第27話


 顔面の皮膚に冷たい液体が伝わり、和葉の目がぱちりと開いた。
顔を触ってみる。肌の感触の前に両腕にボクシングローブがはめられているのだと気付いた。肌の上にグローブを滑らせると液体が伸びていく感触が皮膚に伝わった。液体はさらりとしており、肌にはひんやりとした冷気が伝わる。
どうもそれは水のようだった。
 それから次にすることは・・・
 はっとして和葉は勢いよく上体を起こした。
 周りをきょろきょろと見る。すぐ側にはレフェリーが、赤コーナーには夏希がポストに背をもたせかけ腕組をし片足の踵をキャンバスから浮かせて立っている。見たくない余裕に満ち溢れた姿だ。
 状況がよく把握できない。
 和葉は途切れている記憶を探る。
 自分からキャンバスに倒れたところを夏希に拳を打ち下ろされて・・・それ以降の記憶はないのだからたぶん、気を失った。
 それからは・・
 「起きたか」
 レフェリーの低く重い声が隣から発せられた。和葉はびくっとレフェリーの方に顔を向けた。
 「早く立て。試合続行だ」
 「試合?私は気を失っていたんじゃ・・」
 「そうだ。だから水をかけて無理やり起こした。ダウンしている相手にパンチを当てても有効とは認められない。だが、故意ではないから夏希が咎められることもない」
和葉は言葉が出なかった。
故意ではないって・・。
 夏希のパンチは明らかに狙って打ったものだ。あれが故意と認められないのならルールなんてないようなものだ。それとも、故意にダウンした私が悪いっていうの?
ショックにうちひしがれているとふと、レフェリーと夏希が共謀しているのではないかと思った。 
 途端、レフェリーと夏希がインターバルで話あっていた光景が浮かんできた。レフェリーは和葉にしたのと同様に夏希にも故意にダウンすると制裁が課せられると注意したのだと思っていた。でも、事実はレフェリーが夏希に次に故意にダウンしたら倒れているところにパンチを当ててもかまわないとそそのかしていたのなら・・・
 ・・・・レフェリーは夏希の側についてしまったのだということになる。
 故意にダウンすることはもうできない。ううん、それだけじゃなくて、夏希の反則にだけは目を瞑られることになったらますます不利になってしまう。
 あくまで予測にすぎないのにそう思うだけで心がさらに重くなった。
 「さあ立て」
 ぐずぐずといつまで立っても立ち上がらない和葉の両脇にレフェリーが両手を挟み無理やり起こされた。
 両手をファイティングポーズの格好にさせられて鼻がひん曲がりそうな臭いを発散させているマウスピースを無理やり口の中に押し込められた。
 「はぐぅっ」
 強引に口の中に入れられたためにマウスピースが上手く装着できておらず和葉は右手ではめ込み具合を整えた。上唇が盛り上がっているのが右手からも分かる。歯を守るためだとは分かっていながらもなんでマウスピースを口の中にはめなきゃいけないのと思ってしまった。
 そもそも和葉はマウスピースが嫌いだった。口の中がずっと違和感のある状態になり窮屈だし、唾液が染み付くから汚らしいし匂いもたまったものじゃない。特に口から取りだして唾液が糸を引いている時や、マウスピースを吐き出して落ちたものをダウンから立ち上がった際にレフェリーからくわえさせられた時が汚らしいものをくわえていなきゃいけないと思わせられてたまらなく嫌だった。
 ばたばたとした足音が響くのに耳がいくと夏希が猛然とダッシュして目の前で距離を詰めていた。顔が青ざめた和葉は背中を丸め顔面を守ろうと両腕を上げた。ガードの上から容赦なく衝撃が落ちてくる。
 失神させられた上にそれでもまだ闘わせられていることに和葉は泣きたくてたまらなかった。人目がなかったら感情のたがが外れて泣いているだろう。
 しかし、今、目の前には自分を殴り倒そうとしている憎き対戦相手がいる。夏希を倒さなければ自分が倒されてしまうのだとそのへんは和葉も分かっており反撃しなきゃと弱い虫を見せる自分の心を叱咤させた。
 なのに、反撃のパンチを出そうすると肝心の両腕が動かなかった。パンチを出せば顔面のガードが甘くなる。一度パンチをもらうと一気に連打を食らってしまうのではないかと悪い方向に考えてしまいどうしても手が出ない。
 そうしているうちにがら空きとなったボディに一撃がめり込んだ。
 「ぐほおぅっ!!」
 和葉は唇を尖らせて死んだ魚のように唇をぱくぱくとさせた。そこはちょうど、失神させられた時にパンチを受けた箇所だった。和葉は鳩尾のあたりに両手を当てた。
 両腕のガードのカーテンはあっけなく崩れ落ち、夏希の右ストレートが和葉の顔面を打ち抜いた。夏希の拳で押し潰された和葉の鼻からは血が宙に撒き散った。
 たちまち、夏希のパンチの雨がどぼどぼと和葉の体にめり込み、和葉はロープに追いやられる。
 なお、夏希の猛攻は続いた。パンチを受ける度和葉の体には四本のロープが食い込む。 四本のロープがリングから和葉を逃げさせない。四本のロープが和葉の体をパンチの的となるように支え、そして、夏希に気持ちよく和葉を殴らせているかのようだ。
夏希の右フック。
 和葉の頭が右に飛んだ。
 グシャアッ!!
 今度は右に。そして、戻ってきたところに、
 ドボオォッ!!
 右ストレートで顔面を潰された。体ごと仰け反り頭がリングの外まではみ出た上に血がはかなくも散っていく。
 殺される。このままじゃ死ぬまで殴られちゃうよ・・・。
 逃げ出したかった。
 リングの上から逃げて誰もいないところに行きたかった。
 しかし、試合を投げ出すことは許されないのだ。
 早く試合が終わることを望むのなら立ち上がれられなくなるまで殴られろ。それがSeven piecesの鉄則である。二本の足でリングの上を踏みしめているかぎり殴られる。いつまで続くのかは分からない。その終わりは和葉がキャンバスに沈んだ時である。和葉から闘争心が消えて無くなってしまった以上は・・・
 グワシャアッ!!
 強烈な右ストレートが和葉の顔面を押し潰した。
 和葉の顔が苦痛のあまり緩み口元がしまりなく開いた。両腕がだらりと下がると、前のめりに崩れ落ち和葉の顔は夏希の胸元に埋もれた。
 「むぐぅ・・」
 和葉はそのまま顔を夏希の胸元に埋めたままでいた。体を夏希にいや、夏希の胸に預けていることで立っていられた。
 柔らかくかすかに弾力性の含んだ肌の感触が和葉には温もりとは程遠い気色の悪さを感じた。顔の圧力で潰れた胸の柔らかみがあまりにも生々しかった。
 しかし、突き放す気力など今の和葉には持っていやしないのだった。この状態が楽である以上、相手の胸に顔を埋め、顔を制圧されている屈辱的な姿であっても受け入れてしまえている。
 パンチの雨から一時だけ解放されることになった。それなのに一時の安らぎも感じることさえできない。
 右ストレートを受けてから時間も経ってるのに未だにずきずきとした鼻の疼きが止まらない。痛くてたまらなくて涙が溢れ出てしまう。
 激痛に耐えられず和葉の頬に一筋の雫が伝う。
 痛い・・痛いよ・・・。
 痛い思いしたくないからもう闘いたくなんかない・・・
 和葉の中である情景が浮かび上がる。
 空が夕焼けに包まれた放課後の帰り道だった。和葉は肩を落とし、顔を下げ気味にしながら歩いている。隣には珠希がいた。 
 「痛そうだったから・・・」
 和葉はぼそっと呟いた。
 「ん?」
 怪訝な顔で珠希は反応した。
 「痛い思いしたくないって思うとどうしても足がすくんじゃって・・」
 珠希は怪訝な顔を続ける。ややあって口を丸い形に開けた。
 「あー、昨日のことか」
 「うん・・」
 顔を下げたままの和葉の顔を珠希はじっと見つめる。
 「平気で人のこと殴れる女性になるのもどうかだよ」
 「でも、昨日だけじゃなくて、普段から怒らせると怖いから人に注意もかけられないし・・」
 「怖いねえ・・」
 珠希が片目を瞑り頭を掻いた。
 「恐れをまだ知ったことがないから立ち向かえる人間と、恐れを知ってるために立ち向かえない人間がいる」
 目を明後日の方向に向ける。それでまた戻した。
 「似たようなもんだよね。だから、立ち向かえるからって一概にすごいわけじゃないんだ。ホントにすごい人間は一握りなんだよ」
 「珠希は恐れを知ってて立ち向かっているの?」
 「さあ・・」
 両手を上げておどける。
 「でもさ、人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれると思うよ」
 「私は珠希が傷つけられてても強くなれなかった・・・」
 「そりゃあその時あたしがピンチじゃなかったからだ」
 珠希が笑う。
 つられて和葉の表情も和やかになった。
 珠希がピンチになった時頑張ろう。絶対に頑張るんだ。
 和葉の首筋がびくんと跳ね上がった。 
 和葉は夏希の左腕で首根っこの後ろを鷲掴みにされている。
 「いい加減にしてよ!」
 和葉は夏希の胴に回している両腕に必死になって力を入れる。お互いが歯を食い縛って力の勝負をする。
 胴に回していた両腕のロックが外れた。途端、抵抗しきれなくなり、徐々に夏希の胸元から顔が引き剥がされていく。ついには夏希のしてやったりな顔とご対面をする。
 和葉の顔が恐怖で引き攣った。
 その瞬間、和葉の顔面は潰されていた。強烈だった。和葉の後頭部が左腕で固定された状態でパンチを打たれたのだ。
めり込んでいた拳が引き抜かれると表れた和葉の顔面は目も鼻も潰れ、口がひん曲がっていた。
 栓が抜かれたかのように溜まっていた鼻血がブシュウッと噴き上がった。
 一発でまたも和葉の体から力が抜け落ち足は内股となって両腕ごと上体がだらりと下がり落ちる。
 しかし、首根っこを掴まれているのだから倒れたくても倒れられない。下がった和葉の体は両腕で顔面をもたれ無理やり起こされた。左腕で首根っこが右腕で頬が鷲掴みにされれていた。頬が中にへこみ真ん中に寄った肉の圧力で唇がタコのように尖らされている。右腕が頬から離れ後ろへと引かれた。
  和葉の表情は虚ろだ。
 私も明日香と同じようになるのか・・。
 明日香・・。
 明香の顔が浮かんだ。ボコボコに腫れ上がり白目を向いた明日香の顔。なんて酷いことをするの。明日香を必要以上に傷つけた夏希を許せなかった。
“人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれる“
 強くならなきゃ。今がその時だ。
 でも、力は入らない。どうすれば・・
 夏希の狂的な拳がうなりをあげて襲い掛かる。
 瞬間的な閃きはその時沸き起こった。   
 和葉は右の足を夏希の左足の外側に掛けてその足を引いた。バランスを失った夏希が体重をかける和葉の圧力に耐え切れず和葉の体共々後ろへ崩れ落ちていく。体が宙に浮く中で和葉の右拳が夏希のお腹に据えられる。夏希が下に和葉が上になってキャンバスに倒れた。
 「ぶへえっ!!」
 背中をキャンバスに打ちつけた音が掻き消されるほどの痛々しげな声が室内に響いた。室内にいた誰もがリングに振り向いてしまうほどの常軌を逸した苦しみの声。
 大量の唾液に包まれて煌びやかな光を纏うマウスピースが歪んだ口から糸を引く唾液と共に宙に吹き上がっていく。
 マウスピースを吐いたのは夏希であった。苦痛に満ち溢れたその顔は激痛のあまり尖った上唇と下唇の間から舌がはみ出てしまっている。 
 和葉は仰向けに倒れている夏希の上に乗りかかっていた。体力を消耗しきった和葉の顔は目を瞑っており、弱々しげにはぁはぁと息を漏らす。
 お互いがグロッギーとなって苦しみに喘いでいるが、一連の攻防に勝ち試合の流れを引き寄せたのは紛れもなく和葉の方だ。
 和葉の右拳は深々と夏希のボディにめり込まれていたのだった。



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