第13話

 

 スパーリングでノックアウトされた時も一方的に攻めときながら最後の最後でクロスカウンターの相討ちを受けて薫は逆転KOをされた。スパーリングの時と全く同じである。クロスカウンターはお互いがダメージを食らうはずなのに倒れるのはいつも薫だけだ。薫のパンチ力はたった一発の相討ちで試合をひっくり返されるほど貧弱だというのか。

 相討ちに打ち負けた薫は尻餅を突くようにキャンバスに崩れ落ちスイッチの切れた玩具のように微動だにしなかった。背中を丸めだらりと下げた両腕も頭が傾いて何も捕らえてない瞳も薫のなにもかもがキョウコのパンチによって壊されてしまったかのような姿だった。  

レフェリーのカウントが開始されようとした頃、薫の体がようやく動く。

しかし、それは立とうとする意思ではなく完全なる屈服だった。薫の体は後ろへと崩れ落ちた。両腕と股を広げて、リングの中央に大の字となる。口元と目元が弛緩しきった薫の顔は昇天しているかのようなしまりのない顔だった。薫の体が苦痛を超えて快楽が襲っているのだとしたら、もはや薫が立つ可能性はゼロに等しい。体が麻痺し自由を奪われているからだ。それ以前に意識すら断たれていることだって充分にありうる。むしろ、失神していると考えるほうが妥当だ。

 カウントが3となっても薫は身動き一つ取れなかった。

その光景はあまりに残酷だった。

一人の女性が変わり果てた顔面を大勢の観客の前でさらしたまま動くことさえ出来ない。十秒の間惨めな姿を晒し続けなければならない。

セコンドがタオルを投げないかぎり。

英三は目を細め切なげな顔をしてリングを見つめる。心臓を鷲掴みされたかのような息苦しさが英三を襲う。

大の字となったままぴくりともしない打ちのめされた薫の姿が世界戦で派手に散った親父と被るのだ。

怖い世界だった。

弱すぎた敗者は惨めに打ち負けた姿を晒さなければならない。

だから、言えなかった。まだ子供だった英三は震え上がりキャンバスに沈んだ親父に力を与えてやることができなかった。

 でも、今は言わなければ。

 もう後悔なんてしたくはない。

 英三は大声で薫の名前を叫ぶ。

“立て薫!!!”

“立つんだ薫!!“

いったい何度薫の名前を呼んだだろう。緊迫の糸が張り巡らされ静寂した場内に響く音はレフェリーのカウントと英三と親父の叫びだけだ。

 薫は打ちのめされた姿のままであり、いくら英三が叫ぼうが薫が大の字になって打ちのめされている現実を動かせやしない。むしろ、青コーナー陣営の悲壮感、ひいては薫の悲壮感を増長させている。

しかし、叫ぶことしか出来ないのなら叫ぶしかないのだ。

 声が薫に届いてないとしても英三は何度も叫ぶ。

 薫の左腕が持ち上がった。ゆっくりと反動を効かせてうつ伏せへと体勢を変えた。両腕で体を支えて上体を持ち上げようとする。カウントは5。

 英三は叫ぶ。薫は歯を食い縛って力を振り絞る。

 レフェリーがカウントを9数えたところで止めた。薫は立ち上がったのだ。ファイティングポーズを取る薫の顔はとろんとし、クロスカウンターを受けた左の頬は瘤となって赤紫色にぷっくらと大きく脹らんでいる。

薫が立っているだけで奇跡だといえた。薫はファイティングポーズを取るので精一杯で、試合再開後動いたのはキョウコだけだ。

 薫のパンチの射程外からキョウコは右のジャブを放ち、形だけのガードでしかない両腕をいとも簡単に貫きパンチが顔面にめり込んだ。

 ジャブは一発では止まらない。そこから2発、3発、4発と続けて発射されその全てが薫の顔面へとめり込む。 

 5発、6発、7発。

 薫の頭は右に左に良い様に飛ばされ、拳圧で豚のように歪み続けるその顔面からは血飛沫やら汗飛沫やら、唾液やらあらゆる液体が霧上に噴かれ舞う。

 ドボッ!!グシャっ!!グシャアァッ!!

 ジャブだというのに打撃音が次第に骨を砕くかのような鈍さにまで増す。もはやキョウコの放つジャブはストレートと化していた。  

 「ぶぼっ!!ぶぼぉっ!!ぶぼぉぉぉっ!!」

 薫の呻き声も打撃音に呼応するように苦しみが増している。顔面は血に塗れて、痣だらけとなった異様な形に変形している顔面は瞳の輝きさえ閉ざされようとしている。

 ブシュウッ!!

 薫の顔面の真ん中に突き刺さったキョウコの右拳が薫の顔から鼻血のシャワーを噴き上がらせた。

 口が開き、目は何も捕えてやしない。

 意識を失った薫が前のめりに崩れ落ちていく。薫の倒れゆく儚げな姿が何もかもの終わりを告げている。

 しかし、フィニッシュブローはまだ放たれていなかったのだ。

 崩れ落ちてくる薫の顔面へキョウコの非情な一撃がぶち込まれ、薫の体を逆に後ろへと吹き飛ばした。

 キョウコのアッパーカットに薫の両足はキャンバスから離れて宙を舞った。薫は背中からキャンバスに落ち再び大の字となって打ちのめされている。

 僅かな希望もすぐさまに砕かれ、英三は力が抜けていき両膝をつき、下を向いた。親父のタオルを投げる姿が目に入る。

 英三はリングへと顔を向けて最後の瞬間を見つめることにした。その瞬間に反射的に投げられたタオルを英三は掴んでいた。

 薫が立ち上がろうとしているのだ。

 クロスカウンターから立ち上がった時が奇跡だったのではなかった。奇跡は今この瞬間なのだ。

 薫が立った。それだけでもう英三には充分だった。原型を留めていない顔、止まらない鼻血、くしゃくしゃになった髪形。何を考えているのかさえ読み取れなくなった奪われた顔の表情。これ以上闘わせるのはもう無理だ。

次、殴られたら今度こそタオルを投げようと英三は決意をする。

試合が再開され、予測どおり、動いたのはキョウコだけで立ち尽くしている薫の顔面に問答無用の右ストレートを放った。後ろはロープ。薫に逃げ道はない。

キョウコのパンチに薫の左腕が動いた。二人の拳が交錯し、お互いにパンチが決まる。クロスカウンターの相討ちは薫が最後に見せた意地だった。

しかし、相討ちではパンチ力の無い薫には分が悪い。しかも、今回は薫がノックアウトされる寸前まで打たれていたのだ。

「ぶぼおぉっ!!」

 薫の口からマウスピースが吐き出され、リング上を跳ねた。薫が前のめりに崩れ落ちていく。

 薫の体がキャンバスに触れた瞬間に試合は自動的に終了となる。薫のダウンは3度目になるからだ。

 崩れ落ちた音が響いた。

 レフェリーが確認し、カウントを取る。

 倒れたのはキョウコの方だった。薫は両足で踏ん張り止まっていた。薫がゆっくりと青コーナーに辿り着き、背中をコーナーにポストにもたらせた。

 英三は呆然とした表情をしていた。薫が相討ちに打ち勝てたことに納得のいく説明がつかない。

薫が打ち勝てたのも奇跡の一つなのか?

 「奇跡じゃない。パンチに耐えることにおいて重要なのは予測だ」

 親父の声に英三が反応する。振り向いた英三に親父が目を合わせる。

 「声が漏れてたぞ」

 そう言って親父はリングへまた顔を戻す。

「パンチが当たると覚悟していれば力を入れて衝撃にこらえることができる。逆に予測していなかったパンチは威力に抵抗できずに脳が揺らされることになる。結果的に二人がパンチを食らう結末になっても相討ちを仕掛けた方と相討ちに持ち込まれた方とでは食らうダメージに差が出るということだ」

 親父の言うことが正しいのなら薫にパンチ力が無いわけではない。相討ちで倒されていたのは相手の罠にははまったから。そして、今は逆に相手を罠にはめてダウンを奪ったということだ。

 しかも、2試合目にして薫がプロのリングで初めて奪った待望のダウンだった。

 このまま寝ててくれと祈るも、キョウコは立ち上がってきた。

 最後になるだろう攻防が始まった。

 薫だけでなく、キョウコの足もスピードがなくなっている。泥酔者のようにふらふらと頼りない足つきで距離を詰めた二人が拳を振った。薫のパンチは闘争本能に任せたかの大きな振りを作る。闘争本能だけが反応をしていたのはキョウコも同じだった。体が前に突っかかりながらガムシャラと言っていい大振りのパンチを打って出る。

 お互い相手に勝ちたい気持ちだけで放ったパンチが交わった次の瞬間、キョウコのパンチが振り抜かれて、薫が吹き飛ばされていた。

 英三は口を大きく開けていた。頭が真っ白になりながら青コーナーに戻ってくる薫の背中を目で追った。

 コーナーポストに体がぶつかり、またも滅多打ちが開始されるのだった。薫のパンチの射程外からジャブが何度となく薫の顔面を打ち抜いた。

バシィッ!!バシィッ!!

 脅威的なスピードだったキョウコのジャブは今や見る影もなくなっているというのに、それでも薫は避けることが出来ずに百発百中でジャブをもらい口から苦悶の声を漏らす。

 13発目のジャブが薫の顔面を打ち抜いた時、鈍い音が響くと同時に一斉に鼻血が激しく噴き出た。

 ブシュウッ!!

 パンチの威力にとうとう耐え切れずに薫は両腕をだらりと下げて前のめりに崩れ落ちていく。血を撒きちらしながら散っていく薫にたいし、キョウコが取った行動が英三の青白い顔色をさらに悪化させた。

 とどめのとどめになるアッパーカットが薫の顔面を襲う。

 「やめろ!!!」

 英三の声に止まるはずもなく、キョウコのアッパーカットが薫の顔面に当たった。しかし、英三の声に反応したボクサーが一人いた。

 それは薫だ。

意識を取り戻した薫が両腕で受け止めていたのだ。薫は右のパンチを振り抜いた。キョウコの頬にぶち込まれ口元を醜く歪ませた。

 グワシャアッ!!

 「ぶへえぇっ!!」

 醜悪な表情から出た醜悪な声が響くと、口から飛び出たマウスピースと仲良くキョウコの体は宙に舞っていた。

 キョウコを吹き飛ばしたパンチは力強さに満ち溢れていた。薫が強く欲していた相手の意識さえも断ち切るだろう強烈な一撃。

長い滞空時間の後にキョウコが背中からキャンバスに落ちた。

 大の字となったキョウコはぴくぴくと震えて身動き一つ取れない。

 レフェリーが身を屈めてキャンバスに血反吐をぶちまいているキョウコの顔を見つめる。カウントを数え始めるものの三つ数えたところで両腕を交差して試合を止めた。

 ゴングが3度続けて打ち鳴らされこの瞬間、薫のプロ初勝利が決まったのだった。







 英三はリングへと入った。

 薫が体をくるりと赤コーナーへと向けた。喜びの零れた笑みを英三達に送る。

 力尽きたように薫が前へ崩れ落ちる。咄嗟にダッシュした英三は薫の体を抱き止めた。

 「やったよ・・英三・・」

 英三の胸元で薫は目を瞑って呟いていた。

 「ああ。薫の勝利だ」

 薫から反応はない。体の方も力がまったく伝わってこない。

「薫!!」





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