第8話

 3R終了のゴングが鳴り響き、薫が赤コーナーに戻ってきた。出した椅子に疲れ切ったようにどさっと腰を置く。
 薫の劣勢は3Rに入っても変わらなかった。ピンチは何度かあったが、足とクリンチを使いなんとか凌いでいた。だが、薫も終始押されているわけではない。左ジャブを的確に当てパンチのヒット数では薫の方が優っているのだから、まだ勝負の行方が決まったわけではない。
 英三は薫の顔から流れ落ちる汗と血をタオルで拭き取った。顔を拭いている時に薫の頬が少し硬くなっている感触を受けた。鼻血を拭き取り、薫の顔を綺麗にし終えると英三はそっと薫の顔を眺めた。薫の顔の輪郭は丸みを帯びてきていた。睦月のフックをしこたま受けているのだから当然に顔の形も崩れてくる。
けれど、これ以上薫の崩れた顔を見るのに耐えられるだろうか・・・・
 心配が脹らむ中、薫の様子に変化が表れていることに英三は気付いた。
 両肘を左右のロープに乗せて様になっている。表情もどこか晴れやかだった。
プロの雰囲気に慣れたのか?
 「下山は強いよ」
 薫の口から漏れたのは弱音だ。
 プロの雰囲気に慣れたのは気のせいだったのか?
 「まだこれからだ」
 英三は薫を励ます。
 「でも、いいんだ」
 「えっ?」
 「オレは押されてるけど、下山と闘ってるとボクシングしてるってすごく感じられるんだ」
 薫は充実した純粋な笑顔を見せた。
 「必ず逆転してやる。このままじゃ終われないもん」
 「そうだまだ勝負はこれからだ。下山の右目が塞がればこっちのものだぞ薫。しぶとく攻めていくんだ」
 親父が助言と励ましの込められた言葉を薫に送った。
 右目?
 英三は青コーナーへと目を向けた。
 背筋を伸ばし毅然とした態度で椅子に腰掛けている睦月の右目は半分程塞がっていた。視界が閉ざされれば薫のパンチはもっと当たり易くなる。左ジャブだけで無く、右のパンチにも繋がるはずだ。また、距離感の狂いは防御面だけなく、攻撃面にも影響を及ぼしてくる。
 そうなれば薫の逆転勝ちも夢じゃない。
 問題は睦月の右目を閉ざすのにあとどれくらい時間がかかるかだ。3Rで半分ならもう3Rか?それとも、視界が悪くなればパンチのヒット数も上がっていくはずだからあとはあっというまか?
 インファイターの英三には判断がつかなかった。
 立ち上がった薫は気合いを高めるためか胸元の前でばすっばすっと2度拳を打ち鳴らした。
 ゴングと同時に元気良くコーナーを飛び出していく。
 薫と睦月は自分のボクシングで互いに攻め合った。
 薫は足を使い翻弄してから左ジャブの散弾を、睦月は直進して豪快なパンチの連打を放っていく。
薫の左ジャブが睦月の顔にヒットする度に、睦月はパンチを薫にガードさせる度に闘う二人の体からは汗が銀色に輝いて飛び散る。
 英三は状況の好転を感じつつあった。
 このR、薫の左ジャブが冴え渡っていた。積極的に連発して放つ左ジャブがことごとく睦月の顔を捉えた。パンチが当たる度に反撃に出る睦月のパンチもガードに頼らず、上半身の動きで軽やかに避けていた。
 この調子なら睦月の右目が塞がるのも時間の問題ではないだろうかと英三は思った。
薫のジャブがまた2発続けて睦月の顔面にヒットした。睦月がパンチを振り回すのを薫は冷静に対処する。相手にパンチをかすらせもしない薫の親父水野アキラ譲りの計算されたアウトボクシング。
 だが、その洗練された薫のボクシングテクニックを睦月はまたもたった一発のパンチで粉砕した。
 グワシャァッ!!
 「ぶへえぇっ!!」
 血が上空へと噴き上がる。
 1Rと違って鼻血ではなく口から血を薫は吐き出していた。その幾つもの帯ができた赤いラインの先には対照的な色合いの白いマウスピースが吹き飛ばされて上がっていた。
 睦月が繰り出した右のアッパーカットに薫は体が捻れながらどさっと倒れ込んだ。
 それとは対照的な格好で睦月は己の強さを誇示するかのように相手を殴り倒した右拳を天に突き上げたままだ。
 なんて力強いボクシングなんだよ・・・。
 それは英三が理想としているボクシングだった。
 そして、洗練されている薫のボクシングが今日に限っては弱々しく見えるのだった。
 薫はうつ伏せに倒れている。
 その姿は薫が本城とスパーリングをした後に思い浮かべた想像上のものと被さった。瞳孔の焦点が定まっていない。いや、それどころか何も捉えてさえいない。それまで懸命さがひしひしと伝わってきた薫の表情が今では人形のように生命を感じさせない。
 ぽっかりと開いた口からは血が顎をつたいキャンバスにたらりと流れ落ちている。血はキャンバスに血溜まりを作り上げ痛々しい。





 カウントが4まで数えられたが、薫は未だにぐったりと倒れ込んでいる。
 薫・・・・
 英三はキャンバスを叩いた。
 「薫!何寝てんだ!立てよ!」
 何度もキャンバスを叩き、声を張り上げた。
 カウント6でようやく薫が上体を起こす。
 それから薫は両腕をロープに絡ませて体がぷるぷると震えながらも立ち上がった。
 試合が再開されるも、焦点が定まらぬまま簡単に睦月の進入を許した。
 グワシャァッ!!
 薫の首が吹き飛ぶ。
 グワシャァッ!!
 また吹き飛んだ。
 グワシャァッ!!
 また・・・



                                                          
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