鉄砲百合
前編シャドーボクシング6R3セットを終え、太郎は疲れ切った体を椅子にかけた。その隣で理子が雑誌を見ている。
「理子ちゃん何見てるの?」
「今週号のMAXです。知夏さんの次の対戦相手が載っているんですよぉ」
理子はそう答えて見ていたページを開いたまま本を太郎に渡した。MAXとはスポーツ全般を扱った雑誌のことである。
開かれたページを目にすると一人の女性がファイティングポーズを取って映っていた。
この娘可愛い。
アイドルと間違えてしまいそうな整った顔だちに太郎は見惚れてしまった。透き通るような白い肌と可愛らしい顔はとてもボクサーに見えない。スポーツブラを着用し、赤いボクシンググローブをはめてファイティングポーズを取っているのだが強さや迫力ではなく、まず初めに可愛らしさが伝わってくる。このボクシングが似つかわしくない可憐な娘が知夏なんかと戦うなんて可哀相に思え同情の気持ちが湧いてきた。
それにしても可愛い。
改めて魅入った太郎だが、ぽこんと頭を叩かれ顔をしかめて、上げた。知夏が大きな目を吊り上げて、太郎の顔を睨み付けている。
「なに間抜けな顔して見惚れてんだよ」
「見惚れてなんかいませんよ」
「いいや、見惚れてたね。鼻の下伸ばしてさ」
知夏の好戦的な気持ちが前面に出た顔を見て、太郎はそれ以上反論することを止めた。口下手な自分が屁理屈と負けん気の強い知夏に言い争いで勝てるわけがないことを太郎は充分、承知していた。
「軟弱な男はやだね〜」
拍子抜けした顔で知夏はそう言い残して去った。知夏に言いたい放題言われるのは日常茶飯事でありそのたびに口下手な太郎は言い返すことも出来ず、不満を貯めこんでいた。
太郎が間垣ボクシングジムにやってきたのは九ヶ月前である。それまで他のボクシングジムに所属し、六回戦のプロボクサーだったが、ギャンブル好きだった会長は大きな借金を残して逃げてしまった。ジムが潰れてしまったため、ジムを代えざるを得なくなった太郎は仕事場から比較的近い間垣ボクシングジムに決めた。
入門初日午後四時頃と比較的早い時間にジムに顔を出すと案の定ジムの中はがらんとしていた。その中で一人だけサンドバッグを叩き続け激しい音を叩き出している者が一人いた。太郎は一瞬きょとんとした。女性だったからだ。しかも結構可愛い。太郎が昔いたボクシングジムにはその方が今時珍しいことかもしれなかったが、女性は一人もいなかった。
女性はこちらに気付くとつかつかと近付いてきた。目の前に立ち、身長が160センチに満たないだろう彼女は170センチある太郎の顔を見上げるのだが、くりっとした大きな目と堂々とした表情に迫力を感じ、太郎は気後れした。
女性は太郎の体をぺたぺたと触り始めた。わけの分からない顔をしている太郎にその女は再び顔を上げ言った。
「ぼけっとした顔に似合わず良い体格してるんだな」
この言葉に太郎はかちんときた。
初対面の人間に面と向かってぼけっとした顔って言うなんてどんな神経してるんだ。
だが、今日は入門初日であり、しかも相手は女性であることから、太郎は気を鎮めることに務めた。
「一応六回戦なんです」
「へぇ、プロボクサーなんだ。全然そうは見えないけどな」
その言葉に太郎は再び頭にきた。
「で、何、入門すんの?」
「はい」
憮然とした表情で太郎は答えた。
「今誰もいないから適当に何か練習しててよ。あっ更衣室はあそこだから」
女はジムの中の奥を指差した。太郎は練習着に着替えて、準備運動を済ませたあと、まずシャドーボクシングから始めた。
女は太郎をじっと見つめていた。
やりにくいなと思いながらシャドーを続けていると、
「良い動きじゃない。よしあたしとスパーリングやろう。ちょうど暇してたところだし」
思いもしなかった女の発言に太郎は驚き、戸惑いの声を出した。
「あなた・・とですか・・」
「他に誰がいるんだよ。先輩の言うことは聞くもんだ。ほらっ」
と女は言って太郎に赤いボクシンググローブを投げ渡した。
強引にスパーリングをさせられることになり太郎は困惑したままリングに上がった。
「女相手だからって手加減しないでよ」
男の実力を舐めているのかと太郎は思った。あまり気乗りしないが、少しばかし痛い目に会わせた方が良いかもしれない。
「よしっ、いつでもいいよ」
太郎は女に向かって左ジャブを二発出した。痛い目に会わせるといっても怪我させるわけにはいかないので六割の力に抑えて打った。
だけど、女は左ジャブを機敏な動きで二発ともかわすと太郎のボディにパンチをめり込ませた。
「ぐはっ」
信じ難い苦しみが腹に伝わり、声が漏れた。
「ほらっ、だから言ったんだよ」
何でこんな力があるんだ・・・。
動揺している太郎に女がパンチを叩きこんでくる。ガードの上から叩き込まれる知夏のパンチはそれでも体にダメージが伝わってくる。
これが女のパンチか?
このままじゃやられる。
太郎は思いっきり右のフックを女の顔面に叩き込んだ。女はまともにその攻撃を受け、二、三歩後ろによろめいた。
しまった・・・・。
「大丈夫ですか?」
「そうだよ、その調子でこないと」
女は嬉しそうに笑っていた。
えっ?
思いもしない女の反応に太郎は唖然とした。
ドアの開く音がした。太郎は顔を向けるとまたも女性の姿があった。少し歳がいき、眼鏡をかけ三十前後に見える。
「これは?」
眼鏡をかけた女性が困惑気味の声を出した。
「入門したいんだって。プロの六回戦だっていうから入門テストやってたんだよ」
入門テスト?話と違うじゃないか。
「もうっ知夏ちゃんたら、勝手にそんなことしてダメじゃない」
知夏の行動をたしなめたが、眼鏡をかけた女性の声は柔らかかった。
「大丈夫こいつ強いからさ。あっスパーリングもういいよ」
知夏という名前らしい我侭な女に振りまわされ続け太郎は調子が狂ったままリングを降りた。
「知夏ちゃん強かったでしょう」
眼鏡の女性は太郎の側に寄り、穏やかな声で話しかけてきた。
「ええっびっくりしました」
「彼女、女子ボクシングの日本フライ級チャンピオンなのよ」
どうりで強いはずだ。しかし、チャンピオンとはいえ、女性があそこまで強いパンチを打つなんて女子ボクシングのレベルは思っていた以上に高いんだな。
その後、ジムで練習を続けた太郎だが、まず眼鏡をかけた女性美穂子が現在このジムの会長であることを知って驚いた。本来なら美穂子の夫である間垣信吾が会長なのだが、アメリカにトレーナーの修行にいったまま一年間帰ってきていないらしく間垣信吾が留守にしている間、美穂子が代理として会長を努めているのだ。間垣ボクシングジムは小さなボクシングジムでプロボクサーは四人。そのうち半数が女性だと知って太郎は再び驚かされた。男は二人とも四回戦で位としては日本チャンピオンの知夏が断然一番上である。そのためか女性達がとても元気で、特に知夏は大きな顔をしているのだ。「気安く人の頭叩いて。何であんながさつなのかな〜」
太郎はぼやいた。
「今回ばかりは仕方ないかなぁ。気が立っちゃうのもよく分かるし」
理子は思わせ振りな口調で言った。
「えっ?」
「あっそっか、太郎さんは知らないんだ。知夏さんはその写真の人、白石夕菜に一度敗れてるんですよ」
「嘘っ」
もう一度雑誌に目をやった。こんな可愛い娘が知夏を倒す姿は想像も出来なかった。知夏も充分可愛い顔をしてはいるが、知夏と白石夕菜とでは可愛さの質が違う。夕菜がアイドルのような可憐な可愛さなら知夏はスポーツの似合う活発な雰囲気を持った可愛さである。しかも、知夏は争いごとが大好きな血気盛んな性格の持ち主であり、知夏の本性を知れば知るほどこの人はボクシングに向いているという思いを強めていた。
「アマチュアボクシングの決勝戦で戦ったんだけど、知夏さん完敗だったなぁ。三度ダウンさせられて最後はサンドバッグにされてレフェリーストップ。ヘッドギア付けてたのに顔が腫れ上がってたし」
知夏の腫れ上がった顔を想像し、今度は気の毒に思った。だけど、知夏がそんな姿になるなんてどうもぴんとこない。
「そのあと、知夏さんはすぐにプロデビューしたんだけど、白石夕菜は知夏さんから二年遅れてプロのリングに上がったんです。その間何してたのかはよく分からないんですけど」
「戦績はどれくらいなの?」
「5戦5勝4KO」
「まだ5戦しか戦っていないのにタイトルマッチって早過ぎじゃない?」
「話題作りなんじゃないですか。最近、女子ボクシングぱっとしてないし」
「だったら一度勝ってるとはいえ知夏さんの相手になりそうにないね」
「当たり前だ。たった5戦戦った程度でタイトル取れるほどボクシングは甘くないよ」
知夏がサンドバッグを叩きながら言った。
聞こえてたのか。
太郎は顔をしかめた。全部話を聞かれていたなんて何言われるのかたまったものではない。
だけど、それきり知夏は何も言わずに黙々とサンドバッグを叩き続けた。
「知夏さんが唯一負けた試合って日本タイトルマッチ初挑戦のやつなんですよ。知夏さんも話題先行で僅か7戦目で挑戦権をもらえたんだけど、良いところがまったくないまま知夏さんKO負けされちゃった。だから日本タイトルを取ることの難しさをよく分かってるんですよね」
理子は小声で言った。
知夏というと天才的な強さを持っているイメージが強かったが、彼女もいろいろと挫折を味わってきたことを太郎は初めて知り、不思議な感覚を覚えた。
ベッドの上で足を組みながら寝転び天井を見つめていた。
ぐ〜とお腹が鳴り、知夏はお腹をさすった。空腹である。試合まであと一週間、減量が一番辛い時期に入っている。リミットまではあと、800グラムと順調に進んではいるが、ここで気を緩ませるわけにはいかない。
減量にくわえ、練習の疲れもピークに達し、何もする気が起きなかった。
知夏は立ち上がり押入れからベルトを出して絨毯の上に置き、あぐらを掻いて眺めた。
知夏がベルトを掴むまでにジムで4年の歳月が流れた。知夏は部活を辞めてからすっかりなまった体を動かしたかったため、ボクシングジムに通うようになった。もちろん、プロのことなど考えておらずボクササイズとしてである。
ジムに通い始めてから1年が経ち、美穂子からアマチュアボクシング大会に出ないかと薦められた。気乗りしなかった知夏は美穂子の熱のある誘いに折れた形で参加することになった。どの程度のレベルなのか検討も付かないまま試合に出たが、簡単に決勝まで進むことが出来て知夏は拍子抜けした。
慢心の気持ちが生まれつつあった知夏だが、決勝では白石夕菜の前に完膚なきまでに叩きのめされ屈辱を味わうことになった。
夕菜に勝ちたい。体を動かすためにボクシングを続けていた知夏に始めて目標が出来た。「白石夕菜に雪辱を果たすならプロのリングに上がるべきだと思うわ。アマチュアボクシングで優勝した人はだいたいプロボクサーになるのよ」美穂子の言葉に知夏も負けたまま引き下がるわけにはいかないと思いプロボクサーになることを決めた。
知夏はデビューからKOで勝ち続けた。だが、肝心の夕菜は一向にプロのリングに上がってこない。どういうことだよと不満を感じながらも僅か七戦目で日本タイトルマッチへの挑戦権を手に入れてしまった。知夏は夕菜のことを忘れ、タイトルマッチにいつも以上のやる気を見せた。
だが、その試合知夏は何も出来ないままチャンピオンに完敗した。プロのリングで喫した敗北はアマチュアボクシングで負けることよりも比べ物にならないほどに悔しい思いを知夏に味わわせ、この敗北以降、知夏は真剣にボクシングに取り組むようになった。その頃から夕菜の存在は知夏の中から完全に消えていた。
復帰戦を3RKOで勝った知夏はその後も3連勝し再びタイトルマッチの権利を得た。チャンピオンは知夏を圧倒的な強さでリングに葬り去った四条瞳である。彼女は知夏を倒した後もタイトルの防衛に成功しベルトを守り続けていた。
知夏と四条瞳のタイトルマッチは序盤から互角の戦いが続いた。どちらがポイントで上回っているのか分からないまま試合は最終Rに入り、知夏はダウンを奪いKO勝ちでタイトルを奪取することが出来た。
女子ボクシングで一つの成功を掴んだ知夏だが、それからさほど日が経たずに、夕菜がプロのリングに上がる情報が届いた。知夏は何を今更と気に留めなかったが、夕菜は圧倒的な強さで勝ち続け、たった1年でタイトルマッチ挑戦の権利を獲得し知夏の前に立ちはばかることになった。
今、知夏は視野を世界に向けている。まだ5戦しか戦っていないボクサーに興味など覚えはしない。夕菜とのことは完全に過去のことだ。それに今、戦ったとしても相手になるわけが無い。知夏はチャンピオンの地位にまで上り詰め今や国内敵無しと言われるまでに成長したのである。
ここに至るまでに知夏は14人の相手に勝ち、そのうち11人をキャンバスに沈めてきた。体を動かすためから相手を倒すため。夕菜に試合で負けてから知夏はボクシングに対するスタンスが変わった。
4本のロープが張られたリングの上で両拳をもって倒すか倒されるか、そんな異常な世界。ふとそう思うことがある。特に自分がKOし担架に乗せられてリングを降りた相手の姿を見てその思いは強まった。だけど、知夏はボクサーを止めようと思ったことは一度も無かった。リングの上以外であたしには何も出来るものはない。それに知夏は分かっていた。危険を伴う試合だからこそ観る方もそれだけ真剣であり、試合に勝ったものに対し尊びの拍手が送られるのだ。これは相手を倒し続けやっと手に入れたベルトだ。このベルトだけは絶対に守らなければならない。このベルトは今まで知夏が汗水を流し続け、殺伐とした世界で成功を掴んだことの証なのだ。
知夏は頬を緩ませて、ベルトを見続けた。
後編太郎はジムに張られてあるポスターを眺めた。
ファイティングポーズを構えた知夏と夕菜が別々の写真で横に並べられ、その真ん中にVSの文字が置かれてある。
自信に満ちた顔をした知夏と夕菜。
あんたなんかには負けるわけないといった思いが二人の表情からは伺える。
凝った構図がされているというわけではないが、二人が持つスター性のため、シンプルながら試合を盛り上がらせるには充分である。
知夏と夕菜の試合まであと三日である。試合をする当人である知夏はというと殺気だって練習しているというわけではなく、試合を目前に控えているとは思えないほどリラックスした態度を見せていた。
「あ〜疲れた、疲れた」
知夏が肩をコキコキと鳴らしながら近付いてきた。
「太郎、肩揉んでくれない」
「知夏さん、僕は今、練習しているんですよ」
「じゃぁ休憩取った時でいいからさっ」
「それでもやです」
「ケチな男は嫌われるぞ」
「別に知夏さんに嫌われても構いませんっ」
知夏が握り拳を作り右手を上げた。太郎は頭に両腕を持っていたが、その隙間を縫って
げんこつが太郎の頭の上に落とされた。太郎は痛みで頭を抱える。
「あ〜せいせいしたっ」
と言って知夏は去って行った。
「いくら試合前で気が立ってるからってあれはないじゃないかっ」
知夏に聞こえないよう声の大きさに気を使い愚痴った。
「太郎さん、それだけじゃないですよ」
隣で理子がにやにやと笑みを浮かべていた。
「えっ?」
「もう鈍いな〜、知夏さんは太郎さんのことが好きだからですよぉ」
「りっ理子ちゃん、今の何処を見てそんなこと言えるの?」
「ほらっ思っていることと行動って必ずしも一致するわけじゃないじゃないですか。特に知夏さんはボクシング馬鹿だから男慣れしてないんですよ。だから思っていることと逆の行動に出ちゃうんです」
理子は得意げに喋る。
「どうなんですか太郎さんは〜?」
理子の顔はさらににやにや度が増していた。
「からかわないでよ理子ちゃん」
太郎は理子の元から離れた。
冗談じゃない。彼女と付き合うだって?振り回されっぱなしになって体がいくつあってももたない。それに、がさつな女性は好きじゃない。控え室で太郎は椅子に座っている知夏を見つめていた。急に顔を上げた知夏と目が合い、太郎は反射的に目を反らした。理子に知夏のことでおかしなことを言われて以来、どうも知夏を意識してしまう。
「あたしの顔に何かついているのか?」
「何もないですよ。気にしないで試合に集中してください」
「変なやつ・・」
こんな調子じゃセコンドの仕事がままならない。余計なことは考えないようにしないと。
ドアが開き、試合が始まることを告げられた。
「準備は良い?」
美穂子が知夏の目を見る。
「万端」
知夏が立ち上がり、美穂子の後に続いた。
太郎は入場の曲に合わせて花道を歩き、リングに向かった。
知夏、美穂子がリングに上がり続いて太郎もリングの中に入った。知夏、夕菜に割れんばかりの声援が送られていた。声援の量としては僅かに夕菜が勝っていた。いつもなら知夏の方が多いというのに、知夏の実力も夕菜の美の前に敵わないようだ。そのためか知夏はやや不機嫌な表情を見せていた。
太郎は青コーナーに顔を向けた。この目で直に見た夕菜の顔は写真よりもさらに綺麗に見えた。だが、厳しい視線で知夏の顔を見つめている。場内の熱気を帯び、殺伐とした雰囲気がリングに漂っているが、不思議なことに それが逆に夕菜の美しさを這えさせているように思えた。
二人のリングコールが終り、リング中央でレフェリーによるルール確認が行なわれた。二人は対峙し、お互いの顔を見ている。知夏の方が身長で四、五センチ高い。
知夏が赤コーナーに戻り、美穂子が指示を出した。太郎は知夏にマウスピースを手渡し、知夏は口にはめた。
カーン
ゴングが鳴り知夏はコーナーを出て行った。一直線に夕菜の元へ向かっていく。夕菜も知夏の元へ向かって来ていた。夕菜のビデオを見たことがあるが、知夏と同じ典型的なファイターだった。大方の予想通り、二人は足を止め、打ち合いに出る。
序盤から息の詰まる接近戦へと試合はなっていった。至近距離であるため二人とも全部のパンチを避けるのは厳しく、防御よりも攻撃重視の展開が繰り広げられていく。知夏は元々、ガードが得意ではなく、得意のパンチ力を活かすため、常に相手に密着し、技術を無にして、パンチの打ち合いへともっていくのだ。だから今、試合は知夏のペースなはずである。
だが、夕菜が知夏に叩きつけるパンチの迫力、音を聞く限りはとても知夏のペースになっているとは思えなかった。可愛らしい顔とは裏腹にラフファイトに相当なれている。そして、パンチ力でも知夏に退けを取っていない。
途中から二人はガードを忘れ、全力を込めたパンチをひたすらお互いの顔面にぶち込んでいく。男顔負けのハードパンチを顔面に浴びるたび、二人は顔を醜く歪ませていく。唾液や、血が平気で口から吹き出ていく。それでも二人はパンチを打ち続ける。その様はボクシングではなく殴り合いだった。性格の通りラフな戦いを好む知夏はともかく可憐なイメージを持つ夕菜までもが技術を無視した戦いを挑んできたことに太郎はすっかり面食らっていた。
ゴングが鳴り、レフェリーが二人の間に割って入り、二人を遠ざけた。知夏の顔からも夕菜の顔からも鼻血が流れ落ちていた。息を切らしてお互いが血走った目で睨み合う。2人はほぼ同時に背を向けた。
コーナーに戻った知夏は
「あ〜しんどいわ〜」
と言ってふうっと息を吐いた。
「知夏さん、大丈夫ですか?」
「当たり前だろ、余計な心配なんかしなくていいんだよ」
と言ってぽこんと太郎の頭を叩いた。
心配するのはセコンドとして当然じゃないかと太郎は眉間に皺を寄せ知夏を睨んだ。知夏は気にも止めずに
「様子見は御終いだ。見てな、次のR、倒しにいくからさ」
と言ってマウスピースを口にはめ、立ち上がった。
思わぬ苦戦を強いられても知夏の態度はいつも通り強気なままで、悔しいけれど、頼もしく感じられた。
2Rもゴングが鳴ると同時に知夏と夕菜は飛び出して接近戦での打ち合いを始めた。グシャァッ、グシャァッと強烈な音が飛び交いお互いの顔を腫らしていく。止血して止めた鼻血が再び知夏の顔から流れていた。それは夕菜の顔も同様だった。ぽたっぽたっと血が垂れ落ち、赤い斑点がリングに出来ていく。
打撃戦の激しさはさらに増していっているように思えた。それは二人の顔から吹き出ていく霧状の血の量が多くなって見えるからかもしれなかった。知夏も夕菜一歩も引かずパンチをぶつけあう壮絶な死闘に場内は異様な静けさに包まれていた。静かな空間の中で二人の顔から生じる打撃の音だけが響き渡る。
グワシャァァッ!!
絶えず打撃音が鳴り響く中、一層激しい音が響き渡った。知夏の顔面には夕菜の右拳が夕菜の顔面には知夏の左拳がめり込んでいる。
クロスカウンターだ。
知夏のたこのように醜く歪んでいた口からマウスピースがぽろっと落ちていった。それとほぼ同時に夕菜の細く尖った口からもマウスピースが零れ落ちた。
知夏も夕菜もひざががくりと折れ、ぷるぷる体が震えていた。知夏は歯を噛み締め、こらえようと、必死だ。それは夕菜も同じことである。
ほぼ同時に知夏と夕菜は次の攻撃へ出た。またも相討ちになるのかと思い、太郎は強く歯を噛み締めた。だけど────
グワシャァァッ!!
鈍い音が響き渡り、知夏の顔面だけが醜く歪んでいた。夕菜の右ストレートは渾身といえるくらい見事に知夏の顔面に深くめり込まれ、知夏の顔面を尋常じゃない形に歪ませていた。知夏がキャンバスに落ちていく。口を開け、目が大きく見開かれている知夏の表情は苦痛で引き攣っていた。口からは血がキャンバスへ垂れ落ちていく。
太郎が顔を上げると、夕菜は打ち合いに勝ったことに浸っているようなぞっとする笑みを浮かべていた。
知夏が体を震わせながら立ち上がろうともがく。今までの知夏の試合からは考えられない姿だった。
知夏はカウント8で立ち上がることが出来たが、膝ががくがく揺れている。無理もない、夕菜のパンチは立ち上がってきたのが信じられないくらい強烈な一撃だった。
それでも試合が再開されると知夏は前へと出た。夕菜は知夏の顔面を二発、三発と的確に叩き、彼女の前進を止める。そして、夕菜の右ストレートが知夏の顎を鮮やかに打ち抜いた。
グシャァッ!!
知夏の首がぐにゃりと曲がり、口から唾液が激しく吹き出た。知夏が二歩、三歩と後退し、なんとか止まった。
まるでボクシングのお手本を見せているかのような鮮やかなコンビネーションだった。
夕菜が一気に前に出た。知夏の目は焦点が定まっていない。
運良くここでゴングが鳴り夕菜が足を止めた。
知夏はよれよれとした動きでコーナーに戻り、力の加減が出来ないためかどすんと椅子に腰を下ろした。頭を斜めに下げて荒い呼吸を吐いている知夏を目にし、やはり相当ダメージがきていることを太郎は感じた。知夏の口の前に掌を差し出し、知夏は頭を上げ、弱々しい目つきで太郎を見た。その表情に太郎は一瞬どきっとした。次の瞬間には知夏の表情は威圧感のあるいつものものに戻り、太郎を睨みつけた。何見ているんだと文句をつけるかのように。知夏は口からマウスピースを取り出し太郎に渡した。生暖かい感触が両手に伝わりぬるりとした液体が肌に触れている。透明だけでなく赤も混ざっている。改めて知夏のダメージを感じた。
「太郎、足揉んで」
知夏の言葉はいつもの偉そうな口調だった。だけど、頭にくることはなく、どちらかというといつも通りの知夏の態度に嬉しく、太郎は必死になって知夏の足を揉んだ。
勝ってくれ。
そう願ったあと、知夏のセコンドに付き、そんなことを思ったのは始めてであることに気付き、太郎は驚いた。彼女の圧倒的な強さに今までそう思う必要はなかったのだ。あまりの強さにむしろ試合の途中から相手に同情してしまったことすらある。
だけど、今、彼女はごく普通の女のこのようにとても弱々しい存在に太郎には見えた。だから、心の底から応援し、彼女の戦いを近くで見守りたいと思うのだ。
ゴングが鳴り、第3Rが始まった。知夏は再び夕菜に接近戦での打ち合いを挑んだ。まだあたしは打ち合いで夕菜に屈したわけでない。おそらく彼女はそう思っているだろうし、知夏が夕菜に負けるところなんて太郎も見たくなかった。
だけど、現実は残酷だった。知夏が夕菜と互角に打ち合えたのは僅か20秒だけだった。夕菜の右の拳が知夏のお腹に深々とめり込まれると知夏は顔を硬直させ、口の中で溜まっていた唾液が一気に噴き出た。目が大きく開かれ口も苦しそうに開かれ苦悶に歪んでいた知夏の顔面は夕菜の右アッパーでさらに醜く歪んだ。潰された鼻から血が噴き出され、霧状に舞った。
夕菜は人を殺しかねない勢いで知夏の体を殴りつけていく。ロープに詰まり夕菜のパンチを浴び続けた知夏の体はもはや血肉の詰まったサンドバッグでしなかった。
夕菜が繰り出すパンチの連打の前に知夏は壊れた人形のように体をがくがくと揺らしていく。チャンピオンである強い知夏はもはやそこにはいない。強い知夏のイメージはもう壊されてしまっている。挑戦者の危険な拳によって。
知夏が表情を失い、開いた口から唾液を垂れ流す魂の抜け落ちた姿を夕菜の前に晒すと、夕菜は左腕を腰ごと後ろに回して引き、溜めた力を一気に解放し、知夏の右頬に爆発させた。
ドボォォォッ!!
夕菜の強烈な左フックが炸裂し、知夏の両腕は下がり、前へと体が崩れ落ちていく。しかし、夕菜の右拳は知夏が前へ倒れることを許さなかった。
グワシャァッ!!
血が噴き上がり、マウスピースが高々と舞っていく。
夕菜のアッパーカットが知夏の顎を砕き、前へ崩れ落ちていた知夏の体を再び吹き飛ばした。体がぐにゃりと反転し、顔からキャンバスに沈んだ。
頬をキャンバスに付け、口からは血がキャンバスに滴り落ちていき、あっという間に赤い水溜りが出来た。知夏の顔の横には血に染まったマウスピースが落ちている。
「知夏さん立つんだ!」
太郎は大声で叫んだ。だけど彼女は全く何の反応も見せずにその目は人形のように何も写してなかった。
レフェリーはカウントを取らずに試合を止めた。試合はまだ3Rなのにもう終わってしまった・・・・。
知夏が負けるはずがない。知夏が試合に負けたなんて認めたくなかった。
太郎はリングの中に入り、知夏の元へ駆け寄った。
「触っちゃダメ!医者が来るまで触っちゃダメよ」
美穂子の言葉に、太郎は、しゃがみこんだまま知夏を見るしかなかった。
胸が苦しかった。
知夏はうつ伏せの体勢で両腕がばんざいの格好になり派手な姿でキャンバスに倒れている。目の焦点は定まっておらず開いた口の端からは唾液が垂れている。それはあまりに儚げで憐れな姿だ。今までにもKOで失神させされたボクサーの姿を間近で見たことはある。だけど、今みたいに胸が苦しくなることはなかった。それは彼女がボクサーとしても女性としても屈辱的な姿にさせられてしまっているからに違いないのだろう。
早く目を覚まして欲しい。
ただひたすらにそのことだけを太郎は願い、知夏の悲惨な顔を見続けた。
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