第5話
体の回復した薫は端の長椅子に頭を垂らしたまま座っている。
4人ともスパーリングは終わり、記者達の質問の時間となった。しかし、とても記者達の質問に応じられる状況ではなく英三は記者の群れを追い払った。
肩を落として落ち込む薫にかける言葉など何もなかった。ジムの中央ではシャッターの音と記者と選手の会話で賑っているだけに隅のこちらが余計に暗く感られる。4人の中で1人だけ蚊帳の外になっている状況は惨め以外の何物でもなかった。
「着替えて帰るか薫?」
もう用は済んだのだからこれ以上この場にいても仕方ない。薫は全く反応を見せなかった。
両手を椅子に付けて床を見つめている薫の顔は英三にはとても寂しく感じられた。
「水野選手の印象はどうですか?」
薫の名前が聞こえ、英三は記者たちのほうへ顔を向けた。キョウコが質問を受ける番になっている。最後のスパーを終えたばかりのキョウコはまだスポーツドリンクを右手に持って飲み喉の乾きを癒していた。といっても彼女がスパーをした時間は僅か1分。その時間内に右腕だけで相手を倒してしまったのだ。恐るべきサウスポーという印象が強烈に残っている。
キョウコが缶を置く。
「水野選手もボクシングを7年続けていると聞きました。長さは私と同じです。しかし、リングに上がろうとせず、ぬるま湯に浸かった中で練習していた人間とどんな条件であろうと呑み、リングの上に身を預け続けてきた私とでは7年の重みが全く違うものでしょう。それは先程のスパーリングで証明されました。水野選手はプロボクサーでない女子に失神させられた。同レベルの相手を私は1分で倒した。水野選手が私の相手に相応しいとは到底思えませんね」
薫が顔を持ち上げてきっと睨んだ。
「では、対戦を承諾したのは?」
「プロの厳しさを教えるためです」
「胸を貸すということですね」
「そんな生易しいものにはならないでしょうね。私は手を抜くことを知りません。それゆえ私と水野選手の間にある実力の差では水野選手の選手生命の危機に繋がるダメージを負う可能性も決して否定できないでしょう。悪いのはミスマッチを組んだ協会です。話題性だけを先行させてこのような無謀なカードを組むべきではない」
キョウコの言葉に英三の心が敏感に反応した。
“無謀なカード“
思い出しくない記憶が再生される。
ノックアウトされた親父の姿。
試合が終わった後もリングの上で大の字に寝たままの親父の姿。
息が詰まり大声で叫びたくなってくる。
突如、薫が椅子から立ち上がる。
「おっ・おいっ・・」
英三の呼びかけに答えず、薫はものすごい剣幕で報道陣の山を払いのけて、キョウコの前に突っかかっていった。
鼻息が当たるだろう距離まで距離を詰め寄り、おでこ一つ分高いキョウコを見上げて睨む。一瞬即発の空気を作る二人にシャッターの光が集められた。
動揺していた英三はどうすればいいのか判断ができないでいた。
「遠いところから愚痴愚痴言わないで目の前で言ってみろよ!」
目の前で睨みつけられてもキョウコは動じずに言い放った。
「あなたでは私の相手にはならないと言ったのです」
「そんなの試合するまで分からないじゃないか。分かりもしないこと、やる前から好き放題言うなんて卑怯な奴がすることだ。どうせ負けたとしても負け惜しみ言って負けを認めないんだろ」
「私は負けません。叩きのめされるのはあなたです。それがボクシングを見る目がある者なら誰もが疑うことのない結果なのです」
冷静に、それでいて強くきつい口調でキョウコは言い返す。
キョウコのセコンドが割って入った。続いて英三も薫の肩を掴んで引っ張った。
「痛いって英三、放せよ」
「ほら」
薫の望むとおり、英三は手を放す。
「あいつが悪いんだ」
「分かってるよ。俺も見てて気持ち良かった。いつもの薫だよ」
「分かってるじゃん英三も」
薫が笑って英三の胸を小突いた。
英三も笑うもののこれで薫の闘志も回復したのなら良いだのがと思った。
選手達への質問も終わり、薫が帰る仕度を整えた。
先に着替えを済ませたキョウコがまだ帰っておらず、ようやく帰ろうとしていたので英三は待つことにした。
キョウコがジムを出ようとしたところに睦月が道を塞ぎ立った。睦月から特に表情は感じられず何をしようとしているのか英三には検討もつかなかった。
「なにか用ですか?」
睦月が右手を出した。握手かと思いきや、右手には缶が握られている。
「空き缶をジムの中に残したままにしてはダメだよ」
よく見ると先程スパーを終えた後でキョウコが飲んでいたスポーツドリンクと同じものだ。
「変ですね、きちんとゴミ箱に捨てたつもりでしたが」
「ここは公衆の場じゃないから、きちんと捨ててもダメな人はダメってこと」
キョウコが呆れかえったといわんばかりに目を瞑り首を横に振った。
「くだらない嫌がらせですね。あなたにも幻滅しました。その行為は宣戦布告として受け取ります」
キョウコが右手で缶を受け取ると、睦月が道を開けた。キョウコは鼻を鳴らしてジムを出る。
睦月は薫のために少しでも抵抗してくれたのだろうか。子供っぽい振る舞いだったがそれでも嬉しいことに変りはなかった。
睦月が今度はこちらにやってくる。
「見てて気持ち良かったよ」
と薫は睦月にお礼を告げた。
「あれ?別にそういうわけじゃないよ」
睦月が無邪気な笑顔で違う違うと手を振った。
「じゃあ、どういうこと?」
「ちょっと確認したかったことがあったから」
「確認って?」
「薫さん、媛子お婆ちゃんが呼んでるよ」
睦月は質問には答えず視線を向ける。視線の先を英三も見ると、とても老人とは思えないすらりとした立ち方をしたお婆さんがいた。
「誰なの?」
薫が訊ねた。
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