第7話

 

32歳で親父は世界挑戦の権利を再び手にした。それは英三にとって予期していなかった出来事であり、驚きのあまり呆然とした。

諦めちゃダメだ、おじさんは世界チャンピオンになれると薫に力説されても英三は満身創痍の親父には到底無理なことだと諦め切っていた。

いや、むしろ薫がムキになって言うほど英三に現実に目を向けさせていたのだった。

しかし、親父の世界挑戦が決定して以降は英三も柄にもなく興奮するようになっていた。悲観的な考えばかりしていても実のところ、親父には世界チャンピオンになって欲しかったのだった。

俺も信じなきゃ。

 薫を見習って前向きに考えた。信じる気持ちが重要なんだと願い続ける。

一方で、業界からは非難の声も少なくなかった。

 日本人でライト級の世界チャンピオンになったボクサーは二人しかいない過去のデータ、しかも、親父の年齢は32歳とボクサーとしては年を取り過ぎていた。

その逆境が親父を応援してやらねばという気持ちにさせるのだった。

世界戦当日は会場で英三は薫と薫のおじさんの三人で1列に並び親父の勇姿を見ることになった。

 「おじさんは負けないよ。絶対に勝つ」

 薫の言葉には何の根拠も保証もない。勝手に思いこんでいるだけだ。でも、英三も薫に同調し、親父が勝つと、目の前で奇跡を起こしてくれると信じていた。

 ドキドキと胸が張り裂けそうにながらも試合開始のゴングを聞く。

それから、20分も経たないうちにタイトルマッチはあまりにあっけなく終わった。わずか、4Rで親父はKOされた。10分程度の試合。それでも英三には耐えられない長さであった。

英三の顔がクシャクシャになる。涙を堪えようとしてもボロボロと頬を落ちていく。

1Rからサンドバッグとなり相手のパンチを一方的にもらい、ボロボロにされた挙句、リング中央で大の字に失神した父親の姿は11歳の少年にはあまりに強烈すぎた。

こんな残酷な結末があって良いのかと英三は現実を恨んだ。

英三はその日からボクシングが嫌いになったのだ。

 

 忌々しい光景が脳裏によぎる。あの時と同じだと思っているのだろうか。水野薫対和泉キョウコが無謀なカードだと。

 キョウコは薫との試合を無謀なカードだと切り捨てた。二人のプロの実績だけ見ればたしかにそうだ。キョウコが7戦6勝1分けなのに対し薫は1戦1敗で1勝すらあげていない。

だが、二人のボクシング歴には差がない。その間に薫がしてきた練習が男と引けを取らない厳しいものであったことも直に見続けてきた。薫が劣っているなんてありえない。

だが、それも薫の体調が万全ならばの話だ。

 合同スパーリングで薫はダウンを喫し、どん底の状況に陥った。その合同公開スパーリングの後、女子ボクシング協会会長と話をし戻ってきた薫はそれまでの曇っていた表情とは一転して晴れやかですっきりとしたものになっていた。

 薫から女子ボクシング協会の会長とした話を聞いて英三は薫の変化に納得がいった。薫が欲していた舞台を会長は与えてくれたのだ。決して、中途半端には終わらせはしない希望が詰め込まれたリングだ。

 薫は迷いが吹っ切れたと断言した。たしかに、薫の顔は晴れやかではあった。

 通路の横を女子ボクサーとそのセコンド達が通りすぎた。そのボクサーは顔をタオルで隠していたが、肩を震わせておりしゃくり上げているのが分かった。ちらりと見えたタオルの中はボコボコに腫れ上がっているまさに敗者の顔があった。通夜のように暗い陣営達の空気がたちまちに通路中に広がっていくようである。顔の腫れ具合からしてKOされた可能性は高い。

 彼女の試合も無謀なカードだったのだろうか・・・

 彼女の寂しい背中を見届け、英三はまた通路を進む。控え室に到着し、ドアを明けると薫はウォーミングアップを終わらせて椅子に座っていた。両手にはボクシンググローブがはめられており準備は万端のようだった。

 ドアの音にも薫は反応せず、顔を伏せ目を瞑っていた。近寄り目の前で止まると薫が顔を持ち上げた。

 咄嗟に心を構えた英三に薫は力に満ちた表情を向けた。

 「眉間に皺寄ってるぞ、英三」

 声にも力が入っている。

 「心配するなって、オレが勝つんだから」

 薫は軽く胸を小突いた。薫の表情は勇ましいというのにそれなのに頼もしく思えなかった。それで自分の気持ちに気付いた。

この半年で英三の中で薫が群を抜いて強い女性という認識は崩されてしまっていた。2度も女性相手にキャンバスの上で失神させられた姿を見せつけられたからだ。薫に絶対的な強さがあるわけではないことを知ってしまった。まして、薫の対戦相手は最強の日本人女子ボクサーといっても過言ではない。

 もはや薫とキョウコが互角だとは言い切れなくなっていた。それどころか、無謀なカードじゃないとも言い切れない自分にやるせなさを英三は感じた。

「どうしたの?」

 薫が不思議そうに視線を向けてくる。よっぽど、変な表情になっていたのだろうか。

「別に」

英三は顔を背けた。

薫が試合に勝つか依然に果たして試合になるのかと考えていたことが薫には申し訳なくて顔を合わせられなかった。

 

 キョウコは目を瞑っていた。左手にはボクシンググローブをはめ込まれている感触が伝わってくる。トレーナーの麗奈にグローブをはめてもらっているところだ。

 いつも試合間の前には目を瞑り、精神の集中を図る習慣がキョウコにはあった。それはボクシングの試合だけじゃなく、剣道をしていた時から続けていた。心と技が噛み合ってこそ最高の技が繰り出せるとキョウコは常々考えている。

 「体調はどう?体のつやは悪くないように見えるけど」

 「上手く調整は出来ました。例によって愚直な男どもに足を引っ張られはしましたが」

 試合前、スパーリングをしたくリングが空くの待っていたというのに無視されて抜かされたことが何度となくあった。

男が優先してトレーニングの場所を使えるという不文律がキョウコのジムにある。キョウコはその件で何度も男達と揉め事を起こしけっして退かなかったが、会長の言葉の前にはどうしても食い下がらなければならなかった。

 「新しい会長が頭の固い考えの人だからね」

 「もう慣れたことです。それに劣悪な環境もボクサーにとって大事なハングリー精神を鍛えるのにはプラスに作用します。水野薫にはけっして理解できないことでしょう。2世ボクサーとしてたいした苦労もせずに大舞台に立てた彼女にハングリー精神など」

 キョウコの頭に浮かび上がる水野薫の顔。それは、小憎らしい生意気な顔つきでこちらを睨みつけていた。彼女は若い頃から世界チャンピオンの娘としてちやほやとされすっかり思い上がっているのだろう。

 自分は相手の顔面めがけてパンチを射抜くのみだ。倒れるまで何度でも射抜く。

 今日は日本で初めて行われる女子単独のボクシング興行。その記念すべき日をついに迎えることができた。キョウコは剣道を捨ててまで女子ボクシングが日本でもプロ化する日がくるために闘い続けた。今日という日のために7年間を捧げてきたのだ。

 ────2世ボクサーというだけで記念すべき舞台に上がれる水野薫には私の苦労など分かりしやない。客寄せパンダの水野薫には負けてはならない。女子ボクシングをさらに発展させていくためには真の強者が必要なのだから。

 目を開ける。キョウコを囲むのはトレーナーの麗奈だけだ。他には誰もキョウコのセコンドにつく者はいない。JBCと対立している女子ボクシング協会の興行に選手として出るキョウコはジムにとって迷惑でしかない存在なのだ。今日の試合も麗奈が会長に頼み込んだおかげでなんとか出させてもらえることになった。

 二人だけの孤独な闘い。

 ─────男の助けなど私には必要ない。

 氷のように冷たい表情を作り、キョウコは立ち上がり、闘いの場へと向かう。

 

 薫は御馴染みのボン・ジョビのイッツマイライフを入場曲にリングへと向かう。薫に対する客の反応は今日も大きかった。デビュー戦で負けたとはいえ、薫への関心は薄れたというわけではなさそうだ。もしかすると、薫のガッツが客の心を捕らえた効果なのかもしれない。

 英三がロープの幅を大きくし、薫がくぐってリングに入った。

 音楽が変わる。クラシックが劇的に鳴り渡る(カール・オルフのカルミナ・ブラーナ)。上品なようでいて強烈なまでに激しく奏でられる壮大な音を背にし、フード付きのガウンを着たキョウコが花道に姿を現した。観客の反応は薫と比べると幾分、落ちている。

 キョウコがリングの中に入り、闘う役者がいよいよ揃えられた


 


 キョウコは手馴れた動作でガウンを脱ぐと、両手を下ろし微動だにせずにすらっと立ったままだ。シャドーなどで体を動かそうとはしない。彼女の振る舞いからは力みや、緊張が一切伝わってこない。力みがまったくない自然体なのだ。これが海外で揉まれてきたキャリアなのだろうかと英三は感じた。ちょっとやそっとの舞台では臆しない。しかし、表情だけは別だ。薫に向けられている突き刺すような視線は殺気に満ち溢れている。

リング中央へと闘う二人が呼ばれ対峙をした。

薫は見上げて熱い闘志を、キョウコは見下ろして冷たい視線をぶつける。

燃えたぎる赤い炎と蒼白い炎。薫とキョウコの目には対照的で、それでいて共通するお互い勝ち気な眼光がある。

一瞬即発的な空気。女同士の馴れ合いなど微塵も感じさせない睨み合いにこれから潰し合いが始まるであろう予感を感じ取ったのか観客席から二人に喝采が飛ぶ。

 「よくこれだけの客が集まったものです。これもあなたの人気ゆえでしょう。しかし、あなたを観にきた客はあなたの実力の低さに失望する。この大勢の観客があなたが所詮は客寄せパンダであった事実の目撃者となるのです」

 「愚痴愚痴と女女しい奴だよ。オレに嫉妬してるならそういえばいいんだ」

 キョウコの眉間に皺が寄った。

「当たりだね」

 薫が笑う。

  キョウコはフンと鼻を鳴らした。

 「時期に分かります、あなたには私と闘う資格などないことを」

 そう言い放ち背を向けて赤コーナーへと返って行く。

 青コーナーへと戻ってきた薫に対し、

 「よくまああの理屈女を言い負かせたもんだな」

 英三は言った。

 「ざまあみろだよ」

 得意げな表情を見せる。やはり、精神的な迷いは消えているようだ。それでもまだ闘志が力みに繋がっているのではないかといった点が気がかりだ。

 「挑発には乗んなよ」

 念を押しておく。

 「分かってるよ、英三」

 「英三の言うとおりだ。左で自分のリズムを作れ」

 親父の指示に薫が声を出して頷く。マウスピースもくわえられて殴り合いの準備は出来上がった。

 第1Rのゴングが鳴った。

 ゴングの音と同時に薫は飛び出して行った。対照的にキョウコはスローテンポでコーナーから出る。

 薫はキョウコの右のジャブを警戒して、事前の対策どおり、反時計周りに円を描いて移動する。右手から遠い位置を取ることでジャブを打ち辛くさせるのだ。スピードに乗って薫は早くもジャブを連続して打った。先手先手で主導権を自分のものにしようとしている。本来持っている薫の華麗でいてアグレッシブなアウトボクシングが目の前では展開される。薫は完全に吹っ切れ、スランプから脱出したようだ。

 久々に薫の洗練されたアウトボクシングを英三は目にすることになり、薫のボクシング技術の高さを肌で感じ取った。スピード、リズム、フェイントどれを取っても男子に引けを取らない。リングの上に立つ薫は輝きを放つ。本気の薫はやはり女性のボクシングレベルを超えていると英三は思えてきた。

 観客席からも拍手と喝采が飛ぶ。おそらくは、本日の大会でこれまでリングに上がったどの女子ボクサーよりも遥かに上のレベルのボクシングを展開しているからに違いない。この程度かと自然と出来上がっていた線引きが一気に崩されたのだ。女子のレベルは想像していた以上に高いのだと認識の修正がされようとしている。それはキョウコの手によるものではない、薫一人の手によるものだ。

 薫ペースの試合展開に気を良くしていた英三だが、やがてリング上の異変に気付き始めた。薫がこれまでに放ったパンチは20発以上だ。その全てのパンチがキョウコにはかすりさえしていないのだ。

 手を出していないんじゃなくて、出さないでいるだけなのか? 

 浮かび上がる懸念の的中を後押しする事実にまた英三は気付く。キョウコの体からは汗が一滴も流れていない。逆に、薫の体は汗が無数に噴き出し、呼吸までが早く荒くなってきていた。

 「これがあなたのボクシングですか?」

不敵にも落ち着き払った声だった。

 「だったら何だって言うんだ!!」

 対照的に1分半以上、相手のペースで振り回された薫は顔をしかめながら声を荒げた。その顔面にパンチがめり込み、薫の顔面が苦痛に歪められた。

 ズドォォッ!!

 キョウコの右のジャブが一閃、薫の顔面を鮮やかに捕えたのだった。

 薫が何十発と打って体に当てることさえ出来なかったというのに、キョウコはたった1発のパンチでクリーンヒットをさせた。この事実が意味するものを英三は分かっていた。分かっていながら、認めることなんてできない。それでも心は反応し、ずしりと重くなっていく。

 薫の鼻孔からたらりと一筋の血が流れ落ちた。口をぽかんと開け、呆然とした表情のまま立ち尽くしている。ややあって、薫の目線が下へと移された。鼻血へと意識がいっているのだ。

 その姿を見て、キョウコは満足げに口元を吊り上げる。

右のパンチがさらに2度薫の顔面に叩き込まれた。

もうキョウコの顔から笑みは消えていた。薫の動きを追うキョウコの目は叩き潰す意思が明確に表れている。

目からひしひしと伝わってくる殺気に今は、距離を取り逃げるべきだと英三は感じ取った。体勢を立て直してからでないと太刀打ちできない。

だが、薫は戦況を把握していなかった。闘志を声にして表してパンチを打とうと踏み込んでいく。

その瞬間を待ってましたとばかりに狙われた。

グワシャァッ!!

狙い済ましたようにカウンターパンチが薫の頬にぶち込まれてしまった。

しかも、薫の左腕とキョウコの右腕が十字架を切り、クロスカウンターとなっている。

数倍に脹れ上がったパンチの威力に薫の体はぷるぷると震えていた。

二人の腕が交錯し固定してしまい薫が倒れるに倒れないでいる。

キョウコのパンチが頬にぶち込まれままで、薫はいつまでも口からマウスピースをはみ出させて顔を豚のように歪ませて立ち続けている。

 「あがぁっ・・」

 拳が薫の頬をぐるりと抉り、薫の口からは間抜けな声が漏れた。薫の右腕がだらりと下がり、薫はゆっくりと後ろへ崩れ落ちた。






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