第28話


 歪な形に曲がった夏希の口からは、あああっと苦しみに耐えようとする声が漏れ両端からは唾液が垂れ流れている。 
腹に据えている右拳により多くの体重を乗せると、柔らかな肉がさらに押し潰れる感触が伝わり、夏希の口から発せられる声は喉の奥底から絞り出されているような苦しみに悶えるものに変わった。声の大きさに比例するように口から漏れていく唾液の量も増している。
 試合が開始されてから初めて優勢な立場に立てている。
 夏希を苦しめることができている。
 この機を逃しちゃダメだ。ここからもっとダメージを与えて満足に動けないようにしなきゃ。
 じゃないといつまた自分がサンドバッグにされるか分からない。
 右腕を腹に押し込む力を和葉は緩めずに必死になって力を伝えようとした。上から和葉に圧し掛かられている夏希は抵抗もできず両腕をキャンバスに広げ、されるがままにダメージに苦しんでいる。
 もっとと和葉は願いを込めながら力を入れ続ける。
 突如、後ろから両肩を掴まれ戸惑いのうちに体を立たされた。
 「スリップダウンだ」
 まだ両肩を掴まれたままの中、後頭部あたりから発せられたレフェリーの低い声に和葉は瞬間的にびくんと体が震えた。
 体がレフェリーに拒否反応を示してしまっている。
 硬直している和葉の体をレフェリーが横を素通りし夏希の元に近寄った。
 今度は夏希が立たされる番だった。レフェリーはなお苦しみに悶えている夏希の両脇に手をやり、無理やりファイティングポーズを取らせた。 
倒れた相手への追撃がなかったことのようにレフェリーはすぐに試合を再開させる。
 夏希は立ち尽くしたままだった。顔を歪め呼吸がままならない状態であることが遠目からも分かった。
 まだパンチが効いてるのだと判断し、和葉は突進していく。
夏希に近付くと何されるか分からないという警戒が無意識に働き、打ちやすいフックではなく、なるべく遠くから当てられる右ストレートを放った。夏希の顔面にはいとも容易くヒットした。
 パンチが当たった。
 その事実がどれだけ疲れていてもパンチを打とうという気にさせる。
 右ストレート、左ストレート・・・
 次々とパンチ突き刺さり、何度となく夏希の顔面を押し潰した。
 やがて、距離を詰めてからのフックの連打へと移行する。
 ボクシングが素人の和葉にとってストレートよりもフックの方が遥かに窮屈なく打てる。
 右フック、左フック、右、左、右・・・・
 反撃に転じてから10秒以上、無抵抗な夏希をサンドバッグにした。パンチの滅多打ちを浴びる夏希はブザマな苦悶の声を上げ、不細工な形に顔を歪まされ続けるだけ。対照的に和葉の表情は目を吊り上げて闘争心に満ち溢れていた。絶対に倒すんだという執念が表情から滲み出ている。確実に当たっていくパンチが和葉の気持ちを昂らせているのだ。
 夏希をサンドバッグにして殴り続け、ついに会心ともいえる和葉のパンチが夏希の顔面にぶち込まれた。
 彼女の顔面から重く鈍い頬の骨が悲鳴を上げる音が弾かれたのだ。 
 グワシャアァッ!!
 「ぶげえぇっ!!」
 喉の奥から絞り出た苦痛の声。 
パンチの衝撃で無理やり大きく開けられた口から噴き出た大量の唾液が透明な水玉となって宙に煌びやかに消えていく。 
 魂が抜け落ちたかのように夏希は前のめりに崩れ落ちていく。和葉の胸に顔がぶつかると夏希は形振り構わず両腕で和葉の肩を掴み身を寄せたまま休む。
 和葉の体に触れ合ったまま体を休めると同時に荒れた呼吸音を吐き出す夏希の姿を間近で目にし和葉は感じ取った。
 夏希には本当にもう余裕なんてないんだ。
 自分もこのまま休んでいたいところだったが、チャンスだとばかりにすぐに和葉は両手で突き放した。
 よろよろと5、6歩下がったところで夏希は踏み止まる。
 また、フックを当てていき、元の状況へと戻った。
 夏希の膝ががくがくと笑う。
 あと、ちょっと・・。
 もう一発フックをぶち込み、夏希がまたも後ろへふらふらと下がる。
 夢中になって追いかけパンチを打ちに出る。
 とどめのつもりだった。
 これでもう夏希だって倒れるはずだ。
 頭を垂れ下がったままの夏希はパンチがくることに気づいてない。
 右手を後ろに引こうとしたところで垂れたままの夏希の表情がちらりと見えた。
 えっ・・・
 微かに口元が笑ってた・・・。
 亜莉栖の言葉が思い出された。
 “反則はピンチに立たされないと使わないと思うよ”
 パンチを打っちゃダメ。
 絶対にくる。追い詰められた夏希は必ず反則に出てくる。
 予感がするとはまさに今この時だと和葉は思った。
 夏希の左のパンチが和葉の右目へと向かう。
 分かっていてもなかなか避けられるものではなかった。
 肝心の時に恐怖に体が縛りつかれたように動かない。
 夏希のパンチが当たり小さな音が響く。手応えを感じたのか夏希が顔に笑みを明確に浮かべている。
 突き刺した親指を右目から夏希は戻す。その瞬間、和葉は右腕を大きく引き、夏希の表情が一転して驚愕を表すものへと変わった。
 ガードしなくたって避けなくたって当たる前に右目を瞑るだけで目つきは防げる。試合前に立てた作戦を和葉は忠実に再現していた。 
 そして、作戦の仕上げへと移る。
 これで決めなきゃ。
 渾身の力を込めた右フックを振り放つ。
的ともいうべき夏希の顔面にパンチが当たるかという瞬間、和葉は当たって倒れてと祈っていた。
 だが、伝わってこなければならないはずの手応えがいつになっても届かない。
 そのままパンチは空転に終わり、和葉は頭の中がパニックに陥った。
 嘘でしょ・・・
 夏希の姿は目の前から消えていた。
 どこ?
 瞬間的に大きく膨らんだ不安に耐えられず和葉の目が細まる。和葉の焦燥をあざ笑うかのようにパンチが下から襲い掛かってきていた。 
グワシャアッ!!
 痛恨のアッパーカットが和葉の顎を打ち抜いた。
 「ぶへえっ!!」
 大量の血が吹き上がる。赤いシャワーに包まれてマウスピースが舞い上がっていく。それだけじゃない、身を屈めて曲がった膝のバネの力が十分に乗せられた夏希のアッパーカットの強烈な威力に和葉の体までもが宙に浮き上がっていった。

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