第12話

 

 前のインターバルと同様、薫は椅子に倒れ込むように座るとすぐにコーナーポストに体を預けて目を瞑った。

 そのまま眠りについてしまうのではないかというくらい疲れ切った表情でぐったりとしている。試合の主導権は薫が支配していても体力はもう限界まできている。第3R中盤から第4Rまで薫はパンチを打ち続けていたのだから腕を上げるのさえ辛いのではないか。

英三は紫に変色した薫の顔にべたりと付く汗を白いタオルで優しく拭き取る。頬のあたり拭いていると薫が目を開けてこちらを見つめた。

 英三はタオルを離す。

 「どうした?」

 「あれだけパンチを当ててるのに倒れないよ・・」

 薫の右拳を持ち上げて見つめた。

 「オレのパンチじゃ駄目なのかな・・」

 弱々しい表情に弱々しい声だった。

 薫が自身のパンチ力に自信を持てなくなっている。第3R中盤から第4Rまでの約3分間相手の顔面にパンチを打ち込み続けた。その数は50発をゆうに超えているだろうに未だダウンすら奪えていないのだから自信を喪失するのも無理のないことなのかもしれない。

 けれど、もう少しでキョウコは倒れるのだ。あと少しだというのに気落ちしている薫に英三は少しばかり苛立った。

 右腕をがっちりと握り薫は拳から視線を外さない。

「そこまでパンチ力にこだわる必要があるのか?薫のボクシングはスピードとテクニックだろ?」

「英三は倒し屋専門だから分からないんだ。ダウンするのがどんなに悔しいことなのか。オレだって・・」

 悔しさを噛み絞めた表情だ。

 すでに薫はキョウコによって2度もダウンさせられている。いや、薫のダウン経験はそれだけではないことを英三は思い出した。睦月との試合で薫は一つのダウンさえも奪えず、同じ時間の中で一人だけ五回ものダウンを奪われた。だから、薫はパワー不足を補うためにこの数ヶ月間筋力トレーニングを積んできたのだと英三は今になって気が付いた。

薫はキャンバスに這いつくばるという耐え難い屈辱を何度となく味わってきた。キャンバスに倒されるたび、7年間築き上げてきたボクシングへの自信を壊されてきた。

 薫はダウンを欲しがっている。自信を欲しがっている。  

 気落ちしていても薫の闘争心は尽きていない。

ただ一つ危惧しているのがダウンへの焦りが生む最悪の結末だ。

「薫、焦るなよ。相手の顔見ろよ。ボッコボコだろ。効いてるんだよ、薫のパンチは」

 英三は声をかけ、落ち着かせようとした。

 「薫、大振りだけは禁物だぞ。小さく、コンパクトに基本を守るんだ」

 親父も指示を出す。

 薫は声に出さずに頷いた。その顔はまた闘志に満ちた表情に戻っている。

 

第5Rが始まり、開始早々に薫がキョウコを捕らえた。キョウコのジャブを避けるタイミングを薫は完全にモノにしている。あとは、連打で打ち倒すのみ。

 薫がラッシュをかけた。両腕の壁を作るキョウコだが、徐々にガードが甘くなり薫のパンチが当たり始める。

 やがて、ガードはガードをなさなくなり、飾りとなった両腕を弾き飛ばし薫がパンチを当てていく。

 薫が何度となくパンチを当てた。サンドバッグと化したキョウコをひたすら殴りつける。片腕のボクサー相手に非情の連打を浴びせ、相手は顔から血を壮絶な量噴き上げていく。

 それでもキョウコは倒れない。だが、倒す以前にここまで一方的な展開が続いてはレフェリーが試合を止めるのではないだろうかと英三は期待を抱いた。

 キョウコに逆転の芽はもうないだろうし、ふらつき方も危ない。

 同じペースでパンチを放っていけばダウンを奪うにしろ、レフェリーストップにしろ結末はどうあれ薫のKO勝ちは時間の問題だ。

 レフェリーがついに動いた。キョウコが両腕をだらりと下げたのだ。薫はさらにパンチを打ち込んでいく。

次の瞬間には試合は終了を迎える。

そう誰もが思っていた。

薫のTKO勝利だと。

誰も次の展開を予測できた者などいなかった。

戦慄の光景を作り上げるキョウコを除いては。

 グッグワシャアァッ!!

 重い音が重なり合って場内を響き渡る。

 レフェリーが足を止め、キョウコの顔を見た後で薫の顔を見る。

 英三も同じだった。キョウコの顔を見た後に薫の顔に目を向ける。

 そして、言葉を失った。

 「あがががっ」

 声にならない声を吐き出し体を震わす薫がいる。

 薫の勝利を信じていた英三にとってそれは悪夢といえる光景だった。とどめを刺そうとしていた薫がグロッギーな姿にさせられているのだ。

薫とキョウコの交錯したパンチは十字を作り相打ちを生んでいる。

 二人のパンチがお互い相手の顔面に決まっている。それなのに闘争心に満ち溢れたキョウコの視線に薫は反応すら出来ずグロッギーとなった顔を相手に晒し、つまりは完全に打ち負けていた。

とても相討ちとは言い難い威力の差。

苦痛に顔を歪め、体をぷるぷると震わせているのは薫だけ。

薫はキョウコの体にパンチの雨を浴びせレフェリーストップを呼び起こそうとしていた。実際にレフェリーは試合を止めようとしていた。

しかし、薫の勝利が確定しようとしたまさにその瞬間にキョウコの起死回生となるクロスカウンターが薫の頬を打ち砕いた。

結末はそれである。

「ぶわはあぁっ!!」

 薫の歪み切った口からマウスピースが吐き出された。静まりかえった場内の中、血の降り注がれる音と供にキャンバスの上を跳ねて転がった。

グロッギーとなっているのが薫だけならマウスピースを吐き出したのも薫だけ。

薫だけがキャンバスの上を血に染めて、キャンバスの上をふらつき、薫だけがキャンバスの上に力尽きた。








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