第10話

 

 「右利きのサウスポーということか」

 親父が納得したように言う。

 「合同スパーで睦月の和泉への空き缶を渡す行動がずっと気になってたんだ。おそらく睦月は合同スパーの時の和泉の振る舞いに違和感を持っていた。実は和泉は右利きなんじゃないかって。だから睦月は確信が得たかった。人は利き腕を主に、もう一方の腕を補助的な役割として使うだろ。もしかしたら、左利きは、利き腕じゃない腕を使う機会が多いのかもしれない。それでも、とっさの時は、空き缶を目の前で差し出される意図せぬ出来事が起きた時は、無意識に利き腕が反応するんじゃないかって睦月は思ったんだよ。睦月は空き缶を渡すことで試したんだ。和泉が右利きのサウスポー。ありえるか親父?」

 「稀だが、右利きでもサウスポーにするボクサーはいる。サウスポーは数が少ないから苦手としているボクサーは多いからな。ただ、一発も左のパンチを打たないのは異常だ。打たないんじゃなくて打てないと見るべきか」

 「怪我してる?」

 「その線だろう。左はないと見ていい。右だけに意識しないとあの右は避けられるものではない。ジャブの刺し合いにもこだわらない方が良いな」

 「でも、ジャブは・・・オレのボクシングの中心です・・」

 薫の表情は弱々しくどうすべきか悩んでいるようだった。

「アキラへのこだわりか」

 薫は頷いた。

 「薫、アキラのボクシングは左のジャブだけじゃない。晩年のインファイトを観ただろう。アキラのボクシングは融通が効かない幅の狭いボクシングじゃないぞ」

 薫が考え込む。

 「そうですね・・オレが間違ってた。オヤジのボクシングはもっと奥が深いんだ」

 自分の言葉に薫は自ら頷く。

「何がなんでもオレ勝ちます」

第3Rが始まる。

薫はジャブを打たなくなった。

ガードに専念し、キョウコの右へと回り込もうとする。右のジャブを打たせないようにするためだ。

薫が右のジャブを避けて懐へと潜り込んだ。接近戦なら右腕一本の闘いは出来なくなる。両腕の総合力で薫が勝てる可能性は十分にあるはずだ。

薫のパンチを2、3発ガードすると打ち合いには付き合わず、キョウコはバックステップで再び距離を取った。徹底的にアウトボクシングということか。左腕を使わないのならアウトボクシングをするしかキョウコにはない。

 薫が追い掛けてキョウコが距離を取るという攻防に変わる。だが、キョウコの右ジャブを避けて近づくのは至難の行為だった。マシンガンのように速いキョウコのジャブの連打は一瞬でも気を抜くと蜂の巣にされてしまう。

 第3Rでも薫は逆転どころか、細かいパンチを浴びてじわじわと少ない体力を削り取られていた。

 やがて、薫の足が止まった。鼻血がまた流れ出ており、肩で呼吸をしている。

 「はぁっはぁっ・・」

 辛そうに呼吸をする薫にキョウコが言い放った。

 「作戦を変えても無駄なことです。所詮は悪あがき、KOされる時間が延びるにすぎないのですよ」

 キョウコは踏み込みを一段と強くして右のジャブを放つ。薫の顔面に深々と刺さったその一撃は薫の頭を後ろに吹き飛ばし、薫を後退させる。退いた薫にキョウコが右ジャブの連打で攻めたてる。薫は身動き取れずに亀のように体を丸めるしかない。KOも秒読みに入ってしまったかと思わせるほど、薫が手も足も出せないキョウコのラッシュである。

 ガードの上から血がキャンバスに降る。

 足元が不安定な薫はいつ倒れてもおかしくなかった。

 また、ジャブが薫の顔面へと入った。膝が大きく曲がり、そこへまたジャブで顔面を狙われた。

 突然、薫の姿が目の前から消える。キャンバスに沈んだのではない。薫は左にパンチを避けている。左斜めにステップを刻んだ薫はキョウコめがけて体を大きく傾けて反動を効かせたフックをぶち込んだ。

 薫の得意とするシフトウィービングだった。相手のパンチを避けながら攻撃に移り、しかも、体の反動を利用するのだからダメージは大きく攻防逆転するのに有効なテクニックだ。

 その手があったかと英三は思い出した。シフトウィービングは睦月戦でも逆転の糸口となった技だ。

 初めて掴んだ攻勢に薫が一気にラッシュをかけた。キョウコのガードは固く、全て両腕に阻まれている。それでも、薫は構わずここが勝負どころとパンチを連打する。たまらず、キョウコがバックステップで距離を取る。

 「えっ・・」

 キョウコの眉が持ち上がった。背中がコーナーポストにぶつかったのだ。

 「これで逃げ場はない」

 薫は言い放つと飛び込んでいく。キョウコの右ジャブを避けると大振りのフックをぶちかます。

 グシアァッ!!

 「ぐはあっ!!」

 シフトウィービングで反動の効いた左フックだった。薫が連続してパンチを叩きこむ。ガードする暇を与えずにパンチを次々と顔面へとめり込ませていく。

 今までの苦戦が嘘のように薫のパンチが当たる。

 距離を取れなくなったキョウコはとてつもなく弱かった。キョウコは片腕でしか闘えないと英三は予測したが、それはまず間違えのない事実だと思えてきた。もし両腕が使えるのなら少しは反撃に出るはずだ。薫はそれまでノックアウトされる寸前だったのだから逆に倒せるチャンスでもあるのだから。

しかし、キョウコは必死になってガードを固めている。鬼神のごとき強さを見せたキョウコが今では可哀相なくらい貧弱に見える。




ゴングの音が鳴り薫の連打が止められた。英三はくそっと声に出して残念がる。

逆転KOへの千載一隅のチャンスだった。
次のR、キョウコはまた鬼神の強さを取り戻してくるのだろうか。それとも、また何も出来ずにガードに撤するのだろうか。

英三は椅子に座る薫を見下ろす。コーナーポストに背中をもたれかけ、顎が上がり天を見上げていた。目を瞑っていて、薫は気持ち良く眠っているかのように思えてくる安らかな表情だ。

ボクサーとして致命的な弱点を露呈したキョウコだったが、薫の体力も限界まできている。

 勝負はどちらに転ぶか分からなくなっている。おそらく、精神力が勝敗を分けるはずだ。英三は薫の顔を見つめながら頑張れと声に出さず呟いた。



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