第2話

 

 「12日の興行で女子の試合が取りやめになったんだ」

 薫は青ざめた顔をしている。

 英三は目を見開いた。  

 「どうしてだよ」

 「そんなの分かんないよ・・。ただ、会長の言葉だともうJBCは女子をリングに上げさせるつもりはないみたいだった・・」

 薫の目は虚ろで今にも泣き崩れそうだった。

 「まただ・・」

肩を落とし俯く。

 「期待なんてしなければ良かったんだ・・こうなることは分かってたじゃないか」

 独り言のように呟いた。

 薫の落胆ぶりに英三は薫のボクシングに対する思いの強さを改めて痛切に感じた。

 

 

厳格な空気が漂う会長室に睦月は一人、高級そうな椅子に座っていた。ぽつんと窓から青い空を眺める。天気だけは晴天な昼下がり。けれど、下山ボクシングジムの中は決して止まない雨が降り続けている。

今後、JBC主催のボクシング興行に女性が上がることはなくなってしまった。

一ヶ月先まで3試合女子ボクシングの試合が組まれていたというのにそんなことお構いなしにJBCは突然、関係を破棄した。

晴天の霹靂とはまさにこのこと。

JBCから関係を切られ、媛子お婆ちゃんも玲人も怒りを露にしていた。こちらから話し掛ける気になれないほどピリピリとしている。

無論、睦月にも迷惑な事態である。

今や自分の中でボクシングが占めるウェートはプロボクサーになる前とは比較にならないほど大きくなっている。

薫との試合が終わったあと、控え室で鏡を見て、目を丸くした。そこには一瞬誰なのか気付けないほど顔を醜く腫らした自分の顔があった。視界が極端に狭くなっているはずである。右瞼はたんこぶのように腫れて目を塞ぎ、左瞼もこぶとなっていたのだ。


 しかし、薫に対して恨みは湧いてこなかった。満足した闘いだったこと、また、薫の顔はさらに輪をかけて酷かったからだというのもある。両目はほとんど塞がり、頬は水脹れのように脹らんだ醜悪な顔。薫の顔をこの手で醜く変貌させたことに罪悪感など少しもなかった。それよりもなぜ、あそこまで顔が腫れるほどダメージを負ったのに薫は立っていられたのか、試合の最中も試合が終わって半年近く経過した今も睦月の関心はそこに向けられている。

負けたくない気持ちは分かる。しかし、試合に出る者なら必ず持っている意志であって、薫だけ特別というわけではないはずだ。睦月ももちろん、負けたくないという意志が意識が飛びそうなほどのダメージを受けた時に自分の身体を支えた。

それだけではない。ふらふらだったはずの薫にもう少しでノックアウトされそうになった事実。けっして油断したわけではない。あれは薫の執念が結びつけた逆転劇だ。

薫は睦月の想像以上に魅力に溢れたボクサーだった。実力はもちろん、睦月の思惑どおりに終わらせない執念、精神力、機転。

それに比べて2戦目の相手はつまらないボクサーだった。顔は地味な作りでごくごく平凡、実力も目を見張る点は何もなかった。だから、あっさりと2Rで終わらせた。もう顔すら思い浮かんでこない。

 3戦目の相手の写真もすでに手渡されていたが、同じく印象に残らない地味な顔立ちで睦月はがっかりした。

 ─────つまらない。

 魅力のない相手と闘っても満足感は得られない。試合に惹かれるようになったといっても人を殴ることに快感を覚えたわけではない。強く、人として魅力を放っている相手と闘い、倒してこそ充実感が得られるのだ。

 3戦目が中止になったことにはそれほどがっかりしていない。対戦相手自体どうでも良い存在だった。

でも、今後二度とボクシングの試合ができなくなるのは困る。試合で得られる味を知ってしまった以上は、もはや練習だけでは物足りない。また、薫のように強く輝いている女性と闘いたい。もし、睦月を満足させるボクサーが薫以外に存在しないのならもう一度薫と、いや、薫とは是非ともまた闘ってみたかった。薫というボクサーをもう少し知ってみたい。それには拳を交すのがなによりも分かる方法だ。

がちゃりとドアの開く音がした。媛子お婆ちゃんが険しい顔つきで立っていた。ゆっくりと睦月の前の椅子に座り対峙する。

媛子お婆ちゃんは暫し、睦月の目をじっと見つめていた。瞬き一つされない瞳から心が読み取られていくかのような凄みが肌を通して伝わってくる。

とてもではないが、睦月から口は聞けなかった。

 「醜いとは思わないかい?」

 「えっ?」

 「奴等のやり方がね。50年前から何も変わりはしない。馬鹿な生き物達が世界を支配しようとする。権力を握り維持することだけが重要なのさね」

 50年前といえば媛子お婆ちゃんが女子ボクシングの団体を作ろうとしていた時期のことだ。

 「50年前ってお婆ちゃんが女子ボクシングの興行を開こうとした時のことでしょ。なんでダメになったの?」

 「あの時も酷かったね。JBCのお偉方が直接圧力をかけにきたんだよ。いくつもの脅迫を武器にね。わたし等はバーで働いていたんだから、ゆするネタはつつけばいくらでも出てくる。それに、賭けボクシングをやっていた過去は致命的だったよ。それでも、まだ50年前の方がマシだね。奴等は行動の中身はともかく大事なことを守ろうとしていた。それが奴等は一旦は美学さえ捨てたんだよ。美学があるのなら貫き通せばいいのさね。それがたとえ、醜かろうが最低限の評価は与えるよ。でも、その醜い美学さえ守れやしない。短絡的にその場凌ぎで生きているだけ。救いようがないね。そういった男達の醜い価値観にあたしらは振りまわされてきたんだよ睦月」

 媛子お婆ちゃんの顔に呆れたような笑みが浮かび上がった。

「睦月、安心しな。女子ボクシングは消えない。わたしらが守っていくんだ。再来月に自主興行を始める。モチベーションは落ちてないね?もちろん主役は睦月、あんただよ」

「うん、気持ちは全然。・・・・それよりも自主興行ってどういったものになるの?」

「JBCに裏切られる前から着実に準備は進めていたんだよ。こちらも利用するだけして、時が来ればJBCから離れる予定だったからね。少し予定が早まっただけのこと。計画にたいした支障はきたさない。これからは1500人収容規模の会場にまずは隔月で興行を行っていくよ。もちろん、試合は全て女子ボクシングだ」

「選手は集まるの?」

「キックや空手に良い素材は沢山いる。それに、睦月、選手が集まるのを待ってては客はいつか離れる。選手は集まるもんじゃない。集めるんだよ」

「集めるんだ・・媛子お婆ちゃん」

「なんだい?」

「あたしの希望する選手も引き抜いてくれる?」

「誰かいるのかい?」

「ううん、これから探そうと思ってる」

「ああ、良いよ。ただし、次の第1回興行の相手に勝てたらと条件を付けるよ」

「相手は誰なの?」

「キックのチャンピオン、大河だ。前からオファーがあってね。今、あたし等が客に提供できる最高のカードがこれだからね。出し惜しみはなしだ。初回から勝負をかける」

「写真はあるの?」

「ほら」

 お婆ちゃんは立ち上がり、奥にある机の引き出しを開けた。写真を手渡されると、スポーツブラに両腕にはボクシンググローブをはめている上半身から写されているその女性は5センチほどしかない短い金髪を立てている。顔もごつごつしてて胸を見なければ男だか女だか区別がつかない外見だ。

 睦月は溜め息を付いた。

「相手として不服かい?」

「そんなことないよ。この人を倒せば良いんだね。わかった」

 失望した思いが自然に行動となって表れ、裏返しにして写真を返した。

「できればKOだとありがたいね」

睦月は黙って頷いた。自分としても早く倒してリングから去りたい。ゴリラ女相手では。

 これでは本当に薫以外はロクな選手がいないのではないだろうか。

 「水野さんは出るの?」

 媛子お婆ちゃんが不思議そうな顔をした。

「気になるのかい?睦月が他人を気にするなんて珍しいことだね」

「良いボクサーだよ」

「ああ。彼女には華がある。睦月と女子ボクシングの2枚看板になって欲しいもんだね。旗揚げ興行には彼女の試合も組む予定だよ。彼女にもセミファイナルに相応しい相手を探さないとね」

 

  

 スパーを終えた英三はまだ続いていたのかと思いながら体を休めるため椅子に座り込んだ。

 上体を左右に揺らしてから低い位置への左フック。そこから位置を上げて右フック、左フックへと繋げた。サンドバッグの揺れるとほぼ同時にまた、薫が体を揺らす。一発目の左フックはレバー。それで、動きを止めて顔面への左右のフック。鮮やかなコンビネーションに見ている側も攻撃の意図がすぐにわかる。

 サンドバッグを叩く薫は体からTシャツが肌が透けて張り付いているほどの汗の量を噴き出している。足元には水溜りが出来上がっている。練習の虫となり日々を薫が送っているのは相変わらずだ。

 素人目には薫は絶好調に映るのかも知れない。だが、英三は薫が本調子でないと捕えていた。

 男子ボクシング興行との決別が通達されてから一ヶ月が過ぎた。3週間後に下山ボクシングジムから二つの決定事項に関する知らせを受けた。一つは女子ボクシング協会の設立。二つ目は自主興行開催だ。

 自主興行は一ヶ月後だった。場所は池袋サンシャインシティホール。1500人収容できる広さを持っている。

 薫もその興行への選手としての参加を要請された。願ってもない話に薫も表情を崩し、すぐにでも返事をするのかと思ったのだが、意外にも薫は少し考えさせて欲しいと返事を延ばし、翌日承諾の意志を親父に伝えた。その時は、大事な話だから薫も1日くらい考える時間を設けてもなんら不思議ではないと思っていた。

だが、試合に向けて本格的な練習を再開した薫の動きは精細を欠いていた。なによりも薫自身の覇気が足りない。明るく振舞おうとしているのだから、分からないやつは気付かないだろうが、英三は嫌でも薫のちょっとした変化に気付けてしまう。薫の明るさはぱっと見四割減だ。

元気がないことを指摘しても薫は気のせいだと言い張る。スパーリングをしてもディフェンスの得意な薫が簡単なパンチを容易く食らうシーンばかりが目に付いた。

 そんな薫の姿を目の前で毎日見ているのだから、嫌でも試合への不安が募る。もちろん、並の相手なら本調子でない薫でも劣るとは思えないが、並じゃない相手と当たる可能性も十分あり得る。前回の下山睦月のように。

 気が付くと薫がいなくなっていた。

 まあいいかと立ち上がり、ボクシンググローブをはめていると、薫がひょこっと横から姿を現した。薫の表情が固い。

「対戦相手が決まった」

「だれ?」

「和泉キョウコ」

 名前だけは耳にしていた。日本の女子プロボクサーの先駆者的存在である。男子興行の中に女子のカードが組まれるだいぶ前から女子ボクシングの試合を行ってきている。国内ではキックの団体に交じり、また、積極的に海外にも出たりと。日本でも女子ボクシングがプロ化し、彼女の動向には注目が集められていたが、ついに参戦というわけだ。

 「英三も知ってるよね。プロで7戦6勝1分け。しかも、ボクシングをやる前は剣道をやっていてインターハイ優勝の経歴の持ち主。運動神経は抜群ってことだよね。相当強い相手だよ」

 「楽じゃねえな」

 珍しく薫が黙った。グローブの紐を結び終えたので練習に戻ろうとして、背を向けた途端、左腕を掴まれた。薫が上目使いにして見つめる。

黙って薫の言葉を待った。

 「英三・・スパーリング付き合ってくれないかな」

「いいけど」

 薫とスパーリングをするのはいつ以来だろうか。少なくともこの二ヶ月はやっていない。

 英三は薫とのスパーリングを避けていた。薫には失礼だけど、男が女とスパーリングをしても良いことは何もない。本気で殴るわけにはいかなく加減が難しいし、かといって気を抜くと薫のパンチには十分ヒットを許してしまうスピードがあり、ダメージは弱いが当たるのもカッコ良いものではない。

 薫の方も英三とのスパーリングには消極的だった。英三に殴られるのはむかつくと冗談まじりによく言っていた。

 ヘッドギアを被り、リングに上がる。

 「相手はどんなボクシングするんだ?」

 「アウトボクシングだよ」

 薫と同じスタイルか・・・

 目の合図で促し、ゴングが鳴った。

英三は足を使い距離を置き、不慣れなアウトボクシングで薫を攻めた。

 英三の出したジャブが何発も薫の顔面を捕らえた。逆に薫のパンチは鈍く、もちろん英三は食らわない。リーチの差があるとはいえ、不慣れな左の刺し合いでここまで優位に立ってしまうとは。

手加減が足りないのか?

いや、そんなはずない。

ポタッ!!

キャンバスに赤い液体が跳ねた。

 英三が両腕を下ろし、横を向いた。

 「やめだ」

 「なんでだよ」

 薫は鼻血を流しながら息を乱し気味に喋る。

 「体調を戻せよ」

「気を使うのはよしてくれよ。オレが良いって言ってるんだから」

 「俺がやりたくないんだ。これ以上手加減なんてできない」

 薫が顔を下げた。

 「いっそのこと思いっきり殴ってKOして欲しかったよ・・」

 呟くように声を出すと、薫の方がリングを下りてしまった。






 更衣室へと入っていく。英三は舌打ちして薫の後を追った。

 「薫、着替えてるのか?」

 「着替えてないよ」

 「開けるぞ」

 返事はない。

 ドアを開けると、薫は練習着のまま長椅子に座っていた。 

 「さっきは言いすぎた。悪かった」

 「別に英三は悪くないよ」

 英三は壁に背をもたらせて暫しの間、沈黙を続けた。

 「試合に勝てるか?」

 「思わないよ」

 薫は首を振った。 

「不安なんだ。また、試合が中止になっちゃうんじゃないかと思うと気力が湧いてこないんだ。女子ボクシング協会が出来たからって問題が解消されたわけじゃない。協会の中身は分からないし、またJBCの嫌がらせを受けて潰されるかもしれないよ。でも、興行に出たくないわけじゃなくて、もちろん、試合には勝ちたい。願ってもないチャンスを生かしたいよ。なのに、気持ちの方はどうにもならなくて・・」

足掻けば足掻くほど深い沼の底に落ちていく。薫の今の状態はそんなところなのか。

他人の力でどうなるわけでもなく、薫自信の力で解決しなければならない問題だ。

薫の力になってやれず、歯痒い思いで英三は天井を見上げるしかなかった。

 
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