第5話

 エレベーターが一階に到着した。中に入り、ドアを閉めようとして再びドアが開いた。
 ドアが閉められると、柑橘系の甘い匂いが狭い空間に広がり、睦月の鼻をくすぐった。睦月の嫌いな匂いである。
 睦月は5階を押した。
 「お兄ちゃんも5階?」
 「ああ。媛子婆さんのところか?」
 「うん」
 エレベーターが昇っていく。
 「あと10日だな。自信はどうだ?」
 「わかんない。こればっかりは試合してみないと」
 玲人が唇の右を吊り上げた。
 「どうだかな。負けるわけが無いって顔してるぜ」
 「そんなことないよ」
 5階に到着した。
 「婆さんの期待を裏切らないことだな」
 と言い残し、玲人はエレベーターを出て行ってしまった。
 睦月もエレベーターを出て、目的の部屋へと向かった。
 2度ノックをして、返事が聞えると中に入った。
 媛子おばあちゃんは部屋の奥にある机に座っていた。
 「どうしたんだい?機嫌が悪そうじゃないか」
 「うん」
 「玲人か?」
 「うん、お兄ちゃんは苦手」
 「あいつも困ったもんだ」
 媛子おばあちゃんが立ち上がった。媛子お婆ちゃんは70歳だというのにすらりとした体のスタイルを保っている。
 「こっちへおいで睦月」
 媛子お婆ちゃんの手招きに、睦月は近付くと、二の腕を握られた。
 「良い筋肉だ。余計な脂肪が一切無く引き締まっている。パンチにスピードとパワーが乗るね」
 媛子お婆ちゃんは満足そうに笑みを浮かべた。


 「勝てそうかい?」
 「勝てるよ」
 「そう、当日が楽しみだよ。あと、10日。年甲斐も無く興奮してるよ。昔を思い出すんだ」
 それでいつものようにお婆ちゃんの昔話が始まった。
 媛子お婆ちゃんの昔話。
 それはとても本当とは思えない話だ。でも、媛子お婆ちゃんは嘘を言う人間じゃないし、ぼけているとも思えない。
 戦後、媛子お婆ちゃんはバーで働いていた。そのバーはGI(米軍)相手にした店で売り物は女性同士のボクシングだという。媛子お婆ちゃんもリングに上がり、見世物としてボクシングをした。見世物といっても手加減無しの真剣勝負。スタンディングダウンもスリーノックダウンもTKOもないのだから男子のボクシングよりも酷だったほどだ。媛子お婆ちゃんはその中で一番強くチャンピオンとして君臨していた。
 だが、ボクシング・バーは長くは続かなかった。媛子お婆ちゃんが働き始めてから3年で潰れ、お婆ちゃんは路頭に迷った。そこで、次に行動を起こしたのが女子ボクシング団体を設立し、興行することだった。でも、JBCの圧力で団体は解散させされ一度も試合ができないままに日本の女子プロボクシングプロ化計画も終わった。
 これが本当の話なのか睦月には判断しかねていた。現実から離れすぎている。
 ただ、媛子お婆ちゃんが未だに女子ボクシングの成功に執着していることだけは確かだ。
 JBCの圧力で女子ボクシング団体を潰された後もお婆ちゃんは女子ボクシングをプロスポーツとして成り立たせることを諦めていなかった。実業家のお爺ちゃんと結婚し、莫大な資産を手にしたお婆ちゃんはボクシングジムの経営者となった。そして、チャンスを探っていたのだ。
 睦月が媛子お婆ちゃんが経営するボクシングジムで練習を始めるようになったのは高校に入学してすぐだ。春先、睦月は部活に入部して早々に先輩達と揉め事を起こし、一週間で退部届を出した。わずらわしい人間関係に縛られずにスポーツできる場所はないかと考えていた睦月がすぐに思いついたのが媛子お婆ちゃんの存在だった。金も取られないし、媛子お婆ちゃんが経営しているのなら居心地も悪くないだろうと睦月はボクシングジムでボクシングの練習を決めた。練習といってもボクササイズ程度のものである。週に3回のペースで睦月はボクシングジムに顔を出した。たまにだけど、媛子お婆ちゃんがアドバイスを送ってくれたりもした。媛子お婆ちゃんのアドバイスは的確で指導する姿だけ見ると昔見世物のボクシングをしていたのも本当なんじゃないかと思えてくる。それから3ヶ月が過ぎ、お婆ちゃんが真剣な表情である話を持ちかけてきた。
 「睦月、プロボクサーとしてやってみないかい?」
 うんと言ったのは、ボクシングが大好きだったからというわけではない。ボクシングは気に入っている。その程度にしかすぎなかった。それでも、お婆ちゃんの話を受け入れたのは風格の漂うこのお婆ちゃんが好きだからだと睦月は思っている。
 「じゃあお婆ちゃんあたし帰るよ」
 媛子婆ちゃんの長い昔話も終わり、部屋を出ようとした。
 「睦月、ボクシングは気に入ったかい?」
 睦月は振りかえる。
 「まあまあかな」
 媛子お婆ちゃんが右の頬を緩ませた。
 「正直で良いね。でも、試合をすれば絶対好きになる。御前はあたしの血を引いているんだから」

 ワンルームのマンション。薫は壁に背をもたらせながら胡座を掻いてTVに目を向けていた。
 TVの画像にはボクシングの試合が映っている。
 それは親父と英三のおじさんが最後に闘った試合だ。そして、親父の現役ラストマッチでもある。
 試合は第9R、もう立ってるのもやっとなのに親父は英三のおじさん、つまり会長と殴り続けている。顔はもうもうボコボコで酷い有様だ。
 薫はにやけた。
 柄にも無く熱血しちゃってさ・・。
 会長のパンチについに耐え切れなくなり、親父がキャンバスに沈んだ。立ち上がったあと、さらに猛攻を浴びて後ろへ下がりコーナーポストに背中がぶつかった。
 薫が何度となく目を奪われたシーンはここだ。
 親父はステップして会長に向かっていく。迎え撃ちに出た会長のパンチを体を斜めに大きく傾けて避け、距離を一気に縮めながら傾きの反動を利用して大きく振り被ったフックを会長に当てた。
 体を斜めに傾けることで移動力と攻撃力をより高めるウィービングを進化させた技、シフトウィービング。
 インファイターの道を選んでもそれでもなお、華麗なテクニックで対抗しようとするあたりが実に親父らしかった。
 シフトウィービングに魅入られた薫は遊び感覚でしょっちゅう真似をしてみたことがあった。だが、離れて闘う薫のボクシングには相性が悪く、真似事ができるようになってもファイトスタイルには上手く取り入れられなかった。その時ほど自分がインファイターだったらと思ったことはない。
親父と会長の試合はシフトウィービングによる1発で再び互角になった。
 そして、最終R。二人の殴り合いがまた始まる。足を止めて殴り合う。薫は画面にさらに深く魅入った。
 親父、どんな思いで殴り合ってるんだ・・・
 何度聞いても親父は答えを教えてくれはしなかった。初めて聞いてみたのは親父が引退した試合のすぐ後だ。
 「お父さん、英三のおじさんとは試合する前から仲良しだったの?」
 「どうしたんだ急に。ボクシングは嫌いだったんじゃなかったのか」
 「そんなこといってないもん」
 薫は頬を脹らませた。
 「それより英三のおじさんのこと」
 「仲良しってわけじゃないぞ」
 「だって試合の後、仲良くしてたよ」
 「俺は礼儀が良いからねぇ」
 親父がおどけてみせた。
 「嘘っ。お父さんと英三のおじさんはライバルなんだろ。いつも英三が言ってるよ」
 「それはあるかもなあ」
 「いつからそうなったの?」
 「なんだ今日はやけにボクシングの話を持ち出してくるな。やりたくなったのか?」
 「オレが?」
 「薫が」
 「やってもいいよ」
 薫は顔を赤らめる。それを見て親父は声をくすくすと笑う。
 「そうか、楽しみにしてるよ薫。ジムを持ったら薫がジム第1番生だ」
 親父が冗談半分で薫と交した約束が実現することは無かった。その4年後に交通事故で帰らぬ人になってしまったからだ。
 ボクシングの話を持ち出すたびに親父は話をはぐらかした。だから、親父がどんな思いでボクシングをしていたのかも、英三のおじさんとの関係も詳しくは知ることができなかった。
 親父が生涯を捧げたボクシングってどんなスポーツなんだろう・・・。
 そう考えるたびに浮かんでくるのは親父と英三のおじさんが試合後に称え合ったシーンだ。
 薫がボクシングに興味を持つきっかけになったシーン。
 ボクシングでなくても、スポーツは闘い合ったお互いを称え合うものに違いない。
 ただ、散々殴り合ったあとでもお互いを称えることができるという点にどうしてかとても惹かれるのだ。
 それに親父の気持ちを少しでも知りたかったというのもあった。
 薫が英三のおじさんがトレーナーをしているボクシングジムに通うようになったのは親父が死んでから二ヶ月後、薫14歳の時である。
 「ついに明日だよ親父・・」
 画面の親父へ向かって薫は呟いた。
 プロのリングに上がることを希望してから実現するまでに4年が経過した。キックの団体で女子ボクシングをするのも一つの選択肢だったが、薫はずっと拒否を続けた。試合の相手がキックボクサーであることが大半のケースだからだ。違う方向に進む線と線が一瞬交わるだけ。そして、試合が終われば二つの線はまた違う方向へと進んでいく。二つの線が同じ方向へ向かうわけではない。単にその場だけの出会いにしかすぎない。
 でも、同じ方向に進めるレールと対戦相手と出会えた。ついにスタートラインに立てるんだ。
 明日ボクシングを感じてくるよ親父・・・・。





                                                             

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