第8話
大きな音が会場中に響き渡り、薫は大の字となった。
1R早々のダウンに英三は顔が青ざめていくのを感じた。しかも薫は大の字のまま動けないでいる。早くも深いダメージを負ってしまってノックアウト負け寸前なのだ。
カウントスリーとなったところで、ごろりと体を回転させた。このまま動けないで倒れたままであったらレフェリーがカウントを止めていたかもしれなかった。
それでも、土壇場の状況は続く。
薫は両腕に力を入れ、必死になって立ち上がろうとする。薫の体の下のキャンバスには汗が溜まっていく。
カウント9で薫はぎりぎり立ち上がった。
立ち上がれたものの表情は苦痛に歪められている。試合再開と同時にキョウコがダッシュしてパンチを放つ。
ここで、ゴングが鳴り、キョウコのパンチは薫の眼前で止められていた。呆然と突っ立つ薫にキョウコはふふっと笑みを浮かべる。
「あなた相手に左腕は使うまでもないですね。あなたを倒すのにはこの右のパンチだけで十分です」
自信たっぷりと言い放つと背を向けて赤コーナーへと帰った。
薫は反論しなかった。
薫の元に近寄った英三の呼びかけにも反応せずに顔を覗くとまだ呆然としたままだった。あまりの実力差にショックを受けてしまっているかのようであった。
コーナーに戻ると薫は椅子にどさっと腰をかけた。両肘をロープに乗せて、ぐったりと背中をコーナーポストに寄りかからせる。
1R終わっただけだというのに薫は疲れ切っていた。
虚ろな目。
乱れきった呼吸
止まらない汗。
薫のグロッギーにさせられた姿がどうしても英三には納得出来ずにいた。たった一発とはいえクロスカウンターなのだから、相当な威力にはなるだろう。しかし、薫が受けたパンチは女のしかも、利き腕でないパンチなのだ。ダウンだけならまだしも、グロッギーとなるほどの威力を与えられるとは信じ難い。
つまりは信じ難いほどのパンチ力をキョウコは持っているということだった。下山睦月のように女離れした威力を。利き腕である左のパンチを受けたらと思うと英三はぞっとした。キョウコは左を使うまでもないと言った。勝つとしたらその慢心の隙を突くしかないのかもしれない。
「はぁっはぁっ!!」
薫の吐く息はまだ荒れたままだ。
ダメージだけでなく、体力の面でもやばいのが目に見えて分かる。
この異常なまでの消耗は、空振りを続けさせられたことくらいしか思い当たらない。相手のペースで振りまわされているからだ。
1Rからこの調子でどうすればいい?
親父はガードを固めて距離を取れと指示を出しているが根本的な問題の解決にはならない。その場を凌ぐための守りでしかない。
英三は思考する。
ジャブの刺し合いでは歯が立たなかった。格の違いをまざまざと見せ付けられ、ダウン、そしてグロッギーにさせられてしまった事実から目を背けるわけにはいかない。
接近戦という選択肢が浮かぶ。
自分のスタイルを捨てる。それは逃げなのだろうか。
薫がこの作戦を受け入れるとは到底思えなかった。それでも言わずにはいられなかった。次のR薫が青コーナーに戻ってこられる保証なんてどこにもない。
「相手の右を封じるなら接近戦もあるぞ」
薫が辛そうに首を持ち上げてこちらに顔を向けた。
「英三、オレは親父のボクシングが大好きなんだ。アウトボクシングで負けるわけにはいかないよ」
薫が英三の顔をじっと見つめる。
“オレのボクシングを信じてくれ“
薫の真摯な瞳はそう訴えかけていた。
英三は頭を掻いた。
結局、薫のボクシングにかける思いの深さを思い知らされるはめになってしまった。
不器用なボクシング馬鹿。
薫はそういう奴だ。
英三は苦笑した。
だったらせめて俺たちだけは信じてやらないと。
「俺が弱気だった。信じるよ」
英三の言葉を聞いた薫の顔から微笑が零れた。
リングの上とは場違いな温かく純な表情。
信じてくれたことへの最大限への感謝が滲み出ている。
不覚にも心が動揺した。
試合をしている最中だっていうのにくそっ・・
動揺している英三をよそに薫はまた闘志の込められた表情に戻した。
第2Rが始まり、青コーナーを離れていく薫の背中を見守った。
まだ試合は始まったばかりだ。1Rの攻防で何が分かる。薫のアウトボクシングだってまだこんなもんじゃない。やられっぱなしで終わるはずが・・・。
期待は、ものの数秒で裏切られる。
バシィィッ!!
高く弾けた音と供にコーナーを飛び出たばかりの薫が吹き飛ばされて青コーナーに戻ってきた。
キョウコはコーナーに追い詰められた薫を殴りにいこうとはせず、薫に余裕を見せつけている。
「くそっ」
薫がぼそっと吐き捨てるように言ったのが聞こえた。
またしても、薫がダッシュしてキョウコに向かっていく。
頭に血が昇って薫が冷静な心を忘れてしまっているのは表情を見なくたって分かる。
「薫、落ち着けよ!」
英三の言葉にも薫は止まらない。
───────キョウコの余裕は挑発なのだ。その先には罠が待っていることも分からないのか。
薫が放つ左ジャブをキョウコが楽々さばくと右のジャブを薫の顔面に打ち込んだ。1発、2発、3発。
薫が打ち返すもあっさり避けられ、その隙にまたジャブの3連打。
ズドォッ!!
ビチャッ!!
血がまたしてもキャンバスに飛び跳ねた。
キョウコのパンチはジャブだというのに1発の音がストレートのように重い。威力の高さは薫の頭の吹き飛び方からしても明白だ。
薫の顔からは鼻血が流れ、肩で息をする。
薫が前に出たところに直進を止めるキョウコの右ジャブ。それでもまた出ようとしたところに右のジャブが薫の顔面に当たり、前進が阻まれる。
薫が攻撃に移ろうとするところにキョウコのパンチが飛び、断ち切られる展開が続いた。薫は何も出来ずにいるのに、それでも懲りずに前へ出ようとしてパンチを顔面に浴びた。大人が子供を良いようにあしらっているとしかいいようがなかった。
薫はムキになり過ぎている。
─────もっと冷静になれ。
ようやく薫が左ジャブをキョウコにガードさせた。そこから果敢にパンチを放つ。パンチをヒットさせたわけではないというのに、パンチがキョウコのガードの上に当たっただけで試合を挽回しているような錯覚を受けた。
英三はそれで決定的な事実に気付いた。今まで薫のパンチはキョウコの体に一度たりとも触れてさえいなかたったのだ。
グワシャアァッ!!
拳が交錯された直後、血がキャンバスの上に巻き散った。
薫の攻撃がまたも断ち切られている。
この試合2度目となるキョウコのクロスカウンターが薫の顔面にぶち込まれたのだ。
1Rの時以上に破壊力に満ちている感じさせられるのはパンチがめり込んでいる薫の顔面からなおも大量の血がボタボタと流れ落ちているからだった。顔面がパンチに潰されて表情は見えてこないが、拳と顔面の狭間から流れ落ちる血の量は尋常ではなかった。
呆然と戦慄の光景を見つめている英三は心の底で感じてしまった。
冷静になればどうにかなる次元ではなかったのだ。
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