第9話

 

 「ぶほぉぉっ!!」

 薫の口からマウスピースが吐き出された。と同時に後ろへと崩れ落ちていく。

 ぴくりともしない。

 リング中央で大の字になった薫の姿が世界戦でノックアウトさせられた親父と被る。

 見ていて辛いだけだ。

 立てなんてとても言う気になれなかった。立ってどうなるというんだよ。

 無謀な試合を選手にさせるべきじゃない。レベルの違う相手に奇跡なんて起こるはずがない。現実は一度も良いところがなくボロボロに打ちのめされるだけだ。真剣勝負にお互いの見せ場など早々ない。ましてや実力が違いすぎては観る側にとって残酷なショーを見せるられて終わる。

 そんな辛い思いは親父の時だけで十分だ。

 しかし、薫は英三の思いに反して立ち上がった。

 試合が再開と同時に薫はキョウコのサンドバッグとなった。

 バキッ!!グシャッ!!ドガッ!!バキッ!!

 「ぐふっ!!ぶほっ!!がはっ!!ぶふっ!!」

 良いように右手一本でいたぶられる。

 それでも薫はまだ闘おうとする。逃げずにそして、殴られる。コーナーにはりつけにされて殴られる。

 英三は歯を食い縛って薫が殴られる姿を見続ける。

 もういいじゃないかよ薫・・

 

ゴングが鳴り、薫はこのRもなんとか生き延びれた。

 コーナーを背にしていた薫の体が下にずり落ちる。代わって顔を返り血に染めているというのに眉一つ動かさないで薫を見下ろすキョウコの姿が現われた。その姿は雄爽としていた。力強さと威厳に溢れ出ている。

 キョウコがグローブで血を拭う。血の取れたキョウコの顔は無傷で試合前とほぼ変わらぬ美しさを保っていた。キョウコの顔は適度に流れ落ちる汗が輝きを放ち、充実に満ちていた。

 キョウコが背を向けコーナーに戻ると、英三は慌ててリングの中に入った。ついさっきまでキョウコのサンドバッグにされていた薫は尻餅を付き、両肘を最下段のロープに載せている。

力なく下に伏せている薫の顔を覗き英三はたちまち顔が青ざめた。もはや、薫の顔は原型をなしていなかった。紫に変色した瞼が左目を塞ぎ、右目も半分ほど潰れている。頬だけでなく、唇も厚ぼったく腫れ上がり、鼻は両穴から血が流れている。

キョウコの顔がまだ頭に残っているだけに余計、薫の顔の変わり様が心を鬱にさせるのだ。

無傷で試合前と変わらぬ綺麗な顔を保つキョウコと顔面を醜く崩壊させられた薫。もはや薫の役目はキョウコの引きたて役でしかないっていうのか。




 「英三・・そんな顔するなよ」

 薫は無理して笑みを見せるが、それが余計痛々しく感じさせた。

「オレは・・まだま・だやれるんだ」

 途切れ途切れになりながら薫は精一杯の強がりを言った。

 英三は親父の顔を見たが、親父は英三の視線にも気にせず薫に指示を送る。止めようという気配は見当たらなかった。

 英三はうがい用の瓶を薫の前にもっていった。薫から受け取る仕草は見られなかったので口まで持っていき、うがいをさせた。もう薫は瓶を受け取ることさえおっくうになってしまっている。

 受け渡しで英三はふと前から気になっていたシーンが頭の中で蘇った。睦月がキョウコに缶を受け渡したシーンだ。思い返せばおかしな行動だ。わざわざゴミ箱に捨てた缶を拾って渡したのだから嫌がらせかと思いきやそれを睦月は否定した。

睦月は確認したいと言った。

 何を確認したかった?

 英三は赤コーナーに目をやった。

 キョウコは右手で自らドリンクを口に含んでいる。毅然とした姿に英三は見るべきではないと後悔した。あまりに対照的な薫とキョウコのインターバルの光景は見比べても惨めになるだけだ。

 英三は目を戻し、右手にある瓶をマウスピースに持ち替えた。

 「あっ・・・」

 英三は自分の右手に目を向けた。 

 「どうした英三?」

 親父が訝しげに訊いた。

 ─────そうか、そうだったんだ。

 「和泉が右のパンチにこだわる理由がわかった。右にこだわるのは余裕があるからじゃない。左は右よりもパンチの威力が落ちるからだ」

 「ど・・どういうことだよ・・英三?」

 「和泉は左利きじゃなくて右利きだ」





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