最終話
勝者が敗者を見下ろしている。
一瞬、頭によぎった言葉を英三はすぐに打ち消した。そう思わせてしまうほどに睦月が薫に圧倒的な状況差をつけていた。睦月は両腕をだらりと下げ、恍惚とした表情で間近に倒れている薫を見下ろしている。そして、薫はリングの真ん中で打ちのめされていた。望んでもいないのに薫の両腕がバンザイをしているのが切なく感じられる。薫は白目を向き、口をぽっかりと開けていた。口の端からは血がたらりと顎から喉元を伝い、胸元を赤く染める。寒気すら感じさせる凄惨な場に誰もが金縛りにあったかのように動けず、場内が静寂に包まれる。英三だけでなく皆の視線が薫に注がれている。その中で薫は打ちのめされた姿のまま、ぴくぴくと体だけを小刻みに動かしているのだった。
カウントは数えられない。
レフェリーが両腕をクロスすると、試合終了のゴングが鳴らされた。
「勝者下山睦月!!」
レフェリーが名前を上げ、睦月の右手を高々と上げた。
英三は一目散に薫の元へ駆け寄った。
「薫!!」
大声で名前を呼んでも薫は反応を示さなかった。僅かに開けられている右目は何も映していない。
リングドクターが薫の容態を伺う。
その間も英三は何度も薫の名前を呼んだ。
薫が目を開いた。
「なんだよ・・」
と言って英三の顔を見る。英三はほっと息を漏らした。
「本当に心配かけさせるやつだよ」
「負けたんだ・・」
英三は黙って首を縦に振った。
「仕方ないよね・・下山の方が強かった。オレは全力を出し切ったつもりだよ」
薫はぐっと唇を噛んだ。表情がみるみるうちに崩れていき、涙が頬をつたう。
「怖かった。ホントは下山のパンチがすごく怖かったんだ・・。自分が弱すぎてたまんなく悔しいよ」
「それでも薫は最後まで逃げなかったんだ。御前は十分強い。胸を張れよ」
英三はタオルを薫の顔に当て涙を拭いた。そのまま薫の手に渡し、薫はタオルで顔を隠した。
涙も止まり体の具合もだいぶ回復したようで薫は立ち上がった。
「一人で歩けるか?」
「大丈夫だよ、英三」
涙の痕が残る顔に精一杯の笑みを薫は見せる。
突如、薫があっと口を開けた。
薫の視線の先を振り返ってみると、そこには睦月が立っていた。
epilogue
「久々に体動かしてすごくすっきりした」
薫は左右の掌を裏返し指を交差して伸びをした。
試合の日から9日が過ぎた今日ようやく薫が練習を再開した。初日から飛ばして練習メニューをこなし、すっかり元気な姿を薫は見せた。練習が終わると薫から見せたいものがあると言われて英三は薫の部屋に上がることになった。薫と英三は、特に部屋の持ち主である薫は外の空気から開放されて部屋の温か味にくつろぎ始めたところだ。
それにしても──────
英三は周りを見回した。ダンベルや、握力グリップが部屋に置かれてある。そういった筋トレの道具は前来た時にはなかったものだ。
「ますます女の部屋から離れてきてるな」
と言って握力グリップを握ってみた。
「煩いな英三は、全部下山に勝つためなんだから」
英三は薫の方に振り返った。
試合後、初めて薫の口から出たプロ続行宣言だ。
「続けるんだ」
「悪い?」
「どうでもっ」
英三は後頭部に両腕を合わせて、寝転んだ。
薫の試合は見てて心臓に悪い。できればもう見たくない。
でも、薫はリングの上の怖さを知ってなおリングに上がろうとする。正真証明ボクサーになったってことなんだよな・・・。
薫はデビュー戦が最後のチャンスで終わるかももしれないと覚悟しながらリングに上がった。薫は気を失うまで何度でも立ち上がり闘い続けた。
プロとしての自覚もボクシングへの思いも俺より数段上だ。自分の中で薫への嫉妬が芽生えていることを英三は認識していた。
薫がリングに上がることへの複雑な思い。それは、薫が殴られる姿を見たくないいからだけなのか・・。
はあっと自分自身に溜め息を付く。
何、くだんないこと考えてるんだろね俺は・・
「試合が終わった後に下山と握手しただろ」
薫が言った。
英三は薫の顔をちらっと見た。薫は背中を向けて机の上を探っていた。
「あの握手ってどこまでの意味があるのかな」
試合後のことを英三は思い浮かべた。薫が立ち上がり、リングから下りようとした時、睦月が薫の元にやってきた。
そして、右手を差し出してきたのだった。
薫は意外だったのか一瞬間を空けてからその手を握った。
「ありがとう」
睦月はにこっと笑った。
「ううん・・こっちこそ感謝してるよ」
薫の言葉を聞くと睦月は手を戻し、踵を返した。二人はお互いを称え合ったのだ。
「薫を認めたってことじゃねえの」
「ライバルとして?」
薫は睦月をライバルとして見ているようだ。英三の親父と薫のおじさんがライバルでお互い切磋琢磨競い合った仲だったように薫は睦月とライバル関係を築こうとしたがっている。
でも、それは・・・
「そこまではわかんねえけど」
結局、睦月本人がどう思っているのかは握手だけでは分からない。睦月が薫をライバル視していると思ってももし勘違いならその事実を知った時、虚しくなるだけだ。
「親父の気持ちがね・・」
薫の言葉に英三は顔を上げた。
「睦月と試合したことで親父が人と殴り合うことを望み続けた気持ちが少しは分かれたような気がするんだ。これ見てよ英三」
薫はページの見開かれた雑誌を英三の顔の前にもってきた。
雑誌を掴み起き上がる。
ボクシングの試合の写真。しかも、写されている二人は薫と睦月だ。見開きで使われている写真は睦月の右フックで薫の顔面が歪んでいるシーンだった。
"最終R、激闘を繰り広げる二人。下山の右フックが水野の頬を抉る"
写真の説明文にはそう書かれていた。
お互いの顔が腫れていてその1枚を見ただけで女同士とは到底信じられない激闘が繰り広げられたのだと分かる。
特に薫は美人であると誰も気付けないほどに顔面が腫れてしまっている。この写真を見るだけで気分が悪くなってくるほどだ。
「ここ」
と言って薫は文章を指差した。
睦月への試合後のインタビューが書かれている。
"ボクシングで相当な実績を誇っている和泉選手やキックのチャンピオン大河選手がJBC主催のボクシング興行参加へ興味を示しているらしいですが闘いたい選手はいますか?"
"下山「どの選手もよくは知らないんでぴんとこないです。それよりももう一度水野薫と闘いたいかな」"
以前、ジムから帰る夜道の途中に薫が子供のように無邪気に言った言葉が英三の頭の中で浮かび上がる。
“ボクシングは喧嘩じゃないけどね。でも、試合を終えた後は分かり合える気がするんだ”
英三はちらっと視線を向ける。その先にはにかっと笑った薫の顔があった。
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