光が抑えられけっして明るくない場所の中、その中央に置かれてあるリングにだけ光が集中している。
 その空間には2千人くらいの人がいた。客席の埋りは10割。立ち見が出るほどの賑いで人気はかなりあるんだと思う。何人かは声を出して応援し、多くの人は試合の合間に拍手を送っていた。
 親父は椅子に座り休んでいた。股を開き、両肘をロープの上に乗せ、だるそうに体をコーナーポストにもたげている。
 相当疲れが溜まっているんだろう。試合が始まって19分。親父は真っ向から相手と打ち合い続けていた。家ではのんびりとしている親父は今力強いファイターになっている。
ブザーが鳴り、親父はだるそうに椅子から立ち上がった。セコンドから口にマウスピースをはめこまれ、ゴングが鳴るのと同時に相手へと向かっていった。
 乾いた音が何度となく響き渡る。場内の最上段に座っていてもその音はしっかりと聞こえてくる。
 初めは、どきどきしながら親父を見守っていたけど、何発パンチをもらっても同じことを繰り返しているから失礼だけど、ほんの少しだけ、飽きがきていた。
 英三は隣を見つめた。薫は不安げな表情をしている。1Rからずっとだ。薫のおじさんも頑張って戦っている。
 親父と薫のおじさんは俗にいうライバルという関係だ。二人は何度となく、試合をしてきた。二人が戦った回数は今日で5回目になる。2勝2敗。そのあとが長かったよと親父は数日前にしみじみと語り、実に嬉しそうな表情を見せた。つまりは男同士の友情ってやつだ。そのへんはよくわかんないけど。
 二人がベルトを賭けて戦うのはこれが4度目になる。そのうち一度は世界のベルトも含んでいる。前回の試合は薫のおじさんが日本のチャンピオンで親父が挑戦者だった。試合は薫のおじさんが鋭い左ジャブで試合の主導権を握っていたが、逆転KOで親父の勝利となった。
 数週間後、薫のおじさんは練習の最中にアキレス腱を切る大怪我をした。年齢が年齢だけに引退も考えられたけど、薫のおじさんは現役でいることを選んだ。
 それから、8ヶ月後、薫のおじさんはリングに復帰した。前のようなフットワークを使った華麗な闘いかたはできなくなっていた。それでも、薫のおじさんはリングの上で闘う。その間、親父はずっと日本チャンピオンのベルトを守り続けた。薫のおじさんが怪我から復帰して2連勝、そして今日再び親父と薫のおじさんは日本タイトルマッチを行うことになったのだ。
 英三は改めて隣を見つめた。薫は表情が固まり黙ったままだ。普段、男顔負けの生意気な態度を見せるじゃじゃ馬もやっぱりボクシングの過激な殴り合いにはすっかり気圧されてしまったようだ。
 普段からしおらしければいいのにと英三は両手を後頭部に持っていき踏ん反り返った。
 英三と代わるように薫は身を乗り出した。
 「お父さん!!そこだ!!いけっ!!ぶっ飛ばせ!!」
 英三はぽかんと口を開けた。
 これが女かよ・・・



雨ニモ負ケズ・・


第1話


 「英三!なんなんだよ昨日の試合は」
 ジムに入り視線を合わせるや薫がつっかかってきた。両腕にはグローブをはめており、汗で耳にかかる程度のショートカットの髪がぐしゃぐしゃになっている。有り余るパワーをサンドバッグにぶつけていたのだろうか。
 英三は顔を背けた。
 昨日の試合で疲れているんだ。御前の元気をどうにかしてくれと英三は心の中で愚痴った。


 「馬鹿の一つ覚えみたいに殴りかかってさ」
 「どうして知ってるんだ?」
 それまで英三の試合全てに薫は観に来ていたのだが、昨日はどうしても外せない会社の仕事があるとかで薫は試合会場には顔を出さなかった。 
 「TVでやってたんだよ。チャンピオンに感謝しろよな。2Rで終わったから六回戦の英三まで映ることができたんだから」
 「TV受けする試合なんて俺くらいなもんだよ」
 「バッカじゃないのか。ボクシングは喧嘩じゃないんだ。ノーガードの打ち合いばっかりやってたらすぐに脳がいかれるんだ」
 「わかったよ、次から気を付けるって」
 「わかってない、おい待てよ英三!」
 薫の説教は一旦始まったらキリがない。英三は相手にせずジムの奥へと向かった。
 着替えを終わると再び薫が英三の前にやってきた。
 「こんどはなんだ?」
 「スパーリングすることになった」
 「誰が?」
 「オレに決まってるじゃないか」
 薫は自分のことをオレという。幼い時からずっとだ。ショートカットでボーイッシュ、爽やかな彼女がオレと使っていても不思議と女を捨てているようには感じられない。むしろ、異性としての魅力に繋がっていることを英三も認めていた。
 それだけではない。
 英三は何気なく送っていた薫への視線をその頬に意識した。まだ噴き出てくる汗に上気して薫の頬は紅潮している。汗が似合う女というのもそうはいない。
 「聞いてるのか英三」
 薫は上目使いに顔を覗いてきた。
 慌てて視線を外した。落ち着きを取り戻すように意識して声を低くした。
 「相手は俺じゃないよな?」
 「安心していいよ、本城君だから」
 「じゃあ俺に報告したのは?」
 「本格的な試合形式なんだって。手加減一切無し。流石にヘッドギアはつけるらしいけど。だからセコンドについてくれよな」
 突然のスパーリングを英三は訝しげに思った。ジムの会長である親父は薫がボクシングすることに賛成している人間でスパーリングはよくさせていたが、試合形式のものは今まで一度もさせていない。 あえて危険な真似をさせる必要性にまで至らないからだ。
 薫は薫の父親の影響でプロボクサーになろうと考えている。しかし、JBC(日本ボクシング協会)が女子ボクシングを認めていないために日本で女子ボクシングの試合をする道は極端に狭まっているのが現状だ。その数少ない方法がキックボクシング協会の主催している大会の中でボクシングの試合をすることである。それもJBC傘下のボクシングジム所属の選手がキックボクシングの興行に出ることは認められていないので、事実上ボクシングジムに所属している女子ボクサーは日本にはいないことになる。そのために薫は中学生の頃からプロボクサーになるとオウムのように繰り返し、ジムには7年以上通っているというのに未だにプロのリングには一度も上がれていない。
 親父の姿を見つけた。隣にいる見たことのない女性と男性のペアと話していた。女性はカジュアルな格好をしており、年齢は30代後半から35の間といったところか。男性はスーツを身に纏っており、髪をオールバックにしてかっちりとした雰囲気がある。こちらも年齢は30前後といったところか。
 親父に問い詰めるべきか躊躇していると肩を後ろから柔らかい物で触られた。
 振り向くとヘッドギアをかぶっている薫がボクシンググローブをはめた手を英三の肩に乗せていた。
 「始まるよ」
 問い詰めることはあとにして不承不承薫のセコンドについた。英三は薫のプロに反対の立場を取っていた。薫が殴られる姿など見たくないからだ。もっとも、口煩い薫にはそのことは一度も伝えことはない。言っても無駄なことも十分分かってる。
 この試合はというと、ヘッドギアに12オンスのグローブだから安全といえば安全で、そう心配することもでないと英三は楽観していた。
 リングに上がった薫は拳を胸の前でばすばす打ち鳴らした。うきうきとしているのが体の動きからも表情からも一目瞭然だった。
 そのうきうきした顔をこちらに振り向かせて薫は聞いてくる。
 「英三作戦は?」
 「いや、いらないだろ」
 「良いじゃないか。少しは試合っぽい雰囲気を味あわせてよ」
 本城は入門して1年と半年。筋も良く、真面目に通っているからプロテストを受けてもおそらく受かるはずだ。ボクシング歴7年で目を見張るテクニックを身に付けている薫も所詮は女性だ。4回戦レベルの本城には敵わないだろう。
 「ガードだな」 
 「それだけ?」
 「打ち合うなよ」
 そう言ってマウスピースを薫の口に押し込み煩い口を黙らせた。
 「ふがっ・・・」
 薫はマウスピースのずれを自らの手で直すと
 「あとで覚悟しとけよ英三」
 と言い残して身を翻した。
 ゴングが鳴り、前へ向かっていく。
 インファイトに持ちこもうとする本城に薫は足を使って距離を取った。
 目を引くのは薫のボクシングテクニックである。
 舞っているという表現が適した華麗なフットワークで薫は本城の攻撃からさらりと逃げる、逃げる。
 ジャブで確実にポイントを重ねていった。
 しかし、薫に余裕があるのかといえばそうでもなかった。インターバルでコーナーに戻ると疲れ切った息を吐き出して椅子に座る。
 男と女では骨格がまるで違う。一発もらっただけでも命取りになりかねない本城のパンチは避けるだけでも相当な体力を消費しているようだった。
 長い時間試合をするのは薫には不利だ。試合は4R。薫が逃げきれるのか微妙だった。
 最終R、英三の不安が的中し、本城のボディで薫の動きが止まった。連打の前に体を丸ませる。
 10秒程、連打を浴びたところでレフェリーが割って入った。
 4、5発いいのをもらっただろうか。
 薫は肩で息をしているが、まだ足元はふらついていない。
 薫がファイティングポーズを取り、試合が再開された。本城のラッシュにまたも薫は防戦一方となった。
 また、ガードの合間を縫って本城のパンチがヒットした。細い首がぶっ飛んでいく。血がキャンバスに飛び散った。
 英三はタオルを握り締めた。
 ここでゴングが鳴る。
 二人の間に割って入ったレフェリーが「時間だ」と言った。
 「はぁっはぁっ・・」
 息を荒げ苦しそうに顔を歪めながら薫がコーナーに帰ってきた。
 「ごくろうさん」
 握り締めていたままのタオルを差し出した。
 薫はヘッドギアを外し英三に渡す、代わりに手にしたタオルで顔の汗と鼻血を拭いた。
 「くそっ・・」
 悔しがりながらタオルを英三に戻すと、両手で左右のロープを握り体を支えていた。頭を下げて吐く息はまだ乱れている。
 試合はトータルで見ればほぼイーブンだが、勝負には負けたと感じているのだろう。6R制ならノックアウトされていたに違いない。それでも、本城相手に3Rまで完封し、4R制では互角にやっていけるのだから薫の実力も女性としては恐ろしい。
 「1年と半年で抜かれたのか・・」
 薫は独り言のように漏らした。
 男には抜かれるのは仕方のないこと。それが分かっていても真剣な思いで練習を重ね、なまじセンスもあるだけに生まれ与えられた肉体の差という理由だけであっさりと実力で抜かれるのは悔しいのだろう。
 「プロでも十分通用するのになんでプロを目指さないんだよっ・・・」
 本城は大学生で余りある暇な時間をジムにぶつけていた。あくまで趣味だと割りきり、プロになるつもりはないというのが本城の考えらしい。中途半端な思いでプロになっても怪我して止めるのがオチだ。よっぽど強い意志がない限り、本城のように割り切った方が良いと英三も考えている。
 だが、薫には本城のように割り切った考えが納得できないでいる。
 薫は女性だからという理由でチャンスすらもらえず、不平等な扱いをされているから。
 「薫いいか?」
 親父に呼び出されてあちらへと駆け足で向かう。
 慌しいやつ。
 でも、鼻血は出たわけだけど、無事でなによりだった。
 ヘッドギアをつけていたおかげで顔の腫れも目立ってはいない。
 英三は左胸に手を当ててみた。不覚にも鼓動はまだ激しく高鳴っていた。
 「やれやれ・・・これがプロの試合だったら・・」
 非力な女性の力とはいえ、ヘッドギアをつけずに12オンスではなく8オンスで殴り合えばKOもできる。
 試合でKOされたジムメートの姿を薫に置き替えた。
 うつ伏せに大の字で倒され、顔はごつごつと腫れ上がっている。






 想像だというのに思い浮かべただけで心臓に悪い。
 薫には悪いけど、プロにはなって欲しくないな。
 今日の実戦形式のスパーリングで改めて自分の思いを確認した。
 「英三!」 
 またも薫だ。今度は何だと溜め息が漏れながらも薫の声が弾んでいることを怪訝に思った。
薫は目を輝かせ、すっかり晴れやかな顔をしている。
 一体何があったのかと気になりつつ薫の言葉を待った。
 「やったよ英三、オレの試合が決まったんだっ!」





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