第7話

 カウントが5を数えられた。薫は仰向けだった体をごろりと反転させて両腕の力で上体を起こした。薫の体からは無数の汗がキャンバスへ滴り落ち、息遣いは英三の耳にまで聞こえてきそうなほどに乱れている。
 薫は必死になって立ち上がった。
 カウントは8。試合が再開されると、睦月がすぐさま距離を詰めて両腕をぶんぶん振り回した。薫は両腕を顔面の前に持っていき、亀のように体を丸め、ラッシュに耐える。睦月のパンチをガードの上から受ける度、薫の体は揺れ、背中がロープに食いこむ。場外に落ちていくのではないかと思わせる圧力だ。





 高らかにゴングの音が鳴った。その音と同時に睦月の連打がぴたりと止まる。睦月のラッシュから薫を解放させたのは1R終了のゴング。その事実が太郎の心を重くさせる。なんでこうなってしまったんだと誰かに叫びたくなる。
 薫は鼻血を滴らせながら赤コーナーに戻ってきた。胸元には赤い染みがいくつも出来ている。薫の瞳は一点に定まらず落ち着き無く動き回っていた。
英三の出した椅子に座ると、前屈みになり、首を傾けた。薫の顔は目だけで無く唇も落ち着き無く動いており、不安一杯で迷子になった子供のようであった。デビュー戦で1Rからダウンという最悪の立ち上がりとなったのだから動揺するなという方が無理な話だ。
英三はタオルで薫の顔から流れる鼻血を拭き取った。拭い終えて白いタオルを見ると赤く染まっている範囲の多さに息を飲んだ。
 止血が済むとまたしても薫の首は下がった。
 このままじゃまずいと思い親父に顔を向けると、親父は薫の即頭部を両手で触り、下がっていた頭を持ち上げた。即頭部を持ったまま親父は微笑む。
 「薫は薫だ。自信を持って自分のボクシングをすればいい。パンチは当たっているんだ」
これが貫禄なのだろうと英三は感じさせられた。落ち着きと余裕、温かさが入り混じった親父の言葉を聞くと安心した気分になれる。
 「はいっ!!」
 薫は元気良く返事をした。迷いは吹っ切れたようだ。
第2Rでも、薫は第1R同様に攻めのアウトボクシングに撤した。睦月のパンチが強烈であることをその身で持って体験しても萎縮しない。
 薫のアウトボクシングに対し、睦月は構うことなく前進を繰り返した。一発狙いのパンチを連打で打っていく。その恐れを知らない豪快なパンチの軌道に一発空振るごとに英三は息を呑んだ。
 1R同様に薫の左ジャブは睦月の顔面にヒットする。このRだけで10発以上のジャブを当て主導権を握りつつあるかと思ったその瞬間、薫のジャブを受けながらも睦月は構わず距離を縮め、左のアッパーカットで薫の両腕で守られたガードを打ち崩した。がら空きとなった薫の顔面に睦月の強打が爆発した。
 ドガァァッ!!ドボォォッ!!グシャァッ!!バキィィッ!!
 それは数秒の出来事だった。ほんの2、3秒程度。その間に薫の顔面に睦月のパンチが5発打ち込まれ、薫の頭が右に左に凄まじい速さで吹き飛んでいった。まるでパンチングボールを弾き飛ばしているかのような光景だ。
 薫はたまらずクリンチで睦月に抱きついた。
 睦月はクリンチを振り解こうともせずにその場に微動しないで立っている。胸のあたりで息を荒げている薫の顔を表情変えずに見下ろしていた。
 好きなだけ休んでいいよ。
 そう言っているかのようだ。





 この一連の光景で英三は睦月の強さは薫よりも数段上であることを認めざるを得なかった。
 それは英三だけではなく観客も、この試合を見ている者ならば誰もが感じていることだった。
 そのせいで場内の空気が乾き切っている。
 水野アキラの忘れ形見水野薫は女子ボクシングをリードする存在でなければならない。今日という日はその始まりに過ぎない。焦点は薫がどういった勝ち方を見せてくれるのか。女子ボクシングに期待を抱く人間ならばほとんどが薫と睦月の試合をそう捉えていたはずだ。
 この試合の主役、いや、今日の主役は水野薫なのだ。薫が負けてはいけないと無意識にそういった思いが観客の間に働き、薫を応援しなければならない作用が生まれてきていた。つまり、睦月の優勢は観客にとって望まれていない展開なのである。
 薫が負けることがあってはならない。
 それが観客の間でほぼ統一されている意思だ。
 追い詰められた主役、薫は果敢に左ジャブで睦月を攻め立てていく。だからといって厳しい状況は変わらなかった。相手の体に深いダメージを刻む強烈な打撃音は睦月の豪快なパンチからしか響いてこない。




                                                            

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