第6話 壁にもたれながら英三は薫の様子をずっと見ていた。薫は椅子に座って目を瞑っており、集中力を高めようとしているように伺えた。
「そろそろグローブをつけるか?」
「はい」
拳にグローブをはめられテープがぐるぐると巻かれている間、薫は嬉しそうにしていた。
グローブをはめているのとはめていないのではやはり気持ちの持ちようが変わってくるのだろう。
薫はグローブががっちりと固定されると、左右の拳同士を押し付けてグローブのナックルの感触を確かめた。スパーリングの12オンスと違い試合用は8オンスだ。グローブをつけることによって裂傷を減らす効果はあるが、逆に腫れやすくなったり、脳震盪を起こしやすくする効果も生み出す。グローブが攻撃力の低下ばかりに作用するわけではないのだ。
薫は立ち上がり、壁を向いてシャドーを始める。暫くして、係りの者が部屋に入り、出番を告げられた。
「準備はできたか?」
「はいっ」
振り向いた薫の顔は適度に緊張感を含んだボクサーの顔になっていた。
親父がドアを開け薫、英三と続いた。通路を歩いているとその奥からはBGMが聞えてくる。その音は扉に近付くにつれ大きくなる。体の芯にまでずしりと響くメロディ。確認するまでもない。QueenのWe will rock youだ。
音楽が鳴り止むと、今度はBon joviのIt's my lifeが流れ始めた。薫が愛聴している曲である。
扉を開け試合会場に入ると歓声と拍手が沸き起こっていた。第5試合では考えられないほどの盛り上りである。それだけ観客の注目を集めているわけであり、女子ボクシングを受け入れられていることでもあった。
白けた空気が漂う中で試合しなければならない最悪の事態は免れた。これで対戦相手と思う存分闘えるにちがいない。
その対戦相手下山睦月は一足先にリングに上がっている。デビュー戦だというのに裾が膝まで届かない短めのガウンを身に羽織っている。フードは頭から外しており、可愛い顔を隠さず見せている。
睦月のガウン姿は着こなしているというより着せられているといった感が強かった。強さを連想させる効果はまったく生んでない。だが、可愛らしさをさらに増幅させている効果は出している。それが相手側の狙いなのか英三には判断がつかなかった。
薫は何も羽織らず上下黒で統一したスポーツブラとトランクスを着ている。その姿はとても似合っているが、華やかさという面では睦月に負けている。これは仕方ない。リングに上がれば薫が主役になると英三は信じている。
薫がリングに上がり、役者がリングに揃った。
「青コーナー下山ジム所属下山睦月〜!!」
名前がコールされると、睦月は右手でガウンを脱いだ。中から出てきたのは、スポーツブラに下はスパッツで体のラインが強調された艶やかなコスチュームだ。
場内が一斉にざわめく。
観客の声に応えるように睦月は右腕を突き上げる。
「赤コーナー吉井ジム所属水野薫〜!!」
薫が両腕を高々と上げた。薫にも声援が飛ぶ。コスチュームで差を付けられても客の関心はやはり薫にある。
水野アキラの娘、水野薫。
気に入らないが、客の関心を集めるに効果は絶大だ。
できれば薫にはリングに上がって欲しくなかった。
だが、試合が決まって後戻りできない以上は親の七光りとは言わせない完璧な勝利を薫が勝ち取ることを英三は強く望んでいる。
両者がリング中央に呼ばれた。
対峙するや薫は睦月の顔を睨み付けた。闘争心を相手にぶつけ気合い十分だ。薫の睨みに睦月はどういった顔を見せているのだろうかと確かめてみると、その顔は驚いたことに自然体そのものだった。緊張しているわけでなく、闘志を剥き出しにしているでもない。どうして薫はあたしのことを睨んでくるのか不思議だと感じているかのように睦月は普通に薫の顔を眺めていた。
リング上とは場違いな態度を取る彼女の姿が英三には異様に映った。
これからボクシングの試合が始まることを彼女は把握しているのか、そんな疑問すら湧いてきてしまう。
二人は身を翻し、薫は赤コーナーへと戻ってきた。薫の表情は丁度良い緊張感と闘士を纏っているようで、睦月の態度を気に止めてはいないようだった。相手がどうあれ自分のボクシングをすればいいと考えているのだろうか。
「いよいよだね」
喜びを噛み締めるように薫が口を開けた。
「プロの世界を感じてくるよ」
「ああ、満喫してこいよ」
そう言うと英三は薫の口に白いマウスピースをくわえさえ、薫が自分の手で口元を触り調整した。薫の上唇が盛り上り、表情が一弾と引き締まったように見えた。
試合の準備は全て整った。青コーナーに体を向けていた睦月も振り返る。自然体だった睦月も眉が斜めに上がっており、力の込められた表情に変わっていた。それは薫と同じくボクサーの顔である。
ゴングが鳴り、ついに試合が開始された。
薫はコーナーを飛び出して行った。睦月も同様にコーナーから勢い良く出てきて、元気の良い二人は 早くもファーストコンタクトを展開した。
高く、そして乾いた音が生じると薫が後ろへ飛び下がった。その場で動きの止まっている睦月の右の頬が僅かに赤い。
薫が左のジャブをヒットさせたのだ。
止まったまま動かない睦月の隙を薫は見逃さずにインステップして左ジャブを2発、フィニッシュで右のストレートへと繋いだ。
左のジャブ2発はクリーンヒット、最後の右ストレートは流石にガードされたが、ガードの上から爽快な打撃音が発せられた。睦月の体から汗が飛び散り、コンビネーションの威力を見せつけるに十分だった。
その効果は絶大で薫は僅か10秒で客を味方につけるのに成功した。
観客席からはざわめきが止まらない。早くも薫に喝采の声を送る者も現われた。この試合に関心はもっていても闘う二人の実力に関しては半信半疑、いや、おそらくは冷ややかな目で見ていたのだろう。
──────客寄せパンダじゃないってことを観客にもっと見せつけてやれ薫。
英三の思いに応えるように薫は前へ出てきた睦月の攻撃をかわし、ジャブへと繋げていく。パンチを当てては距離を取り、相手の間の隙を見つけては自ら攻撃へと転じていく。相手がラッシュに慣れた頃にはその場所から姿を消す。
薫は攻防一体のボクシング、ヒット・アンド・アウェイを軸に理想的なアウトボクシングを展開した。
薫のスピードはとにかく速い。それは体重移動が上手だからゆえに動く方向を変える時に少ない時間で次の行動に移れるのだ。
体重移動とリズムのあるステップ、その足さばきと上体の動きが上手く合わさることで華麗なアウトボクシングが生まれる。
その三つの条件を全て薫はクリアーしている。アウトボクシングの技術だけなら男子の8回戦とも遜色は無いレベルに薫のボクシングはあるのだ。
睦月のパンチをかわした薫が左ジャブを、そこから左に移動してもう一発左ジャブと連続してヒットさせた。
睦月はかまわず突進して大振りの右ストレートを放つ。もちろん、薫はスウェイして鮮やかに避ける。
もう一発ジャブを当ててやれ。
しかし、先に次の行動に移れたのは睦月だった。今度は左のストレート。それを避けるとまた睦月が右ストレートを放つ。
薫の前髪がふわっと上がるも寸前のところで避けている。
危ねぇ・・・
英三はほっと息を付いた。
睦月のパンチが見かけと伴わない迫力のあるものだと感じたのは気のせいか?
薫の顔から一滴の赤い雫が落ちていくのを英三はこの目で捉えた。そのあとにキャンバスに赤い染みが出来あがった。
まさかと思い英三は薫の顔を見てあっと口を開けた。
薫の鼻孔からは血がたらりと流れ落ちている。
かすっていたのか?それにしたってかすっただけで鼻血が出るなんて・・・・
英三は睦月に目を向けた。まだあどけなさの残る17歳の少女の顔だ。腕も人形のように細い。
────一あの細腕からどれだけのパンチ力が生み出されるっていうんだ。
睦月の細腕に並々ならぬパンチ力があることを英三は認めたく無かった。
まだ17歳の少女じゃないかよ。
しかし、次の瞬間、英三は睦月のパンチ力が想像を絶する危険なものであることを思い知らされる。それは薫の体でもって。
ズドォォッ!!
重い打撃音が生じると同時に薫の首が後ろへ吹き飛ばされた。睦月の右のパンチが槍のように薫の顔面に突き刺さったのではないかという思いが生じた。吹き飛ばされている薫の顔は目も鼻も口も拉げていたのだからだ。
潰れた薫の鼻から血が噴射して、痛々しすぎるくらいの量が撒き散っていく。
スローがかかったように薫がゆっくりと背中からキャンバスに倒れた。受身をとることもできないほど激しい倒れ方に一度薫の上体が跳ね上がった。
薫がぐったりと大の字に倒れている。
これは夢なんだろう・・?
そう決めつけたかった。
10秒ほど前までは薫が圧倒的に優勢だったじゃないか。
観客席が一段と騒がしくなり、ノイズのように英三の頭の中を駆け巡った。
そのノイズが一層、英三に夢の中にいるかのような錯覚を受けさせる。
カウントが4まで数えられたが、薫はリングの中央で未だにぐったりと倒れ込んでいる。
両手を広げ首だけがだるそうに足掻くだけだ。
たった1発のパンチをもらっただけでグロッギーとなってしまった薫の姿にこれはなにかの間違いだと英三は思い込むしかなかった。
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