第10話
カウントが6を数え上げられたところで場内がどよめいた。
薫が立ち上がろうとロープを掴む。体を震わせながらも立ち上がる。立ちポーズが弱々しくどうみてもやっとのことで立っている薫はロープがなかったら立ち上がれなかっただろう。前回のダウンといい今回といいロープ際で倒されたこと、それだけが薫にとって救いだった。
だからといって形成が変わる幸運ではない。KOされる時間が延びただけに過ぎないということだ。
薫は頼りなげな前進から睦月に左ジャブを出していく。バシィッバシィッと睦月の顔面を捉えた。しかし、睦月は涼しい顔をしている。そして、右ストレートで薫の体を吹き飛ばした。
薫の体がロープにまで飛ばされたところでゴングが鳴った。
足元がふらつきながらも赤コーナーへ帰ってきた薫が直前のところで力尽き前に崩れ落ちた。咄嗟に英三が薫の体を支えた。薫の体中から噴き出ている汗が吸い付き英三の服に染み込んだ。薫の体から沸き上がる匂いが臭く、精魂尽き果てたボロ雑巾の印象を英三に一瞬、抱かせた。
英三は首を振って否定した。それよりも大事なことに英三は気付いた。抱きかかえている薫からは力が伝わってきていない。
「おい大丈夫か薫!」
薫はむっくりと顔をこちらに向けた。その顔を見て英三はごくりと息を呑んだ。
「英三、やっと下山の右目を塞いでやったよ」
薫はだるそうにしながらもへへっと笑った。
薫の言葉は英三の心を虚しくさせるだけだった。薫の言葉どおり睦月の右目は完全に塞がったのだろう。だが、薫は右目どころか左目まで塞がりつつある。ぷっくらと脹らんでいるのは瞼だけで無く左右の頬までも。薫の顔はもう誰だか分からないほど醜い形に作り変えられていた。
英三は薫の体を椅子に座らせた。
「止めようなんて考えるなよ。オレはまだまだ闘えるんだから」
「親父」
英三は振り向く。
「これ以上パンチを受けたらもう立っていられないな。相手は右の視界が狭まっている。攻撃される前に自分から攻めていく方が良い。だが、足を使って惑わしている時間は無い。真っ直ぐ向かうんだ。できるか?」
フェイントを入れずに真っ直ぐに向かうだって・・・・。
英三は大声を出した。
「親父!相手は下山だぞ。薫にKOされに行けって言うのか!!」
「薫できるか?」
薫はぼんやりとした表情で首を傾けた。
状況がわかってるのか薫?
第7Rが開始された。
ゴングの音と同時に薫は赤コーナーを飛び出した。親父の指示どおり、睦月の元へと真っ直ぐに向かっていく。
グワシャァッ!!
血が降り注ぎ、キャンバスにビシャビシャッと跳ねた。
リング上の光景に英三は顔を蒼白させた。
薫の顔面が睦月のパンチで押し潰されている。薫の顔面には睦月の右ストレートが深く突き刺さっている。
薫の顔面と睦月の右拳の狭間から血がポタポタと滴り落ちる。突き出された睦月の拳から薫の顔面がずるりと外れると前のめりに倒れ、顔をキャンバスに激しく打ちつけた。その衝撃で頭が跳ね上がりまた小さく落ちた。薫の顔面がキャンバスに埋まり、そのキャンバスに血がすうっと広がっていく
「薫!!」
レフェリーのカウントが始まった。
「親父!!俺はもう試合を止めるぞ」
英三は親父の肩にかけてあるタオルを手にかけた。
突如、場内の歓声がどよめきへと変わった。
英三がリングに顔を戻すと、薫が立ち上がりファイティングポーズを取っていた。顔からはおびただしい量の鼻血が噴き出ている。
「薫・・・」
試合が再開される。
それと同時にまた、薫が睦月に一直線に向かって行った。
もう思考能力が無くなってしまっているのか・・・。
「英三、薫の心は折れていない。なぜだかわかるか?」
何言ってるんだよいきなり・・
「女子ボクサーにとって次また試合が組まれる保証なんてものはない。チャンスがこれっきりで終わる可能性だって十分ある。全てはお偉い方の都合次第だと薫は分かっているということだ。この1試合にボクサーとして歩んできた全てを出し切ろうという決意がなければとうに意識はなくなっている。それでも御前は止められるか?」
無意識の内に英三の手からタオルが落ちた。
止められない・・・。
俺なんかが止められるものじゃない。一つの試合にボクサーとして歩んできた全てを出し切る覚悟でリングに上がったことのない俺になんか・・。
だけど、このままじゃ薫の体が無事じゃ済まされない。くそっ・・俺には黙って見守るしかないのか。
英三は歯を食い縛ってリングを見つめる。
睦月がまたも右ストレートで迎え撃った。
英三は息を呑む。
睦月のパンチは空を切る。薫が体を左に傾けてパンチを避けつつも距離を縮めている。そして、がら空きの睦月のテンプルに左フックを当てた。
今の動きはなんだ・・・?
鋭角にVの字を描いたステップ移動からのパンチ。これまでにない特殊な動きである。しかし、英三にはどこか記憶の底で引っかかるものがあった。
「アキラを彷彿とさせる見事なシフトウィービングだ」
「シフトウィービング?」
「ウィービングが横に避けるディフェンステクニックなのに対して、シフトウィービングは斜め横に避けながら距離を縮め、体の反動を利用してパンチの威力も高める攻防一体の技だ。アウトボクサーの薫にはけっして相性が良いとはいえんテクニックだが、逆転KOするなら多少のリスクを犯してでもシフトウィービングを使わざる得ない。それに睦月の右目が塞がった今、シフトウィービングは最大限に効果を発揮する」
シフトウィービングで試合は一転した。シフトウィービングを軸に薫は攻撃力が激増したヒット・アンド・アウェイを展開する。
一直線に向かい、死角に消える。次の瞬間にパンチがヒット。距離を取り、またも死角に消えるのかと思いきやそのままパンチを放つ。薫が睦月を翻弄していく。シフトウィービングが試合を一転させてしまった。
シフトウィービング。
英三の中で忘れかけていた記憶が引き出された。見覚えのあるはずである。数年前、薫はシフトウィービングを練習していたことがあったのだ。薫はおじさんのボクシングテクニックの中でもっとも輝いていた技シフトウィービングを修得したいと言い練習をそのシフトウィービングばかりに費やしていた時期があった。その熱意は英三に親父と薫のおじさんの最後の一戦のビデオをわざわざ英三に見せて熱く語ったほどだ。すごいだろ、オヤジのシフトウィービングっといった具合に。そして、地道に一つの練習にばかり時間を費やした成果で薫はシフトウィービングをモノにしたのだが、アウトボクサーの薫には相性の悪いテクニックであることが、発覚し薫は自分のボクシングスタイルに取り入れることを止む無く断念した。それから薫はシフトウィービングを見せなくなり、英三もその存在をすっかり忘れていた。
しかし、追い詰められた土壇場でついにシフトウィービングを自分のボクシングスタイルに取り入れることに成功した。薫の目標であるおじさんのボクシングに一歩近づくことができたということだ。
英三は右拳をぐっと握り締めた。
死角からの攻撃を最大限に活かした変幻自在のボクシングに睦月は完全に戸惑い、対応できないでいる。パンチも左フックを中心に威力のあるパンチを浴びている。次第に、睦月の右頬が腫れてきた。すでに腫れ切った右瞼と合わさり睦月の顔は右側だけが異常に腫れ右と左で別人のような顔だ。
右のフック、さらに左。左右のフックで睦月の頭を吹き飛ばした。
もう一度体を左に大きく傾け、そこから反動の利いたフックをテンプルに叩きこむと、睦月の腰が砕けた。
薫が追撃へと入ろうとしたところでゴングが鳴った。睦月が背を向けて青コーナーへ帰っていく。
ゴングが鳴った直後、睦月が顔を歪めていたのを英三は見逃さなかった。それは初めて睦月が見せた苦しみの表情だ。
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