第21話


 「ぶほおっ!!ぶほおぉっ!!」
 リング上ではさらに見るに耐え難い展開が繰り広げられていた。
 一方的なパンチの連打。もはや、リング上のそれはボクシングではなく相手が立てなくなるまで殴り続ける拷問でしかない。
 ダウンしても立ち上がればまた倒れるまで殴る。その繰り返しがこれでもう3度続いている。和葉が試合を見始めたのが2Rの途中からだったのだから夏希のダウンは合計すると3度を超えているのかもしれない。
 少なくとも3度キャンバスに沈んだ夏希は顔面も御腹も紫色に変色してしまっている。
 夏希がどんなに血を噴こうとも明日香は顔色を変えずに闘争心を剥き出しのまま懸命になって殴り続ける。
 これは仕方のないことなのだ・・。
 鬼のような形相で夏希を殴り続ける明日香もリングを下りればいつもの無邪気で能天気な明日香に戻ってくれるはずだ。明日香が変わったわけではない。悪いのは全て主催者なのだと和葉は自分に言い聞かせた。そう思わなければ心がどうにかなってしまいそうだ。
 久し振りに夏希が反撃のパンチを明日香の顔面に当てた。次の瞬間、攻勢だったのが嘘のように明日香は右手を顔に当てて夏希が逃げていく。
 夏希が明日香を追い掛けて、ロープに詰まり逃げ場を失った明日香にたいし攻撃に移った。
「待って!目に入った!反則だよ!!」
明日香が大声を出したものの夏希は止めずに非情のパンチを打った。明日香は体を横に向けたまま背を丸めて、束になって襲い掛かってくるパンチの圧力の前にリングの外に飛び出そうになる。両腕を相手の前に出して身を守ろうとしている明日香は言葉どおりやめてと体で相手に訴えている。
アッパーカットで顎を突き上げられると明日香がたまらずダウンをした。
突然の逆転劇に和葉は呆然としてしまった。
 たった一発のパンチでどうして明日香は急に逃げていったの?
 それに反則って?
 目?
 何が起こったのか和葉にはさっぱり分からなかった。ただ、心は悪い予感を感じとってしまい、不安が広がっていく一方でたまらない。
 明日香が立ち上がり、ファイティングポーズを取った。明日香の左瞼が瘤のように腫れ上がり、瞳を閉ざしていた。目からはうっすらと血が滲み落ちている。
 「目に相手の指が入ったんだよ。反則でしょっ!!」
 目の前に立つレフェリーに対し明日香が大声で訴えている。
明日香の目に夏希の指が入ってしまったのだと和葉は状況を理解できた。アクシデントだとしてもこのまま試合が再開されたら片目が閉ざされた明日香はかなり不利なのではないかという考えが頭の中をよぎる。
 「故意だよ・・あれ」
 亜莉栖がぼそっと言った。
 「えっ・・どうして?」
 「偶然だったら少しは申し訳なさそうな顔するから」
 すぐに夏希の顔を確認した。夏希の顔は特に変わりがなく厳しい目つきで、ロープに両肘をかけているからかふてぶてしくさえ見える。
 しかし、故意と決めつけるには材料として弱く、和葉の心の中では疑惑が募る一方であった。 
 ─────亜莉栖の言うとおりなの?故意でやったっていうの?
 明日香の抗議は聞き入れられず、そのまま試合が再開された。レフェリーの合図と同時に飛び出した夏希に対し明日香は気持ちの切り替えが出来ておらず出遅れた。夏希のラッシュの前に両腕でガードを固めて防戦一方となる。
 ダメージも引き摺っているのかもしれない。ややあって、明日香も反撃に出たのだが、どうにもパンチが大振りでパンチを掻い潜られては嫌らしいボディブローを的確に当てられた。それでも、明日香はパンチをぶんぶん振り回し、やがて顔面にもパンチを浴びるようになりサンドバッグと化した。
 明日香は頭に血が上り、平常心を失っている。左に逃げようとした明日香だったが、それがまずかった。位置を確認していなかった明日香はコーナーポストを背負いいよいよ脱出できなくなる。
 ドボオォッ!!グシャアァッ!!バキイィッ!!
 夏希の放つパンチの雨が次々と明日香の顔面にめり込んでいく。
 180度正反対に変わってしまった展開に和葉はまるで悪い夢を見ているかのようで明日香の劣勢が信じられないでいた。 
たった一つの攻防が二人の明暗を分けたのだ。それまで明日香が夏希を良いように殴り続けていたというのに今では明日香は夏希のサンドバッグとなり、パンチの的に成れ果ててしまった。
天国から地獄へと落とされた明日香は容赦なく浴びせられるパンチの雨にみるみる顔が醜く変わり果てていき、痛々しい声を漏らしている。
明日香がサンドバッグとなってからまとめて30発はパンチをもらい、なお明日香はパンチの連打から逃れられない。足は内股になり、顔面が腫れ上がり、鼻血が両穴から止まらずに噴き出ている姿は悲壮感溢れている。それでも明日香は倒れることを拒んだ。
 明日香・・負けないでよ・・
 明日香の勇姿に和葉は涙ぐんでいた。
 これ以上明日香が殴られるところなんて見たくなかった。でも、自分だけが逃げちゃダメだ。
 明日香が夏希の体に抱き付き、ようやくパンチの雨から逃れた。両腕を夏希の腰に回していたのだが、夏希が左腕を密着した二人の体の間に入れた。左手で明日香の喉を掴み、押しこんで、コーナーポストに明日香の後頭部を叩きつけた。
悪夢のような光景はさらに続く。いや、悪夢はこれからだったのだ。 
 喉輪で顎を抑えつけ逃げられないようにして─────
恐怖に引き攣る明日香の顔面めがけてパンチを放った。
 グシャアッ!!
 頬にパンチをぶち込まれて醜く歪んでいる明日香の顔はコーナーポストと拳の間に串刺しにされていた。
夏希の右腕が大きく引かれ、またもトンカチで乱暴に叩くように明日香の顔面が殴られる。
グワシャァッ!!
「ぶえぇっ!!」
 先が尖り不細工に歪められた口の狭間から血が噴出される。両腕がだらりと下がり、明日香の体から力が抜け落ちていく。
これ以上パンチをもらったら危ない状況だというのに、明日香の頭は抑えつけられているから逃げることは不可能だ。避けられる可能性がないのだから夏希のパンチは全弾全力の大振りなパンチであり、そして、その非常な追い討ちがことごとく明日香の顔面に当たる。倒すなんてあまっちゃろいものなんかじゃない。夏希の行為は破壊そのものだ。クレーン車についている鉄球の玉で建物を壊すかのようにパンチのヒットとともに強烈な鈍い音が鳴り響き、動けない明日香は体をぴくぴくと震わせる。
 「あれって反則だよ。このままだと明日香が殺されちゃう・・」
 和葉はどうしていいのか分からず亜莉栖に助けを求めた。亜莉栖の顔からは笑みが零れている。
 目の錯覚かと思い、目をぱちくりさせると亜莉栖の顔から笑みがなくなっていた。気のせいかと和葉は気を取り直してもう一度声をかけようとした時、
 「ぶへえぇっ!!」
 右フックが炸裂し明日香の口から血が大量に噴き出た。返り血が夏希の顔に付着するも、それでも夏希はパンチを打つのを止めない。
 明日香は倒れたくても倒れられないのではないかと和葉は気付いた。両腕はだらりと下がり、しかも決定的な事実は明日香が白目を向いてしまっていることだ。もう明日香は失神してしまっているのだ。このままでは本当に明日香は殺されてしまう。
 リングに体を寄せて和葉は叫んだ。
 「レフェリー、もう試合を止めて!明日香が死んじゃうよ!」
 和葉の悲痛な叫びにもレフェリーは反応すら見せず、夏希の拷問パンチを近くで見届けている。
 何度叫んでも無駄だった。
 和葉はリングに入った。駈け込んで夏希の体を両手で掴み、明日香の体から引き剥がした。
 勢いのあまり、和葉と夏希がもつれ倒れた。上体を起こした和葉と夏希の顔が向かい向かい合う。体がすくんだ和葉に対して夏希も和葉の乱入という事態に夏希も驚きを隠せずにいるようだったが、すぐに気を取り直して立ち上がり明日香を探した。
 明日香はリングの端でコーナーポストにもたれかかるように倒れ込んでいた。ロープの下から2段目と3段目の間から頭がリングの外に出てしまっている。全く身動きしていない明日香の体は和葉に死んでしまっているのではないかと思わせるほど悲惨なものがあった。頬が顔の輪郭が倍近くになるほど頬が腫れている上にしかも、頬の色はどす黒く変色した青紫のうえに血で真っ赤に染められている。
 和葉が明日香の元に駈け付けて明日香の背中に両腕を回し、ロープの外に出ている頭を引き戻したが、明日香の体は力が抜け切っていて魂の抜け殻のように首が後ろに垂れ下がる。体が小刻みに揺れており、死んではいないが危険な兆候なのかもしれない。和葉は抱きながら体を揺すり、名前を何度も呼んだ。白目を向いた明日香はだらしなく口を開けたままだ。その口から絞るようにううっと声が漏れる。僅かながらの反応でも和葉には嬉しく感じられた。さらに声を出して明日香の名前を呼ぶ。
 「どうなるんですかこの試合は?」
 夏希が冷静な声でレフェリーに訊ねた。
 「待て」
 レフェリーが携帯を取り出して話をする。
 和葉は声を止め息を呑んだ。
 レフェリーが携帯を切り、振り返った。
 「試合への裁定及び立花和葉に対する処分が決定した」



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