第26話

 夏希の右のパンチがめり込み、細く尖らされた和葉の口からマウスピースが零れ落ちた。
それと同時に和葉も後ろへばたんと派手に崩れ落ちた。
 レフェリーがダウンを宣告し、カウントが数えられる。
仰向けになって倒れた和葉は虚ろな視線を天井に向けたままぴくりともしない。
体へのダメージは相当なものである。しかし、体だけではなく心へのダメージも和葉は負っていた。
成長したのではないかと感じていても実は前と全く変わっていない現実。
強くなりたいと思っても少しも強くなれない現実。
この相手だけにはどうしても勝ちたいと願っても歯が立たない現実。
 どうしてこんなにも自分は弱いの?
 和葉の中で亜利栖と林檎に続けて勝ち脆弱ながらも積み上げることが出来た自信が瞬く間に崩れ落ちていく。
失望に駆られ気が萎える。
 悔しくて涙が出そうだった。 
 なんで夏希に敵わないの・・・。
 負けたくない相手なのに思うようにならない。
 和葉は涙目になり、歯を食いしばる。
 「ファイブ!」
 立たないと・・。
 グローブで涙を拭き取り、和葉は立ち上がる。
 足も頭もふらふらだ。
 試合が再開される。
 夏希の右アッパー。
 「ぶへえっ!!」
 夏希の右フック。
 「ぶほおぉっ!!」
 夏希の右ストレート。
 「ぶうぅっ!!」
 もはやどうにもならない。パンチを出しても当たらない。パンチを避けることもできずいいように打たれるがままだ。
 ロープに追い込まれると状況はさらに悪化した。夏希のフックの連打が和葉の頭を振り子のように右に左に吹き飛ばす。
 痛みが絶えず和葉の体に走る。特に鼻は殴られるたびに骨が折れたのではないかという激痛に襲われた。その鼻腔には血がたまり、呼吸も思うように出来ず苦しい。
 このまま殴り続けられたら撲殺されるのではないかという恐怖に駆られた。
 怖いよ・・。怖い。どうすればいいの・・・
 恐怖に怯える和葉にその場から逃れられる策が沸いた。
そうだ。自分からダウンをすればいいんだ。
 もうそれしかないと思った。
 パンチをガードすると和葉は自分から足の力を抜き、尻餅を突いた。 
 和葉の願いのとおり、パンチの雨から解放されることになった。しかも、これで少しは休める。
 「スリップだ」
 「えっ・・・」
 「今のはダウンじゃない。早く立て」
 そんな・・・。
 ぐずぐずしている和葉の体をレフェリーが両脇に手をやり、無理やり起き上がらせた。
 「ダウンしたからといって安心しない方がいい。倒れたということは相手に隙を見せることだからな」
 えっ・・どういうこと?
 レフェリーの発した言葉の意味がよくわからなかった。
 気が動転している和葉の顔面に夏希の右ストレートが飛んでくる。試合はすでに再開されているのだ。
 グワシャアッ!!
 和葉の顔面には夏希の拳が深々とめり込まれている。力が抜け落ち、両腕がだらりとさがる。
 「とどめだ」
 夏希は右の拳を裏返しにし、アッパーカットの体勢へ移る。
 そこでゴングが鳴った。
 悔しがるそぶりを微塵も見せず夏希はコーナーに戻る。
 一方で和葉はロープに背中を預けたまま立ち尽くしていた。動くことはおろか、二本の足で自分の体を支えることさえできない。顎が上がり、天を見上げる和葉の視線に黒い髪が映る。亜利栖が助けに来てくれていた。和葉は亜利栖に肩を貸してもらったことでなんとかコーナーまで戻れた。
 亜利栖はタオルを鼻に当ててくれた。白いタオルは瞬く間に赤く染まっていく。インターバルの間、和葉はずっとタオルを鼻に当てた。
 タオルで覆われている間から赤コーナーで尻餅を付いて座っている夏希の姿が目に入った。顔を上げてレフェリーと会話を交わしている。
 どういうことなのだろう?
 嫌な予感がしてならなかった。
 まるでレフェリーと夏希が共謀しているかのような光景に映る。
 すると、レフェリーは身を翻らせて対角線上にこちらにやってくる。夏希同様キャンバスに尻を付けている和葉の前にそびえ立つように足が止まった。
 「先ほども言ったが、故意にはダウンする行為が続けば制裁が課せられるだろう。気をつけることだ」 
 「制裁って?」
  レフェリーは答えずに踵を返した。
 「反則負けになるということですか?」
 レフェリーが足を止める。背を向けたまま低い声を発する。
 「このゲームで勝敗が決定するのは、一方が試合続行不可能になった時だけだ」
 レフェリーの言葉に和葉は青ざめた。
 試合の決着は一方が試合続行になった時だけ・・・・・・
 Seven pieces注意事項に書かれていた言葉を和葉は思い出す。
“試合の勝敗は相手をテンカウント以上マットに寝かせた者が勝利者となる。”
これの意味するところは自分の意思でテンカウントを聞くのを望むことは認められない。自分から寝るのではなく、相手に攻撃によってテンカウント以上否応にも寝かされた時のみ敗北が認められるのだ。
つまり、負けたフリは許されない。試合の敗北は、相手の攻撃によって打ちのめされた時だけだ。
 その事実は和葉の心をさらに暗くさせた。棄権は許されない。もちろん、マウスピースを二つ渡したらゲームクリアーは程遠いものになるわけで棄権するつもりはないのだけれども、試合から逃げることはできないという事実はとてつもなく重かった。
 「時間だよ」
 亜利栖の言葉に和葉は力なく頷いた。鼻に当てられていた白いタオルを離すと、鼻血は止まっていた。顔から闘志が消えぼうっとしている和葉の口の中に亜利栖がマウスピースを入れ込む。
 第2Rのゴングが鳴る。
自分から負けを選択する逃げの選択を断たれノックアウトされる瞬間がすぐ目の前まで迫っており精神的にも追い詰められている和葉にもはや夏希に立ち向かう気力などなかった。
夏希がラッシュを仕掛け、またも和葉は亀のように体を丸め顔面を両腕で塞いだ。それでもパンチは和葉の顔面に次々とヒットする。
 夏希のラッシュに防戦一方。右フックをブロックの上から当てられると両足で踏ん張れずに背中から倒れてしまった。
 派手に背中を打ちつけたために和葉は内部に走った衝撃で片目を瞑り、顔をしかめた。
 パンチをもらったわけではないからこれもスリップダウン。印象を悪くして制裁を受けるわけにはいかず早く立たなきゃと思い両目を見開くと、和葉の顔が引き攣った。夏希が右腕を振りかざしていた。そのまま和葉のお腹へと打ち下ろす。
 和葉の緩やかなお腹に全体重の乗せられた夏希の右拳がぶち込まれた。
 ドボオォォッ!!
 「ぶおぉぉっ!!」
 仰向けに寝ていた和葉の口が先細りに尖りコルクの栓が取れたかのように勢いよくマウスピースを吐き出した。真上へ上がったマウスピースがやがて下降すると和葉の顔に隣に大きな音を立てて大きく弾んだ。キャンバスから三度跳ねるとマウスピースは虚しくその場に止まった。  
 あまりの痛みに和葉は目をひん剥き舌を出して体がぷるぷると痙攣する。痛みに揺れる和葉のボディにはなおも夏希の右拳が打ち込まれていた。ぐりぐりと腹を抉り和葉をサディスティックに痛めつける。抉られるたびに和葉はあああああっと声を漏らし目からは涙が零れ落ちていく。痛みが絶頂に達した時、和葉の顔は弛緩しきってしまい口からは泡がぶくぶくと吹かれた。 
 レフェリーが大の字に寝ている和葉の顔を覘く。
 「だから、言ったろう。無暗に倒れると制裁を課せられると」
 レフェリーの言葉は和葉の耳には届かない。制裁を課すのはレフェリーではなく対戦相手の夏希だったのだと理解することもできず和葉は白目を向き失神していた。

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