第3話

 

 薫が更衣室へと姿を消した。一人取り残された英三は身の置き場所に困り端っこに移動し壁に寄りかかった。

 記者達の会話が自然と耳に入ってくる。記者達の間で情報交換を行っているようだ。女子ボクシングに対する知識を持っている記者はまだそう多くはないのが現状らしい。

 試合まで一週間を切り、下山ボクシングジムではこれから公開スパーリングが行われようとしている。薫はそのために呼ばれた。記者達の前でスパーリングを披露するためだ。タイトルマッチでもないのに、そして、複数の選手による合同スパーと極めて異例な形となっている。

 記者達が賑やかなのも合同スパーへの期待、戸惑いが大きく誘因しているのだろう。彼等の口から出るのは薫と睦月の名前ばかりだ。

 これから、薫と睦月が続けてスパーリングを行うのだから、さしずめ品定め品評会といったところだろうか。薫と睦月の二人どちらがプッシュすべきか見比べる絶好の機会ではある。それはもちろん、下山ボクシングジムの狙いなのだろう。世間の注目を集めるためにはメディアの力が欠かせない。

 英三も薫も親父も合同スパーリングには消極的であった。ショー的要素が強すぎるし、第一薫の精神状態が不安定過ぎてなるべくメディアからは遠ざけたかった。

 しかし、会場を満杯にするためには仕方のないことなのだと下山ボクシングジムから言われてしまっては、承諾するしかない。

下山ボクシングジムも余計なことをしてくれたもんだなと愚痴の一つも零したくなる。

 英三は壁に取り付けられてある丸時計に目をやった。時間は3時50分。スパーリングの開始時刻は4時30分からとまだまだ時間はある。開始時刻は恐らく、記者達には伝えられていないはずだ。知っていたのならなお待たされる時間の長さに文句の一つも出るはずだからだ。

 演出しすぎだよと英三は愚痴った。

すでに睦月は着替えを済まして端で待機していた。その隣には祥子が立っている。

 英三は舌打ちした。

 英三は祥子が好きではなかった。薫と睦月の試合に関する打ち合わせ時に祥子のシビアな面を見せられて以来、身構えて接するようになっていた。

 それに、祥子の新聞の薫と睦月の試合結果を書いた記事も酷いものだった。タイトルからして“水野アキラの娘を強烈KO!!女子ボクシング幕開けの日に新星登場”と薫を水野アキラの娘として扱い、記事本文でも水野アキラの娘であることをしつこく強調し、そして睦月を必要以上に持ち上げようとする姿勢が顕著に見られた。写真も薫のKOされて失神した姿まで載せる必要がどこにあるというのだ。中立な立場で作られた記事とはとても思えなかった。

 嫌な顔を見ちまったと顔を背けてみせた。

 「どこ見てるんだよ英三」

 英三は思わず仰け反り声の方を見た。

 上が白いTシャツ、下を黒いスパッツに着替えた薫が立っていた。

 「驚かすなよ」

 英三の動揺にも薫は特に反応を見せず、

 「椅子に座るから」

 と薫は椅子へと移動する。1週間前ののスパーリング以降、薫は元気がすっかり消え失せて淡々としている。感情を全面に出すタイプなのに闘志がまるで伝わってこない。 

 椅子に座り、薫はバンテージを拳にぐるぐると巻き始めた。バンテージを巻く時は、これからボクシングをする期待感にどこか嬉しそうな表情が自然と滲み出ているのに目の前の薫は憂鬱そうな顔をしている。

 ボクシングを目の前にしてこんな薫の覇気のない姿は始めてだった。

 らしくねえよ薫・・・

 英三は上から薫の姿を見下ろしたまま心の中で呟いた。

 英三は顔を上げる。睦月が薫の目の前に立っていた。彼女は顔に軽い微笑を浮かべた。 

「試合のとき以来だね」

話しかける睦月が浮かべる笑みは勝者の余裕から出る嫌らしいものではなく、ごく自然に顔から出ている感じのようだった。

 英三は戸惑いを覚えた。

 睦月は薫を顔が別人になるほど殴り倒して失神させたのだ。それなのに気まずさを微塵も見せず、気を使う素振りも見えない。もちろん、調子づいた様子でもない。

 彼女は完全に自然体でいるのだ。   

 薫もとまどい、一瞬、間が空いた後に

 「そうだね」

 とつれなく返した。薫は睦月に興味を持っているはずである。睦月が自分のことをライバルと思っていてくれたら嬉しいと常々口にしている。しかし、今の薫には人と話す余裕なんてない。自分のことでいっぱいだ。

 睦月は覗くように薫を見た。

 「調子良くないの?顔色があんまり良く見えないけど」

 「えっそんなことないよっ」

 薫は両手を振り、慌てて否定した。

 英三も心臓が跳ね上がった。

 勘の鋭そうな娘に見えていたが、まさか、一瞬で当ててくるとは。睦月に早くこの場から離れて欲しいと英三は願った。

 だが、睦月はまだまだ離れる気はないようでさらに話かけてくる。

 「スパーリングパートナーは連れてこなかったんだ」

 「連れてきた方が良かったかな」

 スパーリングパートナーは自分達で用意するか、下山ボクシングジムに用意してもらうかの二つの選択肢があった。もちろん、自分達で用意する方が安心は遥かに高いのだが、女子のスパーリング相手ではそうそう都合の良い相手などいない。女子ボクサーの強さを引き立たせるには男では強すぎるし、吉井ボクシングジムには女子のツテがまったくない。そのため、下山ボクシングジムに用意してもらうことのなったのだが、一体どんな相手になるのか未だ分かっていない。

 まあ、端でシャドーをしている女性二人のうちのどちらかだとは検討つくのだが。

 そちらへと睦月が目線を送る。

「薫さんの相手右の人。九条さんっていうの」

 髪の下部分を二箇所に分けて縛っている茶髪の女性だった。体格は薫とほとんど変りなく年齢も同じくらいに見える。

 「強くはないんだよあの人。薫さんと同じでプロボクサーの娘らしいんだけど、だけど全然センスない感じだし。でも、どういうわけか今回、自分からスパーリングパートナーに名乗り出てきて。おそらくは、自分の腕ためしとかで引き立て役になろうという気はないんじゃないかな」

 たしかに様子を見ていると肩を丸めて思い詰めたような表情をしている。

「大丈夫、本気でやってもらった方が逆にやりやすいよ」

 薫がさばさばとした笑顔で返す。

 薫が当たりを見回した。

 「今日は、ジム休みなの?上からも人がいる気配感じないし」

 「休みだけど、でも、最近はこの大きなビル使い余してて。男の人達全員ジム移籍することになったから」

 「嘘っ・・なんで・・?」

 薫が目を丸くした。

 「JBCに喧嘩売っちゃったから」

 「あっ・・」

 薫の口から声が漏れた。

 「うちは大丈夫なのかな・・」

 薫が英三の顔を心配そうに見上げた。

 「大丈夫だよ、薫さん、試合の時だけジムの名前変えるでしょ。うちは誤魔化しようがなかったからだし」

 睦月の言うとおり、次から薫は吉井ボクシングジムでなく、柴田ボクシングジム所属となる。女子ボクシング協会から架空のジムの所属にしといた方が良いと指示が出ていたからだ。JBC加盟のボクシングジムに所属している選手が女子ボクシング協会主催の興行に出るわけにはいかないのだ。

 「九条さん付き合ってる人がうちのジムにいたんだ。それで別々になっちゃったから最近機嫌が悪くなっちゃって。スパーの相手買って出たのもそのせいかも」

 睦月が可愛らしく小さな笑みを見せた。

 「うん、注意するよ」

 薫もつられて笑う。睦月と会話しているうちに薫も気が紛れたようだ。表情が柔らかくなっている。

 睦月が丸時計に目をやった。時間は丁度4時を指していた。

 「そろそろかな」

 「・・・・」

 ドアの開く音が聞こえ、記者達からどよめきが上がった。

ジムの入口には二人組がいる。若い女性が二人。右側にいるのは、薫の対戦相手和泉キョウコだ。



 

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