第29話


 宙に浮き上がった和葉の体が放物線を描き背中からキャンバスに沈んだ。続けて落ちたマウスピースが三度リング上を跳ね回った。それでマウスピースの動きは完全に止まったが、和葉はなおもぴくぴくと体を小刻みに震わせている。
和葉の両腕はバンザイを作り、それはまるで降伏の姿のようだった。
 カウントが進んでいく。
 「あががっ・・」
 壊れたような息が和葉の口から漏れる。
 天井にあるライトがやけに眩しく感じられた。真夏の炎天下に浴びせられる太陽の光のような強さだ。
 現実には部屋の中の照明が太陽ほどの光を発してるわけがない。そう錯覚するほど和葉の視界がぼやけていた。
 早く起きたい。
 でも、大の字を作る両腕両足がまったく動かない。手足がもがれてしまったかのように感覚がなくなっている。
 もうダメなのかな・・・・
 せめてものあがきで寝返りを打ちうつ伏せに体勢を変えた。
 これで少しは体にも力が入る。
 それでも立ち上がるのは到底ムリなことのように思えた。もう手足の自由が利かないのだから。
 「フォー!!」
 カウントが進むごとに敗北が現実のものに感じられてくる。
泣きそうに歯を食いしばりながらキャンバスを見つめた。
 キャンバスにひれ伏せられていることがたまらなく悔しい。そして、夏希に負けることがたまらなく悔しかった。 
負けちゃう・・
 「珠希・・悔しいよ。私すごく悔しいよ!」
 和葉は頭を上げるとその勢いでもって下ろしおでこをキャンバスに強く打ち付けた。
 また頭を上げてキャンバスにおでこをぶつける。
 悔しさのあまりに和葉の気が狂ってしまったのだろうかとその光景を見ている誰もが思った。
 自ら頭をキャンバスにぶつけて三度目。その後、さらに驚くべき光景が続いた。
 和葉が上体を起こしたのだ。レフェリーにしがみつきなんとか立とうとする。レフェリーも呆然としふりほどこうとはしなかった。
 和葉はカウント9で立ち上がる。
 リング上にいる和葉、夏希、レフェリーの三者が動かずに固まっている。和葉は疲労のために、夏希とレフェリーは呆然として。
辛うじてレフェリーが試合再開のコールを発した。それでも和葉と夏希は動かずにいる。
 「どうして立ち上がれたの・・」
 コーナーから夏希がぽつりと言った。 
 「頭に・・強い衝撃を与えれば・・体の感覚が戻るかもしれないと思ったから・・」
 夏希は目を見開いた。ありえないといいたげな表情だ。人間は家電製品じゃないんだからと。
 それからまた沈黙が続いた。夏希は意識が違うところにいってるように見られる。
 和葉は意識があるのかも分からないとろんとした表情になっている。
 夏希の視線が青コーナーへと向かった。ゆっくりと和葉へと移行する。
「君の体を支えているのは執念なの?」
 「負けられない・・私一人じゃないもの・・」
和葉はぼつりと呟いた。もうファイティングポーズすら取れずに両腕をだらりと下げその場に立ち尽くしている。
 「その中には亜莉栖も入ってるの?」
 和葉はこくりと頷く。もはや声を出す力さえ残っていない。 
 「そう・・」
 夏希がダッシュして距離を詰めに行く。
 ここでゴングが鳴るもダッシュを止めない。
 夏希はかまわず右ストレートを打ち放った。
 パンチは和葉の顔面に痛烈にめり込む。
 体ごと吹き飛ばされ、和葉は体勢を崩し両腕を広げ倒れおちようかという勢いで後ろへと下がっていく。
 青コーナーに体をぶつけた和葉はずり落ちていき、コーナーポストにもたれかかるように尻餅を付かせた。
 ゴング後のパンチであり、ダウンとは認められない。当然のように夏希にも注意が与えられず試合はインターバルへと入る。
 和葉の倒れた青コーナーはちょうど和葉の陣営だった。移動する必要もなくその場に尻を付けコーナーポストに寄りかかったまま体を休ませる。
 「水・・ちょうだい・・」
 和葉は顔だけコーナーの後ろに向けた。亜莉栖は返事はおろか顔を合わせようともしない。
 「どう・・した・・の・・」
 振り絞るように声を出す。亜莉栖から反応がない。
 「ねえ・・」
 「亜莉栖もう芝居はいいよ。それよりこっちきてあたしのサポートしてくれると助かる」
 朦朧としていた意識が夏希の言葉に反応する。
 「そうだね。もうこれであたしの役目も終わりだね。じゃあね・・」
 亜莉栖が青コーナーを離れていく。足を止めた先は夏希の待っている赤コーナーであった。
 悪夢のような光景を目にし和葉の表情が凍り付いた。
たちまち瞼が重くなった。この目で現実を直視するのがこの上なく辛い。
 私・・裏切られた・・。
 状況をようやく受け入れた和葉の目からは涙がぼろぼろ零れ落ちていく。ボクシンググローブでいくら拭っても止まらない。 
一人ぼっちのインターバルが和葉に亜莉栖のセコンドがもはや欠かせないものになっていたと気付かせた。
 今はいないどころか夏希のコーナーについている。一人きりの闘いは人を信じると言っていた和葉の方であり、誰も信じないと言っていた夏希がセコンドの恩恵を受けている。
 悔しくてたまらなかった。亜莉栖が夏希の口にペットボトルの水を含ませている姿を見てたまらず視線を外した。 
 第3Rの準備をレフェリーから促される。両腕で体を支えなんとか和葉は立ち上がった。
 マウスピースがどこにもなくあたりを見回すとキャンバスの中央に転がったままになっていた。
 レフェリーもそのことに気付き拾い上げて和葉の口に、無理やり押し込んでくわえさせた。
ちょうど、夏希も亜莉栖からこちらは優しくマウスピースを口にはめてもらっているところだった。
 それを見て和葉はぐすりとしゃくりあげた。 
 もういやだよ・・ 、なんで闘わなきゃいけないのよ・・
 第3Rが開始されると、闘う気力さえ尽きた和葉はすぐさま、夏希のパンチの雨に晒された。
 これはボクシングの試合なのか。
 そう思わせるほど一方的な滅多打ちだった。
 背中がロープに食い込み頭が四方八方へと激しく吹き飛ばされる。両腕はガードどころかだらりと下がり何の役にもたたない。
 “きっと平気で裏切るよ。人は皆裏切るようにできているんだ“
 彼女の言うとおりのことが今目の前で起きた。
 もう誰も信じられないよ・・・
 気力が萎み落ち、和葉はなんのために闘っているのかすら分からなくなっていた。
 逆に夏希のラッシュはさらに激しさを増していった。
 汗、唾液、血、涙あらゆる液体が玉状や霧状になって散っていく。
 それらの液体が染み付いたグローブを夏希は何度も和葉の顔面にぶち込む。夏希のパンチはダメージだけでなく屈辱をも味あわせるものになっていた。和葉は汚らしいグローブで顔を殴られ、汚らしい液体を吐き出しているのだから。しかも、グローブの汚れは自分の吐き出した液体によるものなのだ。
 夏希はパンチによって和葉を汚すが、和葉はリングを汚すことしかできないでいる。
 そして、無数のパンチを浴びた和葉はついには吐き出す液体さえも尽きてしまった。
 夏希がラッシュを止め、左手で和葉の顎を掴んだ。だらりと垂れ下がったままの両腕、圧迫されて歪んだ唇と宙を泳ぐ目、体も顔も力が抜け落ちてしまっている。
 夏希の左腕によって和葉の体は支えられているといってよかった。しかも、顎を鷲掴みにされ頬の肉が唇へと押し寄せられ顔を不細工に変形させられて眼前の対戦相手に眺められており、これ以上の屈辱はない。 
 「君を裏切った亜莉栖が悪いわけじゃない。亜莉栖を信じた君が悪いんだよ」
 和葉からは何の反応も返ってこない。それでも夏希は続けた。
 「亜莉栖だって必死なんだ。だから、和葉が眠っている間にあたしに協力してあげようかって話を持ちかけてきた。マウスピース一個と引き換えにだからあたしにとってはそんなに割の良い話じゃないけど、確実にこの勝負勝ちたかったから亜莉栖の話を受け入れることにした。作戦は全部あたしが考えたよ。亜莉栖の話から和葉の最大の武器はしぶとさだって分かった。しぶとさでこれまでの2試合大逆転で勝ってきた。なら心の支えを壊してしまえばいいんだ。そのためにも亜莉栖の裏切りを効果的に見せつける必要があった。もう気付いてるよね?亜莉栖の反則を避けるための助言が私の勝利を確実にするための罠だったって」
和葉の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。枯れたはずの涙がまだ残っていた。 
 「だから言ったんだ。人は皆裏切るようにできているって」
 最後の言葉を夏希は特に強めに発した。これが言いたかったといわんばかりに。
和葉は何も反論しなかった。ただただ、現実から目を背けたかった。亜莉栖が裏切ったなんて嘘だと。
 「一人じゃないよ。和葉ちゃんにはまだ私がいる!」
 和葉の背中から聞こえてきた少女の声。
夏希は視線を和葉からその後ろへと向けると唇を歪めた。
 和葉は顔を見なくても声の主が誰なのか分かっていた。分かって当然だ。毎日顔を合わせていたかけがえのない親友なのだから。
 「明日香ちゃん・・意識が戻ったんだ・・」
 「和葉ちゃん、頑張って。まだまだいけるよ!」
 「ありがとう」
 今度は嬉し涙が零れそうだった。ずっと聞きたかった明日香の声を聞けたのだ。
 しかし、まだ私諦めないと続けて言い終えないうちから目を覚まさせられる一発が和葉の腹を襲った。 
 「うぼぉっ!!」
 どうにもならない現実へと引き戻される。
 「これで終わりだから」
 冷酷に言葉を告げて夏希は左腕を顎から放すと膝を屈め力を溜めこむ。開放された力が右腕に乗り、空を切り裂くパンチが無防備な和葉の顎めがけて伸び上がっていく。
 グワシャアッ!!
 「ぶうぅぅっ!!」
 上へ向けられた顔から血飛沫が吹き上がっていく。そして、またも和葉の体は宙へと浮き上がっていった。前よりも高く浮き上がり、ついには弓なりにしなる体がリングの外へと飛び出ていく。
 リングの外に吹き飛ばされた和葉の体が逆さまになったまま空中で止まった。
 「いやああああっ!!」
 泣き叫ぶような悲鳴を明日香は上げた。
 明日香の目の前には両足がロープ最上段に絡まり、逆さになって宙にぶら下がっている和葉の姿があった。
 両腕はだらりとぷらぷら垂れ下がり、なによりそれまで見えてなかった和葉の腐ったジャガイモのようにボコボコに腫れ上がった顔面が強烈だった。醜く変貌を遂げていた和葉の顔は白目をひん剥いてしまっており失神しているのだとすぐに悟らせた。下手したら命がなくなってしまっている可能性さえも感じさせる。
 上唇が盛り上がり、ゆっくりと口の中からマウスピースがはみ出ていき、零れ落ちた。
 鼻からも口からも血がぽたぽた垂れ流れ瞬く間にリングの外の床を赤く染める。
 その完膚なきまでに打ちのめされた姿はまるで磔の処刑を受けているかのようであった。
 和葉が再びリングの中に戻れるはずなどなかった。
 それでも、カウントは数えられる。明日香が和葉の体に触れようとした時、レフェリーから試合が終わるまで触るなと大声で怒鳴られた。
 場外カウントでカウントは10を超えて20まで数えられていく。
 カウントが数えられる長い間、和葉の凄惨な姿を明日香は眼前で触れることすら許されず顔を真っ青にして眺めるしかなかった。
 もう試合の結果などどうでもよかった。和葉の無事を早く確かめたい。それだけを明日香は願い続け、試合は幕が閉じられた。

To be continued・・・・・

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