第3話
暑い太陽の陽射しを浴び、汗を掻きながらも英三は坂道を上っていった。隣には同じく顔から汗が噴き出ている薫がいる。薫はノースリーブの黒いTシャツに濃紺のジーンズといつものようにラフな格好をしていた。
「親父が行くべきだろ。なんで俺が・・」
英三は暑さで苛立っていた。坂道だからというのもある。
「親父さんだって忙しいんだからたまには親孝行しろよな。話し合いっていってもルールの確認程度なんだから英三で十分すぎるよ」
「へいへい。しかし、なんだって対戦相手のジムで話し合いなんだ」
「いいじゃんか。相手のこともよく知れるしねっ」
そんな調子で薫と話しているうちに目的の看板が見えた。
「でけぇジムだな・・・」
英三は5階建ての建物を見上げた。
「まさか、これ全てがジムじゃないよ」
建物の中に入った。通路の奥に行き、左がボクシングジムの入口だった。
大きい、それが第一印象だ。英三のジムの二倍はある。
隅でカメラを首から下げている男と隣だって立っている見覚えのある女性の姿を発見した。東邦新聞記者の祥子だ。
近寄り、挨拶を済ませると早速薫が訊ねた。
「対戦相手の下山睦月さんはどこですか?」
「あそこよ」
祥子は右手でジムの奥を指した。その先に顔を向け英三は目を疑った。ミットを構えているトレーナーの男とそのミットめがけてパンチを打っている女性の姿、いや女のこの姿があった。
「あれがですか?」
英三は戸惑いの声を出した。
「そう」
「まだ18歳くらいにしか見えないですよ」
「17よ」
骨格がまだ成長過程にある彼女の体は線が細かった。頑丈とはほど遠く男のパンチなら受けた腕がすぐに脱臼してしまいそうだ。もちろん、彼女の体は一般的にみればとても健康そうな肉体である。ただ、格闘技をするには少々肉付きが頼りないのだ。
「英三君不服そうね」
「ちょっと若すぎじゃないですか?」
「見た目で判断しちゃだめよ。練習をよく見てないと。私には頼もしく見えるわね」
目を凝らしてミット打ちの様子を見た。
スピード、パワーともに少々物足りない気はするが、動きは様になっている。ボクシングの基本はできているのだろう。
「まあ基本はできてはいるけど」
「ボクシングの試合にはなると思うわよ」
ミット打ちが終わると彼女はグローブを外しタオルで汗を拭くとそのままこちらにやってきた。
「どうも、お待たせしてしまいました」
彼女は練習着のままだった。ボクシンググローブを外しただけである。
今まで練習をしていたのだから、当然に汗が体中からから滲み出ていた。Tシャツがぴったりと肌に付き、肌を露にしている。
「だいぶ激しく練習してたみたいね。着替える時間待ってるわ」
「いいんです、また練習に戻るし」
そう言いながら彼女はにこっと笑った。
美少女は汗で髪が乱れても美しいものだと英三は思った。化粧をする必要のない肌はとてもきめ細やかで柔らかそうだ。
「睦月ちゃんお兄さんは?」
「兄は5階です」
どうやらこの建物は全て下山ボクシングジム所有のものらしい。弱小ジムに通っていると発想のスケールまで小さくなるなと英三は小さく息を付いた。
「兄というのは?」
薫が訊ねた。
「下山さんのことよ。ほら名字が同じじゃない」
「あぁっ」
英三にはまったく分からない。
エレベーターで5階に付き、4つあった中の左奥の部屋に入った。
6畳ほどの広さの部屋には机と長いテーブルを間にしてソファーが2つ置かれてある。ベルトを巻いたボクサーの額縁に入れられた写真が数点、壁の高い位置に並べて飾られている。真っ先に校長室という陳腐な言葉が頭に浮かび上がった。
オールバックの男は背を向けて立っていた。それを見てなるほどこの男が下山睦月の兄なのかと英三は合点がいった。
下山兄が振り向く。
「済みません、わざわざこちらまでおいでいただいてもらい」
5人が椅子にソファーにこし掛け、試合の交渉が始まった。
といってもほとんどがすでに分かっていたことである。
試合の日は今から一ヶ月半後、後楽園ホールの第3試合。
ルールは8オンスのグローブに8Rスリーノックダウン制。
「一つ大事なことを確認しておくけど、これまでキックの興行で行われていた女子のボクシングの試合ではすぐにロープダウンを取っていたわ。でも、あなた達の試合はよっぽど長い時間連打を浴びていない限り、ダウンを取られないと覚悟しておいてもらいたいのよ。あなた達は男子と遜色のない試合をしなければならないの」
「大丈夫です」
まず、薫が力強く答えた。
「うん、大丈夫」
睦月は表情を変えずに淡々と答えた。その姿に若いのに落ち着いた女の子だなという印章を英三は持った。
「これで終わり。最後に立ち上がって握手してもらおうかしら」
薫と睦月は立ち上がり握手を交した。その姿を祥子付き添いのカメラマンが写真で何枚か撮った。
「あと、ファイティングポーズも欲しいわね」
年の甲か言葉のイントネーションの使い分けだけで祥子は人を乗せるのが上手い。
祥子の指示に従って向かい合い、二人はファイティングポーズを取った。美少女二人(薫も外見は10代で通用するのだ)がマスコミの前で対決のパフォーマンスを演じるのも悪くないなと英三は思った。
それで話し合いは終わった。
祥子とカメラマン、薫と英三は建物を出た。
「家まで送るわよ」
祥子は車の後ろのドアを開けた。断る理由も無いので英三は送ってもらうことにした。それに一つ祥子に聞いておきたいことがあったのも思い出した。
「樋口さん、女子の試合が男子の興行の中に組み込まれることになったのはなんでですか?あと薫と下山睦月が選ばれた理由も」
「会長に話してももらってないの?」
英三は薫の顔を見た。薫は俯いている。
「理由は単純よ。世界チャンピオンが3年以上いない現状にファンの客足はすっかり遠のいたわ。JBCも前と違って台所事情は辛いのよ。だから、私達の提案にも断れなかったの」
「提案?」
「世界チャンピオンの娘をデビューさせることよ」
英三は眉を持ち上げた。
「しかも、人気は抜群だった水野アキラの忘れ形見。話題性は抜群だわ」
「待ってください、それじゃ薫は客寄せパンダじゃないか」
「それは薫ちゃんの了承済みよ」
「本当なのかよ薫」
「うん。それは初めて会った時に言われた。いいんだ、試合ができればどんな事情があったって」
薫は元気良く振舞おうとして笑顔を作ったが、それは不自然で無理していることを知らせているようなものだった。
「スター性というのもプロには大事な要素よ。英三君、あなただって父親のおかげで必要以上にスポットを浴びているじゃない。この前のTV中継で放映されたのも父あってのものを忘れちゃだめよ」
「俺は俺だ。薫だってそうだ」
「残念ながら周りはそう見ないのよ」
それっきり英三は黙った。その後、車の中を支配したのは気まずさだった。
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