太郎の顔を見つめ、首を縦に振った。
「やって、太郎」
はっきりとした声だった。彼女の決意が充分なくらい伝わってくるほどに。
「もし、瞼の傷が一生残ることになっても責任は僕が取りますから」
太郎は知夏の瞼にハサミの先端を当てた。柔らかい感触に一瞬、ためらいが生じたが、右手に力を入れ直し、ハサミを横に動かした。瞼から血が流れていき、視界は開けた。タオルで傷口を拭いた後、アドレナリン軟膏を塗り血をすぐに止める。
「よしっ。これでまだ闘える」
知夏は椅子から立ち上がる。その表情は不思議なくらい晴れやかだった。そして、最後のRを戦いに出た。
知夏の右ストレートが夕菜の顔面に当たる。そこから左のボディを鳩尾にめり込ませ、息を詰まらせたかのような表情にさせた。
夕菜もすぐに左右のパンチが知夏の顔面に往復し、反撃に出る。
どちらも譲らない。最後の2分間にありったけの力をぶつけていく。
観客の大声援で場内は熱狂が渦巻いていた。その中で、二人はガードを忘れ、お互いの体にパンチをぶち込む。
どちらがより強いのか。もっと分かりやすいやり方でその答えを導き出そうとしている。そんな二人の姿に観客も限界まで声を出して応援していた。
残りは1分を切る。それからすぐだった。戦慄のシーンが起こったのは─────。
グワシャァァッ!!
この試合で最も強烈に響き渡った打撃音が太郎の耳に届いた。リング上にある光景に太郎は表情を失った。
観客は歓声を忘れていた。お互いのパンチが交差され、倍以上の威力を生み出したクロスカウンターが場内の空気を支配している。
その一撃に知夏の顔は潰されていた。
第11話
右腕と左腕が交差され作り出された美と醜のコントラストがそこにはあった。
夕菜の右ストレートは知夏の顔面にめり込まれ、知夏の左ストレートは虚しく夕菜の頭から右に反れていた。
夕菜のパンチだけで無く自分が放ったパンチの威力までもが上乗せさせられたとてつもない衝撃がぶち込まれており、知夏の顔面は醜く歪んでいる。
「ぶぼぉぉっ!!」
知夏の口からマウスピースが吐き出された。静けさに包まれた場内の中、ボトッとマウスピースが音を発ててキャンバスに落ちた。
マウスピースを吐き終えたその直後に知夏の顔面が夕菜のグローブから離れていく。スローモーションで見ているかのように知夏の体はゆらりと反転し、顔からキャンバスに沈んでいった。キャンバスに落ちた反動で知夏の両足がキャンバスから浮き上がった。
冷たいキャンバスに知夏は両腕を下に伸ばし、気を付けのような格好で寝ている。弛緩して空いている口の端からは血がキャンバスへと垂れ落ちていた。そして、腫れ上がり切った顔面は表情を失っている。
凄惨な姿だった。
レフェリーが知夏の元に近寄り、カウントが数えられていく。それまでに少し間があった。壮絶なダウンシーンにレフェリーも僅かながら固まっていたからだ。
「ワン、ツー」
カウントが進む。
知夏が立てるわけが無い。これ以上倒れている姿を客に晒し、カウントを聞くのは知夏にとって残酷なだけであり、そして、何より太郎自身が耐えられなかった。
太郎はタオルを右手に握った。
その瞬間、知夏の体が反応し、手が動いた。そこから、知夏は体を持ち上げようと必死に足掻く。
それだけでも奇跡だといえた。太郎は体を震わせ、そして、それ以上の奇跡が起こることを願った。
「シックス、セブン」
知夏は両足でキャンバスに立っている。あとは、丸まった背中をぴんと伸ばし、だらりと落ちている両腕でファイティングポーズを構えるだけだ。
あと少し。
「ナイン」
その時、知夏の体が力が抜け落ちたかのように後ろへと崩れ落ちた。再び、キャンバスに沈んでいく。
「テン」
レフェリーがカウントを数え終えると、ゴングの音が大きく三度鳴らされ、試合は終りを告げた。太郎はリングの中へ駆け足で向かった。
「知夏さん!!」
知夏は目をゆっくりとこちらに向けた。意識はあるので太郎は少し安堵の気持ちになった。
「太郎・・」
沈み切った声だった。
「また負けちゃったよ・・」
「いいんです、知夏さんはよくやりました」
「そっかっ・・」
知夏の声がリング上に寂しく響いた。
太郎は涙をこらえた。再び、知夏の顔に目を向け、それは知夏も同じだったことに太郎は気付いた。
最終話
「いや、ホントに良い試合だったな、木場ちゃん」
「今日の死闘に勝てたんだから国内で夕菜ちゃんと戦える選手はもういないでしょうね」
通路を歩いている最中も会長とセコンドの木場は興奮して話をしていた。
「着替えてきます」
夕菜は控え室に入り、服を脱いだ。
─────あれってやっぱり・・・。
着替えを済まし、扉を開けた。
会長達は着替えからまだ戻ってきていない。
夕菜は走って会場に戻った。客は1人もいなくなり、スタッフ数名がリングを組み外していた。
肩を下げ、身を翻すと、目の前には光平が立っていた。
「やっぱり来てたんだ・・」
「ああ・・」
光平は頭を俯き加減に傾けて答えた。
「本当は毎回観に来てたんだ」
「そうだったんだ・・・」
それからまた、夕菜は光平の顔を見て言った。
「ダウンした時に光平の姿、見ることが出来なかったらあたし立つことが出来てなかった」
「隠して悪かった。なんか恥ずかしかったんだ・・」
光平は頭を掻き、続けた。
「夕菜、防衛おめでとうなっ」
「ありがとう光平、あっ・あたし・」
夕菜の瞳から涙が零れ落ちた。夕菜の体が光平の両腕でそっと包みまれた。駅で美穂子と理子が降り、電車の中で太郎と知夏は二人きりになった。椅子に横並びに座っていたが、二人とも黙っていた。
何て声をかけて良いのか分からず、太郎にはこの時間が重く感じられた。
やっぱり知夏さん、ショックがでかいんだろうな・・・・。
目的の駅に着き、太郎と知夏は駅を降りた。美穂子の言いつけで太郎は知夏を家まで送ることになったのだ。太郎も知夏のことが心配だったので美穂子が言わなくても家まで送ろうとは思ってはいたのだけれど。
駅を出るとすぐに小さな道に入り、人は太郎と知夏以外歩いておらずとても静かだった。
引退したら知夏さんとこうして二人きりで歩くこともなくなるのだろうか・・・。
あんなに言い勝負出来たのだから引退なんてまだ早い。知夏さんはまだまだやれる。
説得したい。
でも、知夏が考え抜いて出した結論に口を挟んでいいものか・・・。
「引退なんかしないよ」
不意に彼女はぽつりと言った。
「へっ?」
知夏の思わぬ言葉に太郎の口から間抜けに声が漏れた。
「気合入れ過ぎて空回りするなんてまだまだじゃない。心は未熟ってことだよ。それなのに引退なんてできないよ」
知夏の言葉に太郎は安堵に包まれた。
「良かった。そうですよ、まだ引退なんて早過ぎる」
「だいたい負けたまま引退なんか出来るかってのよ」
いつもの強気な台詞が知夏の口から出て、安心した。
しかし、安心しおえたころ、ある気持ちも湧いてきた。
最後まで振り回されっぱなしだな〜と(って引退しないんだからこれからもこれが続くんだよな)
太郎は苦笑した。
でも・・
────今回だけは振り回されても良いか。
「だったら負けたら引退なんて言わなければよかったのに」
「そんなの知らないよ」
彼女は悪びれた素振りを全く見せず言い放った。
「勝手だなぁ」
「勝手だよっ。引退なんて簡単にしてたまるか。まぁ、いつ引退しても、その後は安泰なんだけどね。誰かさんがこの傷の責任取ってくれるって言ってくれたからさ〜」
知夏はにやけ、視線を太郎に向けた。
体がみるみる内にかっと熱くなり、視線を反らした。
あんな恥ずかしい台詞を試合の最中に言ったことが信じられない。
太郎は知夏の顔をちらりと覗いた。もう寂しそうな目に戻っていた。
今、こんなことをしてもいいのかという思いがあった。でも、必要なのだと思うことにした。
自分の唇を知夏の唇にそっと合わせた。
知夏の唇は腫れていたが、そんなことに関係無く、気分は高揚していくのだった。
唇を離すと知夏は
「不意打ちだよ、太郎・・」
と頬を赤らめて言った。おわり
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