その日も薫と一緒に下校した。

 「英三、おじさんは次誰と闘うの?」

 「なんだよ急に」

 「うちのお父さんは引退したでしょ。闘う目的がないとおじさんきっと寂しいよ」

 「そうだな〜親父もそろそろ引退かもな〜」

 「引退っておじさん、日本チャンピオンだよ」

 薫が心配そうな顔を見せる。

 「まあ、そうなんだけど、家では親父、腰とかきつそうにしてるんだよ。外じゃそんな素振り見せないけどさ〜」

 「世界チャンピオンは目指さないのかな?」

 「親父が?」

 英三は後頭部に両方の掌を持っていく。

 「親父も年だからな〜厳しいんじゃね?」

 薫の足が遅れたのでどうしたんだと英三が振り向く。

薫は睨んでいる。

 しまったと英三は思った。

 「なんでそんな夢のないこと英三は言うんだよ。まだ31。いけるよおじさんは。だって・・」

 薫が唇に力を込めてぐすっとしゃくる。

「うちのお父さん倒したんだから。お父さんの思いを引き継いだんだから」

 薫の目からは涙が零れ落ちた。

薫のおじさんは親父との試合後に親父側の控え室に行き、親父に向かって引退の意志を告げた。試合前から負けたら引退を考えていたのかもしれない。薫のおじさんは俺の分までいけよと言って親父の手をはたいた。それは、バトンを託したことを意味していた。おじさんの思いを受けとめた親父はおじさんの分まで闘わなければならない。おじさんの思い、そして、それだけじゃなく薫を含めたおじさんを支えてきた様々な人達の思いを背負わなければならないんだ。

「そうだな・・」

 「諦めなかったらきっとなれるよ」

 涙を拭きながら薫が言う。薫の言葉が力強く耳に届く。

 諦めなければか・・・

 

 

 



雨ニモ負ケズ・・
episode2


第1話

 

 日曜日の昼下がりに薫の部屋に二人きり。薫の家に寄った理由は、借りていたビデオを返したにきたという些細なことにすぎないのだが、それにしたってなあと薫を見て英三は思う。

 家の中に入りビデオを渡しそのビデオをネタに会話を繰り広げて一段落着くと、薫は英三をほっぽって、軽い筋トレを始めたのだ。薫曰く、再開らしいが、そんな細かいことはどうだっていい。

客人を前にしてやるべきことなのかと呆れ、仕方なく、英三も暇つぶしのものを物色した。

女性の部屋だというのに不思議なくらい違和感なく棚に置かれてあるはじめの一歩52巻を手にし、ごろりと横になる。薫の部屋から女らしさが欠片も感じられないのはプロテインの袋やらダンベルやら握力グリップなどのボクサー御用達の道具が部屋に置かれているからであり、天井から吊るされているサンドバッグが致命的にとどめを刺していた。

 「ふ〜ん、なるほどね〜」

 薫は本を片手に呟く。もう片方の手にはダンベルが握られている。

 何がなるほどなんだか・・

 英三は冷めた目で薫を見つめる。

「ウエイトトレは、上半身と下半身で別々の日に鍛えた方が良いんだって」

 また筋トレ話かよ・・・。

 英三は寝返りをうち、薫に背中を向ける。







 睦月との試合に敗れ、薫は筋力の無さを痛感したらしい。それ以降、筋力トレーニングに取り組むようになり、ボクシングジムとはまた別にスポーツジムにも週に2日ほど通うになった。

 英三も薫から筋力トレーニングの重要性を顔を合わせる度に説かれ、スポーツジムに通うべきだと何度となく薦められた。それでも、話を聞き流す英三に対して、薫はあろうことか親父にまで筋力トレーニングへの理解を求めてきた。意外にも親父は薫の意見に賛同し、親父からのお墨付きまでもらっては、もはや断わることはできない。かくして、英三もジム通いさせられることになったのだった。

「英三聞いてるのか?」

 薫はなおダンベルを持ち上げていた。

 「聞いているよ、上半身と下半身で別々の日にやった方がいいんだろ」

 「それは前の話だろ。今は、時間の振り分けの話。全然、聞いてないじゃないか」

「どうでもいいよ。そんな細かく気を使ってやる必要あるとは思えねえし」

「これだから、無知って怖いよ。使える筋肉は柔らかい筋肉。英三みたいに闇雲に筋トレしてたらパンチのスピードが鈍っちゃうよ」

「ふ〜ん・・」

 薫の言っていることは正しいのかもしれないが、理屈ばかりなのでなんだか、腹が立つ。

 「せっかくの日曜だろ。しかも、ジムも今日は休みだってえのに何が悲しくてボクシング話なんかしなくちゃ・・」

 英三は苛立って頭を掻いた。

「今日くらいボクシングは忘れろ」

 と言いながらも英三の右手にははじめの一歩が握られている。もっとも、薫の家に置かれているものはボクシングに関係したものばかりなのだからこれは仕方のないところと英三は自分に言い訳をする。

 「そうもいかないよ。試合が近付いているんだから」

 「試合ねえ〜・・。まだ一ヶ月もあるっていうのに」

 「もう一ヶ月しかだよ」

 薫は真面目な顔をして言った。

薫のプロ2戦目は一ヶ月後後楽園ホールの男子興行に組み込まれている。半年前に行われたJBCが初めて公認した女子プロボクシングの試合薫と睦月の一戦は、関係者や専門家の間から低レベルだといった酷評や根拠のない女性がボクシングをやるべきでないといった声が四、好試合だったと評価する声が六といったところで賛否が真っ二つに分かれた。お互いが相手の体を極限まで傷付け合う派手な乱打戦となった試合内容が多くの人の心を鷲掴みする効果にも、逆に女性がやるには酷だと映らせる効果にも作用してしまったのだ。ただ、メインが日本タイトルマッチクラスの興行で後楽園ホールを埋め尽くしたことは確実に無視できない事実となっている。人気の低下した今のボクシングの興行で日本タイトルマッチがメインでは、8割程度が限界だからだ。残りの2割は間違いなく薫と睦月が客を集めたのである。

その後、薫や睦月のようにプロボクサーとしてリングに上がりたいと望む声が少なからず出ているのだが、JBCは慎重な姿勢を崩さなかった。それから暫くの間、女子ボクシングの試合が興行に組まれることはなかった。3ヶ月が過ぎ、ようやく女子ボクシングの試合がまた組まれることになった。それが、睦月のプロ2戦目の試合である。その試合も後楽園ホールは満杯になり、女子ボクシングが客を呼べることがほぼ証明されたといっても良かった。試合の内容はというと睦月が1R早々に決着をつけた。その試合を観た英三は改めて睦月の強さを実感した。薫を倒した実力はマグレではないことも、またその睦月をダウン寸前まで追い込んだ薫も決して弱くないこともだ。

 女子ボクシングにも需要のあることが証明され、それ以後、女子ボクシングの試合は頻繁にといえはいえないまでも、2週に1試合程度の感覚で男子興行に組まれた。女性がプロを意識してジムに通っている人数を考えればこの数字は決して低くなく妥当なのかもしれない。

日本女子プロボクシングという存在は確実に前進していた。そして、薫の試合もまた組まれることになったのだった。

その話を知らされた時、薫は子供のように無邪気にはしゃいだが、英三はとしてはどうしても素直に喜べなかった。女のくせにボクシングなんかという古臭い考えを持っているわけではない。好きならやればと良いと女性がボクシングをすることにたいしても冷めたスタンスを取っている。ただ、薫となると話は別だ。もちろん、薫が人一倍の努力をボクシングに費やしていることも知っているし、正直、睦月との試合には心を打たれた。それは認める。しかし、やはりそれとこれとは話は別なのだ。

もちろん、薫の気持ちも分かるから本人の前では薫の心を踏みにじるような言葉は一切出さないようにしている。

それにボクシングへの情熱が冷めた薫は薫じゃなくなるような気もしていた。結局のところ、願うのは対戦相手が弱くあって欲しい、それだけだ。

願いが通じたのか今度の対戦相手はプロ経験もアマチュア経験もなく、正真証明その日がボクシングデビュー戦となるらしい際立った実績がある選手ではないらしい。写真を見せられたが外見もごくごく普通の女の娘だった。

とはいっても睦月という例があるのだから、油断はできない。それでも、見事な実績を持ったものと相手では受ける重圧も違ってくるだろう。

今回は、順当に薫が勝てるのではないかと英三は踏んでいた。

「できるだけのことをやっておかないと。やりのこしや悔いは残したくないからね」

 悔いという言葉に英三の心は反応した。

親父の言葉がふと蘇る。睦月との試合、何度倒れてもその度に立ち上がってくる薫の不屈の精神の源を親父はこう説明した。

“女子ボクサーにとって次また試合が組まれる保証なんてものはない。チャンスがこれっきりで終わる可能性だって十分ある”

一度きりで終りかもしれないと覚悟していたからこそ、薫のファイトは輝いていた。

覚悟がボクサーをいくらでも強くしていくことを英三は薫の試合か知った。それ以降、英三もこれが最後になるかもしれないと自分を追い詰めてリングに上がったというわけにはならず、相変わらず自分を変えていない。デビューから未だ負け無しという状況が自分を追い込ませる気にはさせないのだった。

「それにまたチャンスをもらえたのが嬉しいんだ。もしかしたら、もうリングには立てないかもってすごく不安だったから」

 薫がダンベルと本を置く。

 「状況は確実に好転しているのにね」

薫は苦笑交じりに笑みを浮かべた。

薫が神経質になる気持ちも英三は分かっている。薫はJBCの傲慢な考えで何年もリングに上げられずに思い悩み、JBCが窮地に立たされてようやくリングに上げさせてもらえるようになったのだ。女子ボクシングの試合も徐々に増えてきているが、それも客を呼べると判断してのこと。つまりは、女性のためでなく、JBCのために女子ボクシングがあるともいえる。

英三の複雑な思いをよそに薫はまた、嬉しそうに喋りを続けた。

「いろいろとさ、夢はあるんだ。英三だってベルトが欲しいとか目標があるだろ」

「まあ、そんなとこだろうな」

「オレの場合、勝たないと次のステップにいけないから、まずはプロ初勝利なんだよね」

 薫は左の掌に右拳を軽く当てた。

「試合に勝ちたい。今はそれだけを強く思ってるよ。他にもいろいろと願望はあるんだけどね」

 「願望ってなんだよ?」

 「まだ、プロで一勝もしてないじゃん。だから、分相応でないとさ、英三じゃないんだから」

 「もったいぶったり、喧嘩売ったりしてくれるなぁ。で、分相応な薫様の願望ってのは何なのよ?」

 「勝ったら教えるよ。だから、英三もセコンドでよろしく頼むよ」

 「へいへい」

熱く語った薫を見て夢なんて恥ずかしい言葉をよく真顔で出せるよなと英三は思った。

薫は子供の頃から変わっていない。ボクシングの話をしている時は、子供のように夢中になる。

 夢か・・。

 もちろん、ボクサーである以上はベルトを巻くのが今の目標だ。しかし、そのベルトは日本のベルトか、それとも世界なのか。英三の階級ライト級は日本人としてはやや重い階級であって、身体能力に秀でているアメリカや欧州の選手がベルトを独占している。これまでに日本人が世界のベルトを巻いたのは薫のおじさんも含めて二人だけ。うちの親父は2度挑戦して両方とも失敗に終った。日本人が手を届かすには遠いベルトなのだ。

 大志を抱けという格言に従えば世界を目標に据えるべきなのだろう。しかし、大志を抱くべきは少年なのだ。日本人がライト級の世界のベルトを手にすることはほぼ無理だという現実も大人なら受け止めておく必要があるといえるだろう。日本人のライト級世界チャンピオンはもう15年以上出ていない。

 「英三!またぼっとしてる。オレの話を聞けよ」

 「悪い、悪い」

 「ったく。今度の試合は・・ん?」

 薫がズボンに手を入れた。

 「電話。ちょっと待って」

 携帯を取り出すと、畏まった声で電話に出た。敬語で応答をしていく。

 英三は会社からの電話かと見当がついた。

 「それはホントですか!」

 大声が飛び出た。感情をすぐに表に出す薫だから、珍しい光景ではないが、それでもやはり気になった。

 英三は横見に薫の顔を見るが、薫は途中から背を向けてしまい、今どのような表情になっているのかよく分からない。

 いくつか薫から質問が出て後は、はいと返事を返す。それを繰り返しているうちに電話が終わった。

 そのまま数秒が過ぎた。

 「英三・・」

 薫が振り向く。目線が虚ろだった。

 「JBCに裏切られたよ・・」

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