第4話

 

 薫がリングの中へと入った。手にしてあるマウスピースを口にくわえる。

 薫にジムの中にいる皆からの視線が向けられる。その中には睦月、キョウコ、睦月の対戦相手である大河まである。メインイベントとセミファイナルを務める4人の役者が集められ、合同公開スパーを行うことになっていた。記者達には睦月と薫がスパーをするという事実だけしか知らせていなかった。まさか、公開スパーに対戦相手まで集めるはずがない。そんな常識を覆す展開に当然、記者達は驚きを隠せないでいる。下山ボクシングジムの思惑どおり、俄然、スパーへの関心が高められることになった。

 緊張感がほとばしる空気の中、一番手として薫のスパーが始まろうとしている。

 ゴングが鳴り、薫は左手を差し出した。だが、スパーリングパートナーの相手は薫の腕を振り払うとそのままパンチを打ってきた。不意打ちに薫は対処できずもろにパンチを画面にもらった。

 薫が思わず後ろに下がり、距離を取る。スパーリングパートナーの九条の目つきは殺気に満ち溢れていた。

 英三は自分の目を疑った。たかがスパーなのに不意をついてまで薫にパンチを当てようなんて何考えてるんだ。

 スパーリングでやるべきではないスパーリングパートナーのマナーを破った行為。調整ではなく真剣勝負が行われようとする空気に報道陣から雑音の声が漏れる。

薫も目つきが変わった。体全体でリズムを作り、軽快なフットワークを披露する。

パンチが当たるか当たらないかの距離でのジャブの刺し合い。それは、薫の距離である。リズム良く足と上体を動かし、的を絞らせない。事前に手の内を見せないように薫とは話を決めていた。スパーの相手が薫を倒す気でいようとこちらは今、強さを見せつける必要はなく、2分間が何事もなく去れば良いのだ。

対戦相手の九条という女性は左利きであること以外オーソドックスなボクシングスタイルだった。中間距離からジャブで攻撃の起点を作ろうとする。

 睦月の言葉どおり、ボクシングの実力はたいしたものではなかった。プロボクサーの娘という話らしいが、ボクシング歴も1年程度だろうと英三は判断した。型は出来ているが、それだけである。特になにか思うところはない平均レベルのボクシングで練習の成果を出すだけで必死といったことろだ。 

 それだけに英三が受けたショックは大きかった。

 薫が何度も九条のジャブを食らったのだ。

 あしらう程度でほとんど攻撃する意志のない薫に対し、九条は積極的にジャブを仕掛けていった。手数が多ければ良いというわけではなく、意図の感じられない右ジャブは逆にかわしやすいものだ。なのに薫はジャブを全て対処仕切れず、どうしてという場面で何度もジャブを浴びた。

 4、5発受けたところで薫が攻め始めた。名誉挽回するにはそれしかないと英三も思った。

相手を倒すか、そうでなくてもふらつかせるほどのダメージを与える。

 倒す意志を明確に出した薫だが、それでも信じ難いことに薫は格下相手に互角の闘いを演じる。

 記者達の間からざわざわと言葉が漏れる。

 “どういうことなんだ“

 “水野薫はこの程度なのか”

 薫の実力への不信感。

 記者たちに猜疑の目を向けられたままこのままスパーリングが終了になるわけにはいかない。

しかし、お互いがイージーなジャブを食らう泥試合は続く。これでは名誉挽回どころではなく、ますます猜疑の目は強くなるばかりだ。

 薫もパンチを受けるたびに手数が増えていった。完全に倒そうと躍起になっている。

パンチの威力を高めるために必要以上に踏み込みが強くなる。

 感情任せのボクシングは薫のボクシングではない。基本に忠実なレベルの高い洗練されたボクシングこそが薫のボクシングだ。

 もっと距離を取れと指示を出さなければならないのに、指示を出せない状況が英三をもどかしくさせる。余裕のなさを露呈するわけにはいかないのだ。

 ─────公開スパーだっていうのに何故にここまでハラハラさせらなければならないんだよ。

 両者の距離がさらに狭まり、いよいよ打ち合いへとなる。普段なら距離を取る選択をするはずなのだが、薫は退かずに全力でフックをぶつける。ガードをする暇があればパンチを打つ壮絶な乱打戦だ。

 もはやスパーリングではない。これは試合だ。

 お互いが相手を倒すという意志を持っているがためにガードを捨てて打ち合っている。

 どんな泥試合になってようが薫は技術を無視し、必死になってパンチをぶつけていく。歯を食い縛り、ムキになってパンチを出す。

薫はパンチを受け過ぎている。スパーに勝ってもこれ以上打たれたら試合に響いてしまう。

流石にこれ以上打ち合いを続けさせるわけにはいかなかった。

「もういい、打ち合うな薫、離れろ!」

しかし、英三の指示は薫の耳には届かず薫はなお無茶な打ち合いを続けた。

 グシャッ!!

 打ち勝ったのは薫だった。九条が一歩後退する。薫はすかさず、距離を詰めて、相手を倒すべく右フックを放った。

 まだ完全に相手がグロッギーとなったわけではない。危険は承知の上。それでも、相手を倒そうと薫は攻めに出た。

 その賭けが裏目へと出てしまった。九条の執念がクロスカウンターの相討ちを呼び起こしたのだ。

 グワシャアァッ!!

 薫の右頬には深々と九条の左フックがめり込まれている。パンチの圧力に口が不恰好にこじ開けられ、口からは白いマウスピースがはみ出している。ぷるぷると体が震え、パンチによって片目が潰され、残されたもう一つの瞳は何も捕らえることが出来ないでいる。

 この時点でもはや、薫は九条に負けたも同然だった。九条は薫の右フックで頬を潰されながらも闘う視線を薫にぶつけていたからだ。

 「ぶはあぁっ!!」

 耐えられずにマウスピースを吐き出したのはやはり薫だった。透明な唾液に包まれてキャンバスを跳ねたマウスピースは転がってキャンバスの外へと落ちていく。

 薫がゆっくりと後ろへ倒れ落ちていく。

 背中を激しくぶつけて、もんどりを打った薫が一度体が波打ちし、それっきりぴくりとも動かずに大の字になっている。

 一斉にカメラのシャッターの光が薫に集められた。

 英三はリングへと入る。

 ────これ以上薫を晒しものにできるかよ。

 目の前で体を屈めると、薫の体は細かく痙攣していた。

 口が開けられ目の焦点が定まっていない。まさしくそれは敗者の姿だった。

 英三に気付いたのか、薫は口を動かそうとするが、あががと声にならない声が漏れるだけだ。

 「薫、喋ろうとするな」

 それで薫の口が止まる。しかし、痙攣はなお続くのだった。



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