第11話

 

 「左が使えないとばれてるわね」

 「今までどおりで問題ありません。もうへまは踏みませんから」

 「右のタイミングに慣れられてきてるわ。フェイクでも良いから左を使うべきよ」

 「ただの偶然です。大丈夫です」

 ───────ただの偶然なのだ。私の右が見切られるはずがない。

 キョウコは頼りにする右拳に視線を向けた。右のパンチで次のRこそ水野薫をノックアウトすると意志を込めた。

 第4Rが始まり、ゆっくりとキョウコはコーナーを出た。

 足にはさほどダメージがきてなかった。これなら薫の攻撃をさばくのに支障はきたさないだろう。 

 数十秒後、キョウコは自分の読みの甘さを痛感することになる。

 グシャァッ!!グシャァッ!!

 キョウコは再びコーナーを背負い薫のラッシュを受けた。逃げられない中、ガードを固めてパンチの的となる。これでは薫のためのサンドバッグでしかない。

 4R序盤から薫のシフトウィービングに対処が全くできず、良いように懐へと入れられラッシュを食らった。突き放そうと執拗に右のジャブを放っても左から攻められて簡単に中へと入られる。

 ─────分かっていたことではないか。左からの攻めに弱いことは。そして、弱点を突かれた時のための対策も十分にやってきたではないか。

 しかし、変則的な薫のウィービングに反応が思うように出来なかった。しかも、左へのステップの幅が広すぎてこれでは右のパンチを当てられない。 

 薫を止める術を失ったキョウコが薫のサンドバッグとなるのはもはや避けられない運命だったのだ。

 ドガアァッ!!

 顎を突き上げられ、キョウコの膝ががくっと笑う。 

細い顎はキョウコのもう一つの弱点である。そこにもう一発顎へ左フックを打ち込まれ、体が右に左にふらついた。

 世界が揺れている。いや、揺れているのはキョウコ自身である。そのことに気付いたキョウコは意識をしっかり持とうと歯を食い縛るのだが、パンチの雨を次から次へと浴びせられ意識はさらに朦朧とするばかりだ。

 汚い唾液を垂らす彼女から毅然とした姿は消えている。

 虚ろでとろんとした瞳に口も力なく開けられていた。

 その間の抜けたキョウコの顔が突如、苦痛で歪められた。

 薫のアッパーカットが顎を吹き飛ばしたのだった。

 グワシャアァッ!!

 顎を跳ね上げられ、上を向いたキョウコは上空へと血を噴き上げた。血飛沫は滝の逆流のごとく勢いで上がっていく。

 蝦反りに体を吹き飛ばされ、ロープに跳ね飛ばされた。内股になっていた両足にはもはやダウンを凌げるほどの力は残っておらず、キョウコは両腕が下がり薫の横を前のめりに崩れ落ちていく。

 ────左腕さえ使えればあの程度の未熟な相手に苦戦するはずがないというのに。左腕さえ使えれば・・・

「キョウコ!!あなたのボクシングへの思いはこの程度なの!!」

 麗奈の怒鳴り声がキョウコの闘争本能に響く。長い左腕を咄嗟に薫の胴体に巻きつかせてクリンチに入った。

 「はぁっ!!はぁっ!!」 

 キョウコは血走った目で唇を尖らす。少しでも多くの酸素を体内に取り入れようと務める。負けるわけにはいかないのだとキョウコは心の中で叫ぶ。

──────絶対に負けられない















 

「キョウコ、剣道にはもう戻らないのか?」

 すすったコーヒーをテーブルに置くと、

 「戻らないわ」

 キョウコはきっぱりと言った。

 「御前なら全日本のチャンピオンにもなれる・・」 

「剣道は好きよ。強さだけでなく、心も鍛えられるスポーツなんてそうそうないわ」

「なら・・」

 「前にもいったはずよ。剣道では私の目的は適えられない」

 「そんな時代じゃない。もう・・」

 典史は首を振った。

 「たしかに、今の時代男女の不平等はなくなっているわ」

 キョウコは目を瞑る。

 「表向きはね。まだまだ日本は男尊女卑の社会なのよ。仕事に就いてよく分かった」

 「・・・・」

 「ボクシングなんてまさにそのとおりの世界だわ。女はボクシングなんてやるものではない。可笑しいと思わない?どうしてそう言い切れるの。剣道は認められてなぜボクシングはダメなの?」

 「・・・・」

 「女子ボクシングをプロとして認めてもらうまで私は闘い続けるわ」

 沈黙が続く。元々、典史は寡黙で口数が多い方ではない。キョウコももうこれ以上特に言うべきことはなかった。

 「先週の試合観たよ」

 典史が重く口を開けた。

 キョウコは言葉の続きを待った。

 「俺はまた観たいと思わない」

 「そう・・さようなら」

 キョウコは立ち上がった。

 「待てよ」

 「これ以上話しても無駄でしょ」

 「剣道じゃ駄目なのか?」

 背中を向けていたキョウコは顔を振り向かせた。

 「駄目なのよ・・・。剣道にはもう闘う目的がないの」

 店を出た。

 自分がしていることを他人から理解してもらえるとは初めから思っていない。特に男に分かるはずなんてない。

 男女不平等は何処の社会にもある。それは永遠になくならないことかもしれない。だからといって何もせずに傍観していることなど自分には耐えられない。

 ある格闘技の雑誌でたまたまキョウコは元女性ボクサーの記事を観た。女子ボクサーが存在していること事態キョウコにはちょっとした驚きで興味を惹かれたのだが、記事を読むに連れて興味はやがて憤りに変わっていた。

 その女性はアメリカに4年ほど在住しており、その間にボクシングジムに通うようになり、ついにはプロのボクサーになった。アメリカでは女子ボクシングもプロとして認められており、男子の興行の中に女子の試合が組まれることもあるのだという。その女性は4年の間アメリカ生活で3回プロのリングに上がり、日本に帰ってきた。その後、日本のボクシングジムで練習をするようになり、女子ボクシングの試合が出来るよう、ジムに懇願したらしいが、JBCから許可は下りなかった。

 結局、彼女は日本では試合をするチャンスがなく引退をし、今ではジムのインストラクターとして女子の指導を行っているというのが記事の内容だ。

 許せなかった。何故、男性が良くて女性が試合するのは駄目なのだ。女性にだってボクシングは出来るはずだ。剣道が出来るのだから。これは男達の傲慢さが一人の女性の可能性を奪ったのだ。

 男女の不平等が消えたとよく言われるがそれはまやかしだと16歳だったキョウコは痛感させられた。

 次第にキョウコの怒りは私が不平等を変えてみせるという決意に変わっていく。記事を見た3週間後、その女性インストラクターがいるジムにキョウコは入門したのだった。あれから7年が過ぎた。JBCは女子ボクシングを公認し、合同の興行を行うようになった。しかし、その記念すべき1回目の合同興行の試合に声がかけられたのは日本の女子ボクシングの第一人者であるキョウコではなく、水野薫というまだ一度もプロのリングで試合をしたことがない弱者だった。これまで闘い続けてきた日々はなんだったのだろうか。はたして自分が女性としてリングに上がり続けてきた意味はあったのだろうか。自分が存在していなくても水野薫という存在だけで女子ボクシングはJBCに認められることになっていたのではないか。

 そう思うだけで自分の7年間が否定されているようでキョウコを苛立たせた。

 世間は分かっていない。実力もないボクサーを有名な世界チャンピオンの娘というだけで評価しようとしている。 

 キョウコには真実を伝える義務があった。そうでなければ女子ボクシングは廃れていく。現にJBCからもあっさりと見捨てられたではないか。

 賑やかな繁華街が余計に神経を苛立たせる。

 新宿という街は嫌いだった。新宿には意志のない人間が多すぎる。人に呼び出されなければ自分からこの街に訪れることはまずない。

 人ごみを避けるために路地裏へと回る。       

 そこで、女性の声がかすかに聞こえた。その方向へ足を進めてからすぐにキョウコの顔に修羅の形相が浮かび上がる。

 「止めなさい。人を呼びますよ」

 チンピラ風の男二人組がこちらを向いた。ポケットに手を突っ込んだまま一人がこちらに向かい、無防備に顔を突き出した。

 「よお、ねえちゃんも犯られたいのか?」

 下品な笑いだった。シンナーの吸いすぎか歯が隙間だらけになっている。

 「あん?可愛げのねえねえちゃんだな。本当は怖がってるんだろ」

 頬を軽く叩かれた。

 軽くでも攻撃すれば怯えるとでも思っていたのだろう。

 しかし、キョウコは厳しい視線を向けたままだ。

 これで準備は整った。正当防衛は成立したのだ。 

 バシィッ!!

 その醜い顔面にキョウコは左のジャブを当てた。

 チンピラは背中を丸め鼻を抑えた。 

 がら空きの顎にアッパーを突き上げた。チンピラは後ろへ崩れ落ちる。完璧に顎をとらえた。男から立ち上がる気配はない。 

 視線を代えると、服装が乱れていた女性の姿はなくなっていた。上手く逃げることが出来たようだ。

 あとは自分も逃げるだけだ。幸い、後ろの道が大通りに繋がる道である。

 しかし─────

 キョウコは視線をもう一人のチンピラへと向けた。

思い上がった男は征伐する必要がある。もうこれ以上の犠牲者を出させないためにも。

そのチンピラは身長185センチ相当、体重では80キロを軽く超えるだろう大男だった。

 果たして相手になるのか自信のほどは分からなかった。

 キョウコはダッシュして向かっていく。

 無防備な顔面に左のジャブを2発打ち込んだ。

 相手が打った大振りのパンチは避けて、また2発。とどめの右ストレートも顎を綺麗に打ち抜いた。

 だが、大男は倒れなかった。表情を変えずにこちらを睨む。

 右腕を掴まれた。掴まれながらもキョウコは左ジャブを顔面に何度も当てた。大男は鼻血を出すも顔色が変わりはしない。

 その瞬間、大きな衝撃がキョウコの頭を走った。

 足腰の力が抜けて、尻餅をついた。

 大振りのフックを顔面に打たれたのだった。

 力が違い過ぎる・・逃げないと・・。

 立ち上がろうにも体に力が入らない。尻を地面に付かせたままどうにもならなかった。

 「ちょっとボクシングを習った程度で男に勝てると思い上がったのが間違いだったな」

 顔面を蹴られて地面に背中を激しく打ちつけた。

 「ぐはあぁっ」

 キョウコが悲鳴を上げた。左腕を強く踏まれたのだ。

 「危険な左腕だな。ジャブってやつか」

 ぐりぐりと踏みつける。

 「ぐああぁっ!!」

 「手グセの悪い腕は使え無くしたが方がいいな」

 大男は腰を屈めてキョウコの左手を掴んだ。人差し指の第2関節に逆の方向へ力を入れる。

 「ちょっ・・ちょっと!!」

 力がさらに入り、関節が悲鳴を上げる。

 「止めて!!お願いだから止めて!!」

 大男の表情はけっして変わらない。

 グギィッ!!

 激痛が襲った後に見た人差し指はありえない角度に曲がっていた。ほぼ直角に近いほど反りかえっている。

 「いやあぁ!!」

 「まだだ。あと4本残っている」

 涙が止まらなかった。泣き叫び大男に懇願した。

大男が止まることはない。

 指折りが終わったのは、警察が駈けつけてからだった。 

 その時にはもう手遅れだった。キョウコの左手は5本の指が全てが直角以上の角度に反り曲げられていた。

 

 

 「キョウコ・・」

 驚きを隠せずに麗奈はキョウコの名前を口にした。麗奈と顔を合わせるのは半年ぶり、最後にジムを破門にさせられて以来である。

 「まだボクシングが諦められないの?悪いこと言わないわ、ボクシングは忘れなさい。あなたの左指はもう自由に動かすことはできないと医者に言われてるのでしょ」

 「無理ではないことを証明しにきました」

 「ちょっとキョウコ!!」

 静止を振り切って中へと入っていく。

 キョウコはボクシンググローブをはめてサンドバッグの前へと立つ。体の右側をサンドバッグに向ける。

 ジャブをサンドバッグに当てた。左ではなく右の拳だった。右のジャブを立て続けに打ち、その強烈な威力と連打の回転数にサンドバッグが飛ばされっぱはなしであった。

 キョウコは右のジャブだけを連打で1分以上を続ける。

 右腕でサンドバッグを受け止めて麗奈を見た。

 「これでもボクサーとして通用しませんか?私は右腕だけで人を倒してみせます」

 

 左腕が使えればなんて弱音を吐いた自分にキョウコは恥じた。左腕が使えなかったからこそ右腕を誰にも負けないと言い切れる域にまで鍛え上げられたのだ。

 ───────私の右腕はジャブだけで相手を倒せる

 レフェリーがキョウコの体を引き剥がし、試合を仕切り直しさせた。再開と同時にジャブをヒットさせたのは薫だった。

 薫のジャブがキョウコの顔面に何度も突き刺さり、確実にキョウコの体力を奪い取る。

 体が思うように反応しなかった。

 ジャブを出したくてももはや体がままならないのだった。闘争心を裏切る自分の体にキョウコは苛立ちとダメージを募らせる。

 やがて右フックからまためった打ちが始まり、キョウコの頭が右に左に吹き飛ぶ。唾液やら血やらと液体が激しく振り撒き、悲壮な醜態を大勢の観客の前に晒し上げる。

 またもゴングがキョウコを救った。

ラッシュが止まったと同時にキョウコは両腕を垂らし、ロープに体をもたらせた。照明の光が身動き取れずグロッギーとなっているキョウコの痣だらけの体を照らす。

薫が青コーナーに戻っていくとレフェリーがキョウコの容態を訊いた。

「まだやれるのか?」

「ぶふぅ・・ばだ・やればす・・ぶふぅ・」

 鼻血で息をするのさえ困難になっており、喋るどころか正確な発音さえままならなくなっていた。さらにはキョウコの顔面は赤紫色に腫れ上がり、醜く崩壊している。キョウコの悲壮な姿にはレフェリーも顔色を青白くさせた。もはや、キョウコは立ってることも喋ることも自由にできないノックアウト負け間近のボクサーでしかない。

 それでも一人でコーナーへと帰っていったのはボクサーとしてのキョウコの意地だった。




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